少しして、韓信が丞相府にやってきた。
韓信が馬から降りると、蕭何が奥の部屋へ迎え入れ、まずは互いに挨拶の礼をする。
そして蕭何は言った。
「韓信殿、私は何度もお宅へうかがったのですぞ。しかし中へ入れてはくださらなかった。
今日は、どういうわけで、こちらへお越しになったのです?」
韓信は、焦りを隠し切れない口調で早口に答える。
「私は漢王様に捨てられた身。相国と顔を合わせるのが恥ずかしくて家に閉じこもっていたのです」
蕭何は、悲しげに首を横に振った。
「大元帥は、何度も東征を諌めなさったが、漢王様は耳をお貸しにならなかった。
そしてとうとう大元帥を捨て、魏豹を総大将として、案の定、大敗してしまわれた。
この誤りは、漢王様の責任であって、大元帥のせいではないでしょう。
何を恥じることがありましょうか」
韓信は、とうとう叫ぶように声を張り上げてしまった。
「そんなことはいいのだ!
それより話は聞きましたよ。張良先生が来ているそうですね?
漢王様は、関中の地を全て楚に献上して降参なさるおつもりだと!
これは一体どういうことですか!」
蕭何が淡々と言う。
「睢水の敗戦で太公と呂后が敵に生け捕られ、苦しみを受けておられます。
それゆえ漢王様は、関中を項羽に献上し、御一族を救い出そうと欲していらっしゃるのです。
大将たちは、『降伏するよりも、楚を破って仇を討つべし』と諌めましたが、張良1人がしきりに降参を勧めたので、漢王様も、すっかりその気になってしまい……
張良は、もとはといえば韓国の人間。漢のために命を懸けるいわれはない。
だから、我が身の富貴を守るために、合戦を避けたがっているのですよ。
それで先日、ついに張良が、楚の使者を連れて咸陽に来まして。
三秦および咸陽の家の数や人の数を点検して、報告書にまとめさせているのです。
すでに降参は決定したこと。
私も、こんなのは本意ではないのだが、主君の命に背くわけにもいかなくて……力およばず、このありさまです」
韓信は、全て聞き終えると、口元をキッと引き締めた。
そのまま立ち上がり、蕭何に詰め寄る。
「相国ともあろうお方が、なにを器量の狭いことを言っておられるのです!
私は漢中を出てから、関中の地の7、8割を攻め取った。
一度の敗北がなんですか! 勝負は兵家の常の習い。勝つこともあれば負けることもある。
睢水の敗戦で御一族が捕らわれたといっても、そんなことは心配するにあたらない。
項羽は本当に暴虐ばかりする男だが、腹心の范増は思慮深く常識のある人物だ。項羽が御一族を殺そうとすれば、范増が必ずそれを止める。
御一族を取り戻したいなら、その方法も機会も十分にある!
こんなにあっさりと降参して逆賊の下に平伏す必要などあるものか!
私に任せてください! 諸将に咸陽の守りを任せ、私は中核部隊を率いて速やかに楚の逆賊を滅ぼし、御一族を取り返して見せる!
相国のお考えや如何!?」
さて。
韓信の激しい訴えを、屏風の裏に隠れて盗み聞きしている者がいた。
張良である。
「ふふ……あと一押しだな」
と張良は微笑すると、すぐに氷のような冷たい表情を作って、屏風の陰から滑り出た。
張良は、韓信に向かい、涼しげに礼をした。
「ご高論ですね、韓信大元帥」
韓信は、張良の顔を見ると、眉間にシワを寄せた。
「聞いていたのか、張良先生……」
張良は、韓信を冷たく見すえて言う。
「項羽は、今や日の出の勢いです。
韓信大元帥といえども破ることはできず、睢水の大敗北を繰り返すだけでしょう。
そうなれば、世間の人々は大元帥を好きなように嘲笑するでしょうし……
太公や呂后も国に帰ることができず、私たちまで巻き添えで命を落とすことになってしまう。
だから私は、皆と相談し、これこそ我らが最も長く栄える道だと思って降参をお勧めしたのです」
韓信は怒った。張良や蕭何に対しては一度も見せたことのない本気の怒りであった。
「先生は、かつて私の才能を称賛し、漢王様に推薦して大元帥にしてくださったではないか!
