覇王項羽との戦いで手痛い大敗を喫した漢王劉邦は、滎陽に拠点を置き、勢力を盛り返すべく懸命の活動を続けていた。
まず、項羽の右腕たる九江王英布を説得して味方につけることには成功。
次に、梁国へ使者を派遣し、彭越に、楚の糧道遮断を依頼した。
この依頼を、彭越は二つ返事で了承。さっそく楚の輸送隊へ神出鬼没の襲撃を開始した。
項羽との再戦に向けて、着々と準備は進んでいる。
だが、劉邦には、1つ大きな心配事が残っていた。
ある時、劉邦は軍師張良を呼び出した。
「先生の計略通り、英布と彭越を味方につけることができた。
ただ……韓信が、いまだに俺のところに戻ってこないんだ。
張良先生。先生の力で、韓信を招き寄せてくれないか?」
張良は、いつものように微笑した。
「分かりました。
幸い、今、蕭何相国が兵糧輸送のために咸陽まで出てきています。
臣が咸陽に行き、蕭何殿と相談して、韓信を連れてくるように計らいましょう」
その翌日、張良は滎陽から旅立った。
数日後、関中の都咸陽に到着した張良は、まず丞相府へ向かった。
蕭何相国は、きちんと衣服を整えて張良を出迎えた。
「おお、張良先生! お久しゅうございますな。
ご活躍の噂は、関中にまで聞こえておりましたぞ」
張良は、蕭何に敬意を払って、深々と拝礼した。
「蕭何殿こそ、兵糧・物資の調達と輸送、いつもながら見事な手際です。
前線の漢軍はいつも助けられておりますよ」
張良と蕭何は、酒を酌み交わして再会を喜んだ。
その席上で、張良が、頃合いを見て本題を切り出した。
「さて……私が咸陽に来たのは、韓信のためなのです。
大元帥を解任されて以来、韓信とまったく連絡が取れていません。
彼は今、どうしているのです? まさか病などでは?」
蕭何は、困り顔で首を振った。
「いや、別段どこが悪いというわけでもないのです。
ただ、大元帥を解任されて咸陽に戻ってきてからというもの、韓信は日夜鬱々として楽しまぬ様子で……
私も気がかりだったので、話を聞きに行ったのですよ。
すると韓信は、こう申しました。
『漢王様は、私が三秦を破り、咸陽を攻め取った功績を、忘れてしまわれたようだ。
私から大元帥の印章を奪い、無能の魏豹などを用いなさった。まったく、面白くない』
と……
その後、漢王様が睢水で大敗なさったことが、咸陽にも伝わってきまして。
それ以来、韓信は自宅に引きこもり、誰一人として中に入れようとしなくなりました。
私も、たびたび韓信を訪ねているのですが、一度も会ってくれないのです。
これは私の推測ですが、韓信は、漢王様みずから礼を尽くして迎えに来てくださるのを待っているのではないでしょうか。
気持ちは分からんでもないですが、これはちと、人臣の礼を失った思い上がりというものだ。
たとえ張良先生がお行きになっても、おそらく韓信は顔を見せないでしょう。
一体どうしたらよいのやら……」
蕭何の話を聞き終えると、張良は、やや長く考え込んだ。
しばらくして、張良は蕭何の耳元に口を寄せ、小さく、ささやいた。
「かようかようにすれば、韓信は必ず自分から出てくるでしょう……」
蕭何は、ぱっと顔に喜色を浮かべた。
「おお! それはすばらしい計だ!」
さっそく蕭何は、信頼できる部下を呼んで、ひそかに命じた。
「咸陽城の各門に高札(立て札)を立てよ。
その文面は……」
その日のうちに、咸陽の東西南北4つの門に高札が立てられた。
そこに記された文章は、驚くべきものであった。
『漢王劉邦は、関中の地をことごとく覇王項羽に献上して降参する』
*
この衝撃的な発表のことは、すぐさま韓信にも伝わった。
韓信に仕える部下たちが、青ざめた顔でこう訊ねたのだ。
「今、張良先生が滎陽からお越しになって、丞相府に滞在しておられるようなのですが……
その丞相府から、『関中を楚に献上して降伏する』という発表が出たのです。
大元帥は、このことを御存知でしたか?」
部下たちは大慌てであったが、そこはさすがの韓信である。落ち着きはらって、小馬鹿にしたような微笑を浮かべた。
「心配するな。
これは張良の詭計(詭く計略)だ。
こういうことを言えば、私が慌てて出てきて楚討伐のために動き出すと思ってるのさ。
お前たちは気にしなくてもよい」
部下の1人が進み出た。
「いや、とても虚言とは思われません。
四方の門に札を立て、城中の人間に知れ渡らせているのですよ。
大元帥、油断なさってはいけません」
と、ちょうどその時、韓信の屋敷の門を叩く者があった。
来客に用件を尋ねてみると、答えはこうである。
「私は丞相府からの使者です。
先日、睢水で敗北した際に、太公や呂后が楚に捕らえられてしまいました。
