龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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四十九の中 ただいま韓信ふてくされ中

 

 

 少しして、韓信が丞相(じょうしょう)府にやってきた。

 韓信が馬から降りると、蕭何(しょうか)が奥の部屋へ迎え入れ、まずは互いに挨拶(あいさつ)の礼をする。

 

 そして蕭何(しょうか)は言った。

「韓信殿、私は何度もお宅へうかがったのですぞ。しかし中へ入れてはくださらなかった。

 今日は、どういうわけで、こちらへお()しになったのです?」

 

 韓信は、(あせ)りを隠し切れない口調で早口に答える。

「私は漢王様に捨てられた身。相国(しょうこく)と顔を合わせるのが恥ずかしくて家に閉じこもっていたのです」

 

 蕭何(しょうか)は、悲しげに首を横に振った。

「大元帥は、何度も東征(とうせい)(いさ)めなさったが、漢王様は耳をお貸しにならなかった。

 そしてとうとう大元帥を捨て、魏豹(ぎひょう)を総大将として、(あん)(じょう)、大敗してしまわれた。

 

 この(あやま)りは、漢王様の責任であって、大元帥のせいではないでしょう。

 何を恥じることがありましょうか」

 

 韓信は、とうとう叫ぶように声を張り上げてしまった。

「そんなことはいいのだ!

 それより話は聞きましたよ。張良先生が来ているそうですね?

 漢王様は、関中の地を全て()に献上して降参なさるおつもりだと!

 これは一体どういうことですか!」

 

 蕭何(しょうか)が淡々と言う。

睢水(すいすい)の敗戦で太公と呂后が敵に()()られ、苦しみを受けておられます。

 それゆえ漢王様は、関中を項羽に献上し、御一族を救い出そうと(ほっ)していらっしゃるのです。

 

 大将たちは、『降伏するよりも、()(やぶ)って(あだ)()つべし』と(いさ)めましたが、張良1人がしきりに降参を(すす)めたので、漢王様も、すっかりその気になってしまい……

 

 張良は、もとはといえば(かん)国の人間。漢のために(いのち)()けるいわれはない。

 だから、我が身の富貴(ふうき)を守るために、合戦(かっせん)を避けたがっているのですよ。

 

 それで先日、ついに張良が、()の使者を連れて咸陽(かんよう)に来まして。

 三秦(さんしん)および咸陽(かんよう)の家の数や人の数を点検して、報告書にまとめさせているのです。

 

 すでに降参は決定したこと。

 私も、こんなのは本意ではないのだが、主君の(めい)(そむ)くわけにもいかなくて……力およばず、このありさまです」

 

 韓信は、全て聞き終えると、口元をキッと引き締めた。

 そのまま立ち上がり、蕭何(しょうか)に詰め寄る。

相国(しょうこく)ともあろうお方が、なにを器量(きりょう)の狭いことを言っておられるのです!

 

 私は漢中を出てから、関中の地の7、8割を攻め取った。

 一度の敗北がなんですか! 勝負は兵家(へいけ)(つね)(なら)い。勝つこともあれば負けることもある。

 

 睢水(すいすい)の敗戦で御一族が捕らわれたといっても、そんなことは心配するにあたらない。

 項羽は本当に暴虐(ぼうぎゃく)ばかりする男だが、腹心(ふくしん)范増(はんぞう)思慮(しりょ)(ぶか)く常識のある人物だ。項羽が御一族を殺そうとすれば、范増(はんぞう)が必ずそれを止める。

 

 御一族を取り戻したいなら、その方法も機会も十分にある!

 こんなにあっさりと降参して逆賊の下に平伏(ひれふ)す必要などあるものか!

 

 私に任せてください! 諸将に咸陽(かんよう)の守りを任せ、私は中核部隊を(ひき)いて(すみ)やかに()逆賊(ぎゃくぞく)を滅ぼし、御一族を取り返して見せる!

 相国(しょうこく)のお考えや如何(いかん)!?」

 

 さて。

 韓信の激しい(うった)えを、屏風(びょうぶ)の裏に隠れて盗み聞きしている者がいた。

 張良である。

 

「ふふ……あと一押(ひとお)しだな」

 と張良は微笑(びしょう)すると、すぐに氷のような冷たい表情を作って、屏風(びょうぶ)(かげ)から滑り出た。

 

 張良は、韓信に向かい、(すず)しげに礼をした。

「ご高論(こうろん)ですね、韓信大元帥」

 

 韓信は、張良の顔を見ると、眉間(みけん)にシワを寄せた。

「聞いていたのか、張良先生……」

 

 張良は、韓信を冷たく見すえて言う。

「項羽は、今や日の出の勢いです。

 韓信大元帥といえども(やぶ)ることはできず、睢水(すいすい)の大敗北を繰り返すだけでしょう。

 

 そうなれば、世間(せけん)の人々は大元帥を好きなように嘲笑(ちょうしょう)するでしょうし……

 太公や呂后も国に帰ることができず、私たちまで()()えで(いのち)を落とすことになってしまう。

 

 だから私は、(みな)と相談し、これこそ我らが最も長く(さか)える道だと思って降参をお(すす)めしたのです」

 

 韓信は怒った。張良や蕭何(しょうか)に対しては一度も見せたことのない本気の怒りであった。

「先生は、かつて私の才能を称賛(しょうさん)し、漢王様に推薦(すいせん)して大元帥にしてくださったではないか!

