龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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巻九 背水の陣
四十九の上 ただいま韓信ふてくされ中


 

 

 覇王項羽との戦いで手痛い大敗を(きっ)した漢王劉邦は、滎陽(けいよう)に拠点を置き、勢力を盛り返すべく懸命の活動を続けていた。

 

 まず、項羽の右腕たる九江王英布を説得して味方につけることには成功。

 

 次に、(りょう)国へ使者を派遣し、彭越(ほうえつ)に、()糧道(りょうどう)遮断を依頼した。

 この依頼を、彭越(ほうえつ)は二つ返事で了承。さっそく()の輸送隊へ神出(しんしゅつ)鬼没(きぼつ)の襲撃を開始した。

 

 項羽との再戦に向けて、着々(ちゃくちゃく)と準備は進んでいる。

 だが、劉邦には、1つ大きな心配事が残っていた。

 

 ある時、劉邦は軍師張良を呼び出した。

「先生の計略通り、英布と彭越(ほうえつ)を味方につけることができた。

 

 ただ……韓信が、いまだに俺のところに戻ってこないんだ。

 張良先生。先生の力で、韓信を招き寄せてくれないか?」

 

 張良は、いつものように微笑(びしょう)した。

「分かりました。

 (さいわ)い、今、蕭何(しょうか)相国(しょうこく)兵糧(ひょうろう)輸送のために咸陽(かんよう)まで出てきています。

 臣が咸陽(かんよう)に行き、蕭何(しょうか)殿と相談して、韓信を連れてくるように(はか)らいましょう」

 

 その翌日、張良は滎陽(けいよう)から旅立った。

 数日後、関中の(みやこ)咸陽(かんよう)に到着した張良は、まず丞相(じょうしょう)府へ向かった。

 

 蕭何(しょうか)相国(しょうこく)は、きちんと衣服を整えて張良を出迎えた。

「おお、張良先生! お久しゅうございますな。

 ご活躍の(うわさ)は、関中にまで聞こえておりましたぞ」

 

 張良は、蕭何(しょうか)に敬意を払って、深々と拝礼した。

蕭何(しょうか)殿こそ、兵糧(ひょうろう)・物資の調達と輸送、いつもながら見事な手際(てぎわ)です。

 前線の漢軍はいつも助けられておりますよ」

 

 張良と蕭何(しょうか)は、酒を()み交わして再会を喜んだ。

 その席上で、張良が、頃合(ころあ)いを見て本題を切り出した。

 

「さて……私が咸陽(かんよう)に来たのは、韓信のためなのです。

 大元帥を解任されて以来、韓信とまったく連絡が取れていません。

 彼は今、どうしているのです? まさか(やまい)などでは?」

 

 蕭何(しょうか)は、困り顔で首を振った。

「いや、別段どこが悪いというわけでもないのです。

 ただ、大元帥を解任されて咸陽(かんよう)に戻ってきてからというもの、韓信は日夜(にちや)鬱々(うつうつ)として楽しまぬ様子で……

 

 私も気がかりだったので、話を聞きに行ったのですよ。

 すると韓信は、こう申しました。

『漢王様は、私が三秦(さんしん)(やぶ)り、咸陽(かんよう)を攻め取った功績を、忘れてしまわれたようだ。

 私から大元帥の印章を奪い、無能の魏豹(ぎひょう)などを用いなさった。まったく、面白くない』

 と……

 

 その後、漢王様が睢水(すいすい)で大敗なさったことが、咸陽(かんよう)にも伝わってきまして。

 それ以来、韓信は自宅に引きこもり、誰一人として中に入れようとしなくなりました。

 私も、たびたび韓信を(たず)ねているのですが、一度も会ってくれないのです。

 

 これは私の推測ですが、韓信は、漢王様みずから礼を尽くして迎えに来てくださるのを待っているのではないでしょうか。

 気持ちは分からんでもないですが、これはちと、人臣の礼を失った思い上がりというものだ。

 

 たとえ張良先生がお行きになっても、おそらく韓信は顔を見せないでしょう。

 一体どうしたらよいのやら……」

 

 蕭何(しょうか)の話を聞き終えると、張良は、やや長く考え込んだ。

 しばらくして、張良は蕭何(しょうか)の耳元に口を寄せ、小さく、ささやいた。

「かようかようにすれば、韓信は必ず自分から出てくるでしょう……」

 