漢王様は、このことを深くお悩みになり、御一族を返してくれるよう、何度も覇王項羽に要求しました。
ところが項羽の回答は、『関中の地を献上して降参するならば、太公も一族も送り返してやる』というもので……
それゆえ張良は、漢王様の命を受け、楚の使者を伴って丞相府を訪れました。
張良は今、蕭何相国と協力して、咸陽引き渡しの準備を進めておられます。
その一環として、私は家々の住民の数を調査しております。
こちらの御屋敷にいる人数を、すべて記録せねばなりません。老人、子供、男、女、それぞれ何人いるかを点検し、その数を書いて提出していただきたい」
「……なんだと?」
韓信は眉をひそめ、丞相府の役人を屋敷内に入れるよう命じた。
役人と対面した韓信は、苛立ちを隠せない様子である。
「私は大元帥だ。なぜ普通の人民と同じように調査されねばならん?」
役人は困り顔で答える。
「そう言われましても、蕭何相国からの厳命なのです。
『官僚・宦官・軍人・人民のいずれであるかは問わず、あらゆる家を調査せよ。ここは官僚の家、ここは人民の家、というように、遺漏なく明確に分類してまとめるのだ』
と……
それに、楚国の使者は、極めて騒がしい性格の男です。
もし少しでも間違いがあったら、私はきっと罪を負わされてしまいます。
大元帥、どうか私を憐れと思ってご協力くださいませ」
韓信は、だんだんソワソワし始めた。
「……事情は分かった。
君、とにかく今日のところは帰りたまえ。
とりあえず今日は他所の家を調査し、明日また来なさい。その時は調査に協力しよう。
心配しなくても、私は約束は守るから」
しかし役人は、涙まで流しながら訴えた。
「そういうわけにはいきませんよぅ! それでは蕭何相国の命に背くことになってしまいます。
どうしてもと仰るなら、大元帥から、その旨を一筆書きつけていただけませんか?
それなら、私が飽くまで命を果たそうとしたことが証明できて、罪を免れましょうから」
韓信は、戸惑った。
さまざまな言葉を用いて役人を説得しようとしたが、役人は、どうしても立ち去ろうとしない。
ついには門のところに座り込み、大泣きに泣きだしてしまった。
韓信は、ゾッと寒気を覚えた。
「あのしつこさ、切実さ……とても演技とは思えない。
まさか……まさか、咸陽を明け渡すというのは本当なのか!?
バカな!
この三秦を攻め取るために、私がどれだけ心を砕き、力を尽くしたと思っているのだ!
漢王様は、その勲功を、こんなにあっさり無にしてしまうのか? いったいどういうおつもりなのだ!
漢王様は、以前から人を侮り軽んじる悪癖があった。
だから私は家に引きこもり、漢王様が、みずから礼を厚くして迎えに来られるのを待っていたのだ。
そうすれば、諸侯や諸将も私を重く見て心服するだろうと考えていたのだ。
だが……
こんな事態になったからには、もう黙って見てはいられない!
早く丞相府へ行って、張良や蕭何に、事の真偽を問いたださねばならぬ!」
韓信は、部下に命じて準備をさせると、目を見張るような行列を作って、丞相府へ向かった。
おびただしく軍旗を立てつらね、左の部下には斧を、右の部下には鉞を持たせ、剣と戟を陽光にキラめかせながら進む。
韓信のみならず、手下の大将や兵士たちも、それぞれに見事な鎧を身に着け、軍馬は整然として隊伍を乱さない。
威風凛々たる韓信の行列は、咸陽の人民たちを大いに驚かせた。
咸陽の人民は、道の脇に集まって、韓信の行列を見ながら語り合った。
「見ろ、韓信大元帥が丞相府へ向かっておられるぞ。
これはきっと、楚に降伏するのを無念に思い、張良や蕭何と協力して漢王様を諌めるつもりなんだ。
漢王様が楚に降伏してしまったら、たちまち項羽が来て咸陽を都にするだろう。
そうしたら、我々はまた塗炭の苦しみを受けることになる。本当に、なんとかしてほしいよ!」
この言葉は、道を行く韓信の耳にも届いていた。
「くそっ! もう完全に咸陽の民衆にも知れ渡っているではないか!
疑う余地は無い。降伏は本当なのだ!」
韓信は、ますます憤り、丞相府へ急いだ……
*
一方、丞相府。
奥にいた蕭何の元に、韓信から先触れの使者が送られてきた。
「韓信大元帥が、蕭何相国・張良先生にお会いすべく、いま丞相府へ向かっております」
蕭何と張良は、2人で手を打って大笑い。
「やった! 韓信が、ついに我が計に当たったぞ!」
蕭何は、すぐに韓信を迎える準備にかかった。
まず、調査書作りの担当官を、部屋の左右に大勢並べて座らせ、いかにも大急ぎで書類作成に取り組んでいるかのように見せかけた。
それから、
「張良先生、最初は隠れていてくださいませ」
と打ち合わせ、韓信の到着を待った。
(つづく)