 なのに、なぜ今そんなふうに私を(かろ)んじるのだ!

 

 ()の軍勢が雲霞(うんか)の如く集まったところで、私の前では(くさ)った木材に等しい!

 一度の戦いで、たちまち微塵(みじん)にしてみせる!」

 

 張良は苦笑した。

「いやいや、敵を(あなど)ってはいけませんよ。

 私は范増(はんぞう)が計を用いるさまを見たが、まるで鬼神のように見事なものでした。

 さらに、龍且(りゅうしょ)鍾離昧(しょうりまい)などという(やから)は、世にも恐ろしい大将です。

 たとえ韓信大元帥でも、どうしてこれらの強敵に勝つことができましょうか」

 

 韓信は、ますます怒る。

「いいだろう! ならば()けるか?

 もし私が范増(はんぞう)やら龍且(りゅうしょ)やら鍾離昧(しょうりまい)やら()ち取れなかったら、私の首を()ねればいい! 私は少しも(うら)まない!」

 

「ふむ」

 張良は、ため息をついて、蕭何(しょうか)へ目を向けた。

「大元帥がここまで言うなら、とやかく言うことはできませんな。

 しかし、咸陽(かんよう)の人口調査を勝手に中断したら、私たちが漢王様に(ばっ)せられてしまいます。

 どうしたものでしょうね?」

 

 韓信が、前のめりに身を乗り出す。

「ご心配にはおよばない。

 私が張良・蕭何(しょうか)両先生と(とも)滎陽(けいよう)へ行き、漢王様に謁見(えっけん)して説明しましょう。

 さあ、その前に、まずは()の使者とやらを斬って、こちらの意思を示そうではありませんか」

 

 蕭何(しょうか)は、慌てて韓信を止めた。本当は()の使者などいない、とバレたら台無(だいな)しである。

「いやいや!

 たかが使者1人、わざわざ斬るほどの価値もない。私が追い返しておきますよ。

 さて、そうと決まれば、こんな作業は中止だ!」

 

 蕭何(しょうか)は、部屋に並んでいた調査担当官たちを退出させ、四方の門に(かか)げた高札(こうさつ)撤去(てっきょ)するよう(めい)じたのだった。

 

 

   *

 

 

 韓信は、明日出発することを張良・蕭何(しょうか)と約束し、丞相(じょうしょう)府を出た。

 

 帰宅する途中、道々の人民たちは、韓信の姿を見て、しきりに語り合った。

 

「おい、門の立札(たてふだ)が引き抜かれたぞ。韓信大元帥が、降伏を食い止めてくれたんじゃないか?」

 

「ああ! 俺たちは項羽の(たみ)となって、また戦禍(せんか)に巻き込まれるところだったが、大元帥のおかげで安心できた!」

 

 こうした喜びの声を、韓信は馬上で聞き……

 口元(くちもと)に、ほんのわずかに、嬉しそうな笑みを浮かべた。

 表情の変化は、わずかでも、内心は……(ほこ)らしさで一杯であった。

 

 韓信は、大急ぎで帰宅すると、てきぱき軍馬の点検に取りかかり、翌日、張良・蕭何(しょうか)(とも)滎陽(けいよう)へと出発した。

 

 

   *

 

 

 数日後。

 滎陽(けいよう)城が近づいてくると、張良は、

「私が先に行って、漢王様に大元帥の到着を伝えてきます」

 と、1人で先行して城に入った。

 

 張良は、劉邦に謁見(えっけん)して、さらりと報告した。

「韓信を引っ張り出して来ました」

 

 劉邦は喜んだ。

「さすが張良先生! 一体どうやって?」

 

(だま)して」

 

「えぇーっ?」

 

「ですので漢王様、口裏(くちうら)を合わせてくださいね。かようかように……」

 

「うん……うん……分かった。

 分かったけど、あいかわらず悪いやつだなあ、張良先生は」

 

 劉邦が悪戯(いたずら)好きの子供のように笑うと、張良も、にっこりと微笑(ほほえ)みを返した。

 

 少しして、蕭何(しょうか)と韓信が到着した。

 劉邦は、2人を迎え入れると、まず蕭何(しょうか)の手を握った。

 

「おお、蕭何(しょうか)

 俺が旅立った後、漢中は、よく治まって、人民がそれぞれの生業(なりわい)を楽しんでいると聞いたぞ。

 しかも、俺の大軍は、ここまで一度たりとも兵糧(ひょうろう)が不足したことがない。

 これは、みんな相国(しょうこく)の力だ!」

 

 蕭何(しょうか)は、謙虚に頭を下げた。

過分(かぶん)なお言葉、恐れ入ります。

 漢王様こそ、味方に勇猛なる将兵が多く、何度も強敵を(やぶ)って各地を攻略し、四方の諸侯が先を争って帰服(きふく)してきているとか。

 これ全て漢王様の人徳によるものでございます」

 

「さて……」

 と、劉邦は、蕭何(しょうか)の背後にいる人物に目を向けた。

 韓信である。

 

 劉邦は、韓信を近くに()し寄せ、気まずそうに韓信の顔を見つめた。

 

 

(つづく)

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