なのに、なぜ今そんなふうに私を軽んじるのだ!
楚の軍勢が雲霞の如く集まったところで、私の前では腐った木材に等しい!
一度の戦いで、たちまち微塵にしてみせる!」
張良は苦笑した。
「いやいや、敵を侮ってはいけませんよ。
私は范増が計を用いるさまを見たが、まるで鬼神のように見事なものでした。
さらに、龍且、鍾離昧などという輩は、世にも恐ろしい大将です。
たとえ韓信大元帥でも、どうしてこれらの強敵に勝つことができましょうか」
韓信は、ますます怒る。
「いいだろう! ならば賭けるか?
もし私が范増やら龍且やら鍾離昧やら討ち取れなかったら、私の首を刎ねればいい! 私は少しも恨まない!」
「ふむ」
張良は、ため息をついて、蕭何へ目を向けた。
「大元帥がここまで言うなら、とやかく言うことはできませんな。
しかし、咸陽の人口調査を勝手に中断したら、私たちが漢王様に罰せられてしまいます。
どうしたものでしょうね?」
韓信が、前のめりに身を乗り出す。
「ご心配にはおよばない。
私が張良・蕭何両先生と共に滎陽へ行き、漢王様に謁見して説明しましょう。
さあ、その前に、まずは楚の使者とやらを斬って、こちらの意思を示そうではありませんか」
蕭何は、慌てて韓信を止めた。本当は楚の使者などいない、とバレたら台無しである。
「いやいや!
たかが使者1人、わざわざ斬るほどの価値もない。私が追い返しておきますよ。
さて、そうと決まれば、こんな作業は中止だ!」
蕭何は、部屋に並んでいた調査担当官たちを退出させ、四方の門に掲げた高札を撤去するよう命じたのだった。
*
韓信は、明日出発することを張良・蕭何と約束し、丞相府を出た。
帰宅する途中、道々の人民たちは、韓信の姿を見て、しきりに語り合った。
「おい、門の立札が引き抜かれたぞ。韓信大元帥が、降伏を食い止めてくれたんじゃないか?」
「ああ! 俺たちは項羽の民となって、また戦禍に巻き込まれるところだったが、大元帥のおかげで安心できた!」
こうした喜びの声を、韓信は馬上で聞き……
口元に、ほんのわずかに、嬉しそうな笑みを浮かべた。
表情の変化は、わずかでも、内心は……誇らしさで一杯であった。
韓信は、大急ぎで帰宅すると、てきぱき軍馬の点検に取りかかり、翌日、張良・蕭何と共に滎陽へと出発した。
*
数日後。
滎陽城が近づいてくると、張良は、
「私が先に行って、漢王様に大元帥の到着を伝えてきます」
と、1人で先行して城に入った。
張良は、劉邦に謁見して、さらりと報告した。
「韓信を引っ張り出して来ました」
劉邦は喜んだ。
「さすが張良先生! 一体どうやって?」
「騙して」
「えぇーっ?」
「ですので漢王様、口裏を合わせてくださいね。かようかように……」
「うん……うん……分かった。
分かったけど、あいかわらず悪いやつだなあ、張良先生は」
劉邦が悪戯好きの子供のように笑うと、張良も、にっこりと微笑みを返した。
少しして、蕭何と韓信が到着した。
劉邦は、2人を迎え入れると、まず蕭何の手を握った。
「おお、蕭何!
俺が旅立った後、漢中は、よく治まって、人民がそれぞれの生業を楽しんでいると聞いたぞ。
しかも、俺の大軍は、ここまで一度たりとも兵糧が不足したことがない。
これは、みんな相国の力だ!」
蕭何は、謙虚に頭を下げた。
「過分なお言葉、恐れ入ります。
漢王様こそ、味方に勇猛なる将兵が多く、何度も強敵を破って各地を攻略し、四方の諸侯が先を争って帰服してきているとか。
これ全て漢王様の人徳によるものでございます」
「さて……」
と、劉邦は、蕭何の背後にいる人物に目を向けた。
韓信である。
劉邦は、韓信を近くに召し寄せ、気まずそうに韓信の顔を見つめた。
(つづく)