 蕭何(しょうか)は、ぱっと顔に喜色を浮かべた。

「おお! それはすばらしい計だ!」

 

 さっそく蕭何(しょうか)は、信頼できる部下を呼んで、ひそかに(めい)じた。

咸陽(かんよう)城の各門に高札(こうさつ)(立て(ふだ))を立てよ。

 その文面は……」

 

 その日のうちに、咸陽(かんよう)の東西南北4つの門に高札(こうさつ)が立てられた。

 そこに記された文章は、驚くべきものであった。

 

『漢王劉邦は、関中の地をことごとく覇王項羽に献上して降参する』

 

 

   *

 

 

 この衝撃的な発表のことは、すぐさま韓信にも伝わった。

 韓信に仕える部下たちが、青ざめた顔でこう(たず)ねたのだ。

 

「今、張良先生が滎陽(けいよう)からお()しになって、丞相(じょうしょう)府に滞在しておられるようなのですが……

 その丞相(じょうしょう)府から、『関中を()に献上して降伏する』という発表が出たのです。

 大元帥は、このことを御存知(ごぞんじ)でしたか?」

 

 部下たちは大慌てであったが、そこはさすがの韓信である。落ち着きはらって、小馬鹿(こばか)にしたような微笑(びしょう)を浮かべた。

 

「心配するな。

 これは張良の詭計(きけい)(あざむ)く計略)だ。

 こういうことを言えば、私が慌てて出てきて()討伐のために動き出すと思ってるのさ。

 お前たちは気にしなくてもよい」

 

 部下の1人が進み出た。

「いや、とても虚言(きょげん)とは思われません。

 四方の門に札を立て、城中(しろじゅう)の人間に知れ渡らせているのですよ。

 大元帥、油断なさってはいけません」

 

 と、ちょうどその時、韓信の屋敷の門を叩く者があった。

 

 来客に用件を(たず)ねてみると、答えはこうである。

「私は丞相(じょうしょう)府からの使者です。

 

 先日、睢水(すいすい)で敗北した(さい)に、太公や呂后が()に捕らえられてしまいました。

 漢王様は、このことを深くお悩みになり、御一族を返してくれるよう、何度も覇王項羽に要求しました。

 

 ところが項羽の回答は、『関中の地を献上して降参するならば、太公も一族も送り返してやる』というもので……

 それゆえ張良は、漢王様の(めい)を受け、()の使者を(ともな)って丞相(じょうしょう)府を(おとず)れました。

 張良は今、蕭何(しょうか)相国(しょうこく)と協力して、咸陽(かんよう)引き渡しの準備を進めておられます。

 

 その一環(いっかん)として、私は家々(いえいえ)の住民の数を調査しております。

 こちらの御屋敷にいる人数を、すべて記録せねばなりません。老人、子供、男、女、それぞれ何人いるかを点検し、その数を書いて提出していただきたい」

 

「……なんだと?」

 韓信は眉をひそめ、丞相(じょうしょう)府の役人を屋敷内に入れるよう(めい)じた。

 

 役人と対面した韓信は、苛立(いらだ)ちを隠せない様子である。

「私は大元帥だ。なぜ普通の人民と同じように調査されねばならん?」

 

 役人は困り顔で答える。

「そう言われましても、蕭何(しょうか)相国(しょうこく)からの厳命(げんめい)なのです。

 『官僚(かんりょう)宦官(かんがん)・軍人・人民のいずれであるかは問わず、あらゆる家を調査せよ。ここは官僚(かんりょう)の家、ここは人民の家、というように、遺漏(いろう)なく明確に分類してまとめるのだ』

 と……

 

 それに、()国の使者は、極めて騒がしい性格の男です。

 もし少しでも間違(まちが)いがあったら、私はきっと罪を()わされてしまいます。

 大元帥、どうか私を(あわ)れと思ってご協力くださいませ」

 

 韓信は、だんだんソワソワし始めた。

「……事情は分かった。

 君、とにかく今日のところは帰りたまえ。

 とりあえず今日は他所(よそ)の家を調査し、明日また来なさい。その時は調査に協力しよう。

 心配しなくても、私は約束は守るから」

 

 しかし役人は、涙まで流しながら(うった)えた。

「そういうわけにはいきませんよぅ! それでは蕭何(しょうか)相国(しょうこく)(めい)(そむ)くことになってしまいます。

 

 どうしてもと(おっしゃ)るなら、大元帥から、その(むね)一筆(いっぴつ)書きつけていただけませんか?

