次の日。
費赫は、英布のもとを訪れた。
「昨日、臣のところに随何が訪ねて参りました。
直接対面して話を聞いてみたところ、どうやら、彼は漢の説客ではなかったようです。
故郷へ帰る途中で九江を通りかかり、英布様の徳を慕って謁見を求めております。
どうか、随何に会ってやってくださいませ」
英布は、低くうなった。
「ふーん……そうなのか?
俺を慕って来た人を、対面もせずに追い返すのは、はなはだ無礼だ。そういうことなら会わねばなるまい。
では、随何を連れてきてくれ」
費赫は自宅に使いを送り、すぐに来るよう随何に伝えた。
連絡を受けた随何は、心中ひそかに喜んだ。
「よし。これで私の計略は成った」
そして随何は、何食わぬ顔で宮殿に向かった。
宮殿についてみると、九江王英布は、わざわざ座を降りて丁重に礼を施し、みずから随何を堂の上に招き入れた。
英布は、随何に、こう訊ねた。
「御辺は、長いあいだ漢に仕えていて、漢の内情をよく知っていよう。
傍から見ていて不思議だったのは、あの睢水での大敗のことだ。
漢王は、どうしてあの戦いで韓信を用いなかったのか? 韓信であれば、あんな無様な戦いはしなかっただろう。
そして今、漢王は滎陽に留まっているとか。今後についてどのような計画を議論しておられるのかな?」
随何は、流れるように答えだした。
「漢王様は、以前に義帝のために喪を発し、檄文を送って天下の諸侯と語らいなさいました。
そのため、誰もが深く覇王項羽を恨み、帰服してくる者が雲のように無数に現れました。
その諸侯が、ともに力を合わせて楚を滅ぼそうと誓いましたから、『これで戦力は十分である』と漢王様は判断なさいました。
そこで、韓信を三秦に留め置いて本拠地を守らせることにしたのです。
しかし、ここで思いもよらぬ事態が起きました。
というのも、覇王項羽が諸国へ使者を飛ばし、こんな主張をしたのです。
すなわち、『義帝を弑逆した真犯人は、九江の英布である。早く兵を起こして、不倶戴天の仇を討とうではないか』と……」
英布は、思わず椅子を蹴って立ち上がった。
「なッ!? なんだとォ!?」
随何は、顔色ひとつ変えずに続ける。
「このため、天下の諸侯はことごとく九江王英布様を疑い、漢王様への協力を中止してしまいました。
特に斉、梁、燕、趙の4国は、『ともに九江王を討伐して、義帝弑逆の罪を正そう』と固く盟約をなし、日ならずして大軍を起こして九江へ攻め込む計画をしているそうです。
まったく無道の項羽ときたら、自分の悪名を英布様に押し付け、自分だけ罪を免れようとしているのです。
それなのに英布様は、恬としてこの事態を御存知ない。
もし諸侯が兵を合わせて攻めてきたら、天下の人々は、ますます英布様を極悪人と思い込むでしょう。
たとえ英布様が中国全ての家々を回って、1人1人に真実を説明して回っても、一体だれが信じてくれるでしょうか。
そんなことになってしまえば、もはや英布様が身を守る手段は無くなります。
まだ災いが及んでこないうちに、早く何か手を打つことをお勧めしますよ」
英布は、これを聞くと、飛び上がって、すさまじく激怒した。
そして北を……彭城の方角を睨み、天地が震えるほどの声で罵った。
「項羽ッ! この匹夫め!
俺だって義帝を殺したくはなかった! 貴様が命じるから嫌々やったことではないか!
あのときだって、臣下の者たちが総出で諌めた……だが項羽、貴様は全く耳を貸さなかっただろう!
それなのに、義帝殺害の罪を俺に押し付けただと!?
しかも諸国に触れを出して、俺を殺そうとしているだと!?
そんなことで自分だけ罪を免れられると思っているのか!
許さんぞ項羽ッ!
もう貴様には愛想が尽きた!
