英布は、項羽からの詔書を読み終えると、石のように固まってしまった。
これを読む限り、項羽は怒っている。怒ってはいるが、すぐに駆けつけるなら許す、とも読める文章である。
項羽の異常なまでの強さは、つい先日、彭城・睢水での戦いで証明されたばかりだ。
ここは項羽の言葉に従っておいたほうが安全なのではないか?
だが、項羽は憎い。耐えがたく憎い……
英布は、項羽と劉邦のどちらにつくか、決心することができず、ひたすら沈黙して立ち尽くした。
と、そのとき。
随何が急に進み出て、楚からの使者へ怒鳴りつけた。
「九江王様は、すでに漢に降りなさったのだ!
どうして楚を助けることなどできようか!」
楚の使者は、大いに驚いた。
「なにっ!? 汝は何者だ!?」
随何が答える。
「我は漢の使者、随何なり!
たった今、九江王英布様と盟約を結び、ともに楚を討って義帝の仇を取ることを決めた!
これでもまだ分からないか!」
楚の使者は、顔面蒼白となって、英布に目を向けた。
英布は、無言のまま目をそらしている……随何の言葉を否定する様子が無い。つまり、真実ということだ。
「た、大変だっ」
楚の使者は、慌ててその場から逃げ出した。
すかさず随何が英布に叫ぶ。
「英布様! 項羽の詔書を見れば明白でしょう! 項羽は、自分の罪を英布様に押し付け、それを理由にして殺すつもりですぞ!
英布様ッ! 漢を助けて楚を攻める態度を示しなさい! あの使者を殺すのです!」
英布は……
「ウ……ウオオオオオッ!」
と獣のように吠えて剣を抜き、楚の使者に駆け寄って、引っつかんだ。
そして、楚の使者を一刀のもとに斬殺すると、項羽からの詔書を微塵に引き裂いてしまった。
ことが済むと、英布は謀士費赫を呼んだ。
「……費赫よ。
俺は漢に降ることにした。今からすぐに滎陽へ向かう。
汝は、俺の一族を守護して、後から来い」
*
英布は人馬を整えると、随何とともに滎陽を訪れた。
まず随何が先に入って事の次第を報告すると、すぐに英布は城の奥に招き入れられた。
そこで英布は、劉邦と対面した……のだが。
劉邦の姿を見るなり、英布は唖然とした。
なんと劉邦は、床に座って足を洗いながら、客人たる英布と対面したのである。
「おう、九江王殿かあ。よく来てくれた。
後でゆっくり話そう。まぁ、とりあえずくつろいでくれぇ」
と、劉邦の声も眠たげである。
英布は、部屋から退出すると、大いに後悔して随何に食ってかかった。
「これは一体どういうことだ!?
漢王劉邦は、度量が大きく、人を敬う男だと聞いていた……だが聞くと見るとでは大違いではないか!
なんなんだ、あの無礼な態度は!
俺は一国の王だぞ! あんな侮辱には耐えられん!
だが随何よ、お前に唆されて、俺はもう項羽を裏切ってしまった!