 それなら、私が()くまで(めい)を果たそうとしたことが証明できて、罪を(まぬが)れましょうから」

 

 韓信は、戸惑(とまど)った。

 さまざまな言葉を用いて役人を説得しようとしたが、役人は、どうしても立ち去ろうとしない。

 ついには門のところに座り込み、大泣きに泣きだしてしまった。

 

 韓信は、ゾッと寒気を覚えた。

「あのしつこさ、切実さ……とても演技とは思えない。

 まさか……まさか、咸陽(かんよう)を明け渡すというのは本当なのか!?

 

 バカな!

 この三秦(さんしん)を攻め取るために、私がどれだけ心を(くだ)き、力を尽くしたと思っているのだ!

 漢王様は、その勲功(くんこう)を、こんなにあっさり無にしてしまうのか? いったいどういうおつもりなのだ!

 

 漢王様は、以前から人を(あなど)(かろ)んじる悪癖(あくへき)があった。

 だから私は家に引きこもり、漢王様が、みずから礼を厚くして迎えに来られるのを待っていたのだ。

 そうすれば、諸侯や諸将も私を重く見て心服するだろうと考えていたのだ。

 

 だが……

 こんな事態になったからには、もう黙って見てはいられない!

 早く丞相(じょうしょう)府へ行って、張良や蕭何(しょうか)に、(こと)の真偽を問いたださねばならぬ!」

 

 韓信は、部下に(めい)じて準備をさせると、目を見張るような行列を作って、丞相(じょうしょう)府へ向かった。

 

 おびただしく軍旗を立てつらね、左の部下には斧を、右の部下には(まさかり)を持たせ、剣と(げき)を陽光にキラめかせながら進む。

 韓信のみならず、手下の大将や兵士たちも、それぞれに見事な(よろい)を身に着け、軍馬は整然として隊伍(たいご)を乱さない。

 

 威風(いふう)凛々(りんりん)たる韓信の行列は、咸陽(かんよう)の人民たちを大いに驚かせた。

 咸陽(かんよう)の人民は、道の(わき)に集まって、韓信の行列を見ながら語り合った。

 

「見ろ、韓信大元帥が丞相(じょうしょう)府へ向かっておられるぞ。

 これはきっと、()に降伏するのを無念に思い、張良や蕭何(しょうか)と協力して漢王様を(いさ)めるつもりなんだ。

 

 漢王様が()に降伏してしまったら、たちまち項羽が来て咸陽(かんよう)(みやこ)にするだろう。

 そうしたら、我々はまた塗炭(とたん)の苦しみを受けることになる。本当に、なんとかしてほしいよ!」

 

 この言葉は、道を行く韓信の耳にも届いていた。

「くそっ! もう完全に咸陽(かんよう)の民衆にも知れ渡っているではないか!

 疑う余地は無い。降伏は本当なのだ!」

 韓信は、ますます(いきどお)り、丞相(じょうしょう)府へ急いだ……

 

 

   *

 

 

 一方、丞相(じょうしょう)府。

 奥にいた蕭何(しょうか)の元に、韓信から先触(さきぶ)れの使者が送られてきた。

「韓信大元帥が、蕭何(しょうか)相国(しょうこく)・張良先生にお会いすべく、いま丞相(じょうしょう)府へ向かっております」

 

 蕭何(しょうか)と張良は、2人で手を打って大笑い。

「やった! 韓信が、ついに我が計に当たったぞ!」

 

 蕭何(しょうか)は、すぐに韓信を迎える準備にかかった。

 まず、調査書作りの担当官を、部屋の左右に大勢並べて座らせ、いかにも大急ぎで書類作成に取り組んでいるかのように見せかけた。

 

 それから、

「張良先生、最初は隠れていてくださいませ」

 と打ち合わせ、韓信の到着を待った。

 

 

(つづく)

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