必ずや、この恨みを雪いでやる!」
随何は、慌てて英布を止めた。
「英布様! どうか落ち着いて、お怒りを静めてくださいませ。
そんな発言が彭城へ伝わったら、項羽は、ますます怒るでしょう」
英布は、毅然として首を横に振った。
「そんな心配は無用だ。
かつて俺は、項羽に指示されて、秦王子嬰を殺し、始皇帝の墓を暴き、長江において義帝を弑逆した。
この3つの悪行を、俺はずっと後悔していた……
俺が自分の意志でやったことだと天下の人に思われるのが怖かった……
案の定、こうなってしまった!
こんな悪名は我慢ならん!
この恨みは、たとえ死すとも尽きることはない!
項羽の怒りなど知ったことか!」
ここで随何は、英布の心の隙間に滑りこもうとするかのように、温かな微笑を浮かべた。
「英布様。その誤解を解きたいとお考えなら、それは難しいことではありません。
漢と協力し、力を合わせて楚を討ち、覇王項羽の罪を正せばよいのです。
さすれば、何が真実で何が嘘か、本当に汚れた人間は誰なのか、おのずからハッキリするでしょう。
一方、英布様がこのまま九江に留まっていれば、いつか漢王様が諸侯の軍勢と共に攻めて来ます。
英布様は楚の覇王から封爵を受けておられますから、当然、項羽の一味とみなされるでしょう。
そうなった後では、どんなに弁解なさっても、罪を免れることは、できますまい。
それがしが愚考いたしますに、ここは速やかに漢に帰服なさるのが一番良い道でございます。
漢に協力して戦えば、天下の人々は、項羽こそが義帝を弑逆させた真の大逆人ということを理解します。
そのときには、英布様は悪名を洗い清めて、弑逆の罪も免れます。
そればかりか、人々は『九江王こそ、無道の項羽を誅殺した、本物の正義と勇気の人だ』と、万世に渡って褒めたたえることでしょう。
これこそ、はるか先まで見据えた策というものではありませんか。
まして今、漢王様は諸侯を集めて滎陽に駐屯し、蜀・漢から送られてくる食糧を貯えながら、じっと守りを固めております。
対する楚は、先ごろの斉討伐をはじめとして、反乱鎮圧のために深く敵国に入り込み、老いも若きも遠くまで兵糧を運ばされている。
楚と漢、どちらの方針が優れているかは自明でしょう。
万全の漢に味方せず、滅亡の危機にある楚を助けなさる……そんな選択は、とてもお勧めできません。
どうか英布様、これらのことを良くお考えくださいませ」
英布は、座を離れると、随何の目の前まで寄ってきた。
「うむ……
実は、俺は近ごろ、項羽との関係が上手くいっていなかったのだ。
一方、漢王は心が広く、仁義ある方だと聞いている。
どうか随何先生、しばらくこの国に留まってくださらないか。
俺は重臣たちとよく相談して意志を固め、先生と一緒に滎陽へ行って、漢王に謁見したいと思う」
と、その時であった。
英布の部下がやってきて、こんなことを報告した。
「ただいま、楚からの使者が覇王項羽様の詔書を届けてまいりました」
英布は、すぐに楚の使者を招き入れ、項羽からの詔書を受け取った。
詔書を開いてみると、その内容は、こうである。
『主君が軍隊を動かせば、臣はそれに加わって助ける。これこそ、心膂の托(重臣として主君を支える道)というものである。
ところが、九江王英布は領国に居座って、ひたすら安逸を貪るばかりだ。
斉討伐の時も病気を言い訳にして出兵を拒否し、睢水での会戦も座して勝負の行方を見るだけだった。
朕が将兵の苦労をねぎらっている間、汝は一言も楚軍に慰労の言葉をかけなかった。
これは君臣の義を失う行為である。そして、苦楽を共にした我らの友情にも反することである。
己の武勇を頼みとして、こんな狂った反逆行為に走るとは!
汝の罪を問うために使者を差し向けよう。そうすれば、汝はきっと驚くであろう。
それが嫌であれば、今すぐに兵を出して我らと合流し、漢の劉邦を討伐せよ。
星のまたたく夜も徹して駆けつけよ! 遅れは許さぬ。
以上、ここに詔して諭す』
(つづく)