いまさら引き返すこともできん……
お前などを信じた俺がバカだった! こうなったら自害して死んでやる!」
英布は剣を抜き、自分の首に突き立てようとした。
随何が慌てて飛びつき、英布を止める。
「いやいや! 英布様、しばらく、しばらく我慢してくださいませ。
いや、漢王様にも困ったものですな。どうも昨夜、深酒なさったようで、まだ二日酔いから醒めておられないのです。
それでつい、失礼なマネを……後で正式な謁見の場が設けられます。どうか落ち着いてくだされ」
英布は、力無く剣を降ろした。
「本当だろうな……?」
あの豪傑英布が、まるで怯えた子犬のように不安げな顔である。
すでに項羽に反逆する態度を示してしまった英布だ。もしここで劉邦にも軽んじられるようなら、どこにも行き場が無くなってしまう。
不安に駆られるのも無理ない話である。
さて、それからしばらく、英布が客室で休んでいると……
張良、陳平といった漢の重臣たちが、英布の客室を訪ねてきた。
張良たちは、英布を宴席に案内し、礼を尽くして、もてなした。
最上の美酒に美食。杯や食器の類も目を見張るほどに豪華で、漢王劉邦自身が用いるものと全く同じものが用意されていた。
そのうえ、名だたる重臣たちが下にも置かぬ歓待をしてくれるので、英布は徐々に頬を緩ませはじめた。
しばらくすると、文武の諸将が総出で迎えにやってきた。
「謁見の準備が整いました。
九江王様、どうぞ奥へお通りくださいませ」
英布は、諸将に案内されて、劉邦の前にやってきた。
そこで英布は、目を見張った。
劉邦は、衣冠を正しく整え、真の王者の威厳を全身から漂わせているではないか。
さらに、英布と語らう一言一言が、礼儀作法にきちんと則っているうえ、謙虚で慎み深い。
談笑する一声一声が、闊達(度量が大きい)で好ましい。
話せば話すほど好きになってしまう、というのだろうか。不思議な人間的魅力にあふれているのである。
ついさきほどの、ぞんざいで無礼な態度とは、まるで別人のようだ。
英布は、深く感動した。
「なるほど、漢王劉邦は、本物の大人物だ。
随何が言ったことは本当だったんだな……」
こうして、英布は正式に漢に帰服。
九江の軍勢3万騎が、漢軍に加わることとなった。
劉邦は英布の帰服を限りなく喜び、すぐさま次の行動に移った。
「英布が味方に付いたことを、彭越に伝え、行動を促そう。
彭越の軍勢に楚の輸送部隊を襲わせ、糧道を遮断するんだ!」
劉邦からの使者は、彭越のいる梁国へと飛んだ。
要請を受けた彭越は、すぐさま糧道遮断作戦にとりかかった。
*
一方そのころ。
彭城の項羽は、英布に送った使者が殺されたことを耳にして、すさまじく怒った。
「黥面の賊め!(英布は過去の罪で顔に黥を入れられていたため、黥布と綽名されていた)
よくも俺を裏切りやがったな!
大将たちに、いますぐ戦準備をさせろ!
まず英布を誅殺し、次に韓信を捕らえ、反逆者どもの罪を正してやるっ!」
そこへ、老軍師范増が進み出て諌めた。
「覇王陛下、怒りを静めなされ。
なあに、英布の反乱など、それほど憂うることはありませんぞ。
今は斉討伐を終えたばかりで、軍馬が疲れております。
まずは軍を休ませ、訓練を重ねて強化することに努めましょう。
英布よりも気がかりなのは、梁の彭越の動きだ。
どうやら彭越は、神出鬼没の攻撃をしかけて、我が軍の糧道を断つ狙いのようです。
輸送に不安を抱えていては、勝てる戦も勝てなくなります。
よって、第一に彭越を排除し、糧道を確保する。
第二に韓信を破り、三秦を取り戻す。
それから都を咸陽に遷し、各地の諸侯に帰順を呼びかけるのです。
さすれば英布はもちろんのこと、水が高所から低所へ流れ落ちるように天下の諸侯が集まってくるでしょう。
これが最上の計でございますぞ」
范増から冷静に諭されて、項羽は、ようやく少し怒りを静めた。
「そうか……くそっ。それしかないのか……」
(巻九へ、つづく)
■次回予告■
英布・彭越を味方につけて、勢力を回復した漢軍。しかし肝心かなめの大元帥が、いまだ連絡もよこさない。「漢王みずから迎えに来るまで絶対顔を出してやるものか」と自宅へ引きこもる国士無双。困り果てた劉邦に泣きつかれ、軍師張良が一計を案じる。
完全にヘソを曲げたあの気難し屋を、今一度表舞台に引き出すことはできるのか?
次回「龍虎戦記」第四十九回
『ただいま韓信ふてくされ中』
乞う、ご期待!