劉邦と韓信、数ヶ月ぶりの再会である。
劉邦は、がっくりと肩を落として、つぶやくように言った。
「ああ、韓信よ……
俺はバカだった。忠義の諌言を聞かず、あんな大敗北をしてしまって……
俺は恥ずかしい。大元帥に合わせる顔がない」
これを聞くと、韓信は床に拝伏した。
「臣は、漢王様の命を受け、三秦の守備にあたっておりました。
幸い盗賊もやや減り、各郡県も少しは安静になってまいりました。
そんな折、臣は病にかかり、仕事に支障がでるようになりましたから、最近はずっと咸陽で閑居しておりました……
そのため、睢水で漢王様が敗北なさったときも、救援に向かうことができなかったのです。
ところが先日、張良先生が咸陽へ来て、『漢王様が楚に降参なさる』と発表いたしました。
漢王様! 一体どうして、そのように臆病な決断をしてしまわれたのですか。
臣は、漢中を出てから、心と力を尽くして関中の地を攻め取りました。
まだ我々には広い領土と多くの兵が残っております。たった1度敗北なさったからといって、どうして敵に降伏までする必要がありましょうか。
どうか、お考え直しくださいませ!」
劉邦は、フッと表情を曇らせた。
「そうは言うがな……
味方は大敗北したうえに、親父や妻が敵に捕らえられ……
俺ァもう、心配で心配で……」
劉邦は、目尻から涙まで溢しはじめた。
迫真の演技である。誰もそこまでやれとは言っていない。後ろの方で張良と蕭何が顔を見合わせている。
劉邦は、涙声で語りに語った。
「しかもな、このあいだな、燕と斉の2国まで、楚に降参してしまってな。
項羽の勢力は、ますます大きくなってるんだ。
それに対して、俺の頼みの綱は、韓信大元帥ただ1人……
いくらなんでも多勢に無勢。とても勝てないと思って、降伏の書状を送ったんだ。
そのとき項羽は、使者に、こんなことを言ったそうだ。
『韓信は、老衰した章邯を偶然破った程度のことで、やたらに調子に乗っている。
この俺が出ていけば、韓信など、すぐ生け捕りにできるだろう』
と……
それを聞いて、俺はもう、早く降参するしかない! と思って……
それで、張良と蕭何に、咸陽あけ渡しの準備を始めさせたんだ。
考えてみれば、韓信、お前が三秦を攻め取った時は、敵がまともに戦備をしていなかっただろう。
だから簡単に勝てた……
しかし次は、そうもいかない。
それに、睢水の戦いの時の項羽ときたら……!
たった1人で、こっちの大将60人以上と渡り合いやがったんだ!
もう、怖いなんてもんじゃない……あれは化物だよ!
いくら韓信でも勝てるわけない!」
韓信は、顔面に熱い汗の玉を浮かべた。
いつもどこか冷めた態度だった韓信。その韓信が、今まで見せたことのない熱さと激しさで、吠えるように劉邦に訴えかけた。
「漢王様ッ!
どうして敵の強さばかり称賛して、臣の鋭気を挫こうとなさるのです!
臣にお任せください。
漢軍中核部隊を指揮して楚と雌雄を決し、必ずや項羽を捕らえて漢王様の前へ引きずってくると誓いましょう!
この言葉がもし果たされなかったら、軍法をもって罪を正してくださいませ!」
劉邦は、満足げに笑った。
「そうか! やってくれるか!
俺だって好きで降伏しようとしていたわけじゃない。
他にどうしようもなくて、降伏を選んだだけなんだ。
韓信大元帥が楚を討伐できるというなら、俺はその可能性に賭けるぞ!
一体どんな作戦で戦うつもりなんだ?
いつものように、黄金よりも宝玉よりも価値のある策を聞かせてくれ!」
韓信は、力強く、うなずいた。
「は!
実は、咸陽にいる間に、対楚軍用の戦車を設計し、数百両ほど試作しておいたのです。
兵法書にも、こう記されております。
『平坦の地には戦車を用いるべし。
山険の地には歩兵を用いるべし。
追撃の際には騎兵を用いるべし』
と……
臣が、このあたりの地形を調べましたところ、滎陽から30里(12km)ほど離れたところに、広い平野がございました。
ここで戦車を用いれば、敵を1人残らず捕虜にしてしまえるでしょう」
劉邦は、目を星のように輝かせて、うなずいた。
「その戦車っていうのは、どういうふうに戦うものなんだ? 簡単に教えてくれ!」
韓信は、得意になって説明し始める。
「戦車と言いましても、構造は普通の車と違うところはありません。
その車を、軛(車と牛馬を繋ぐ木材)によって牛1頭に曳かせます。
車に装備する物は、まず槍を2本。これを荷台の影に隠しておきます。
後方には水を貯めた瓶を載せ、敵から火攻めされたときの消火に使います。
車の前には10名の兵卒を先行させ、それぞれ槍と盾で武装させる。
車の後にも10名の兵卒を付き添わせ、こちらには弓や弩を持たせます。
以上のような戦車を4面すべてに並べて方陣を組み、陣と陣の間は数十歩間隔で配置します。
敵が来たら、兵卒には戦車の上に乗るように命令します。
1車ごとに4人ずつ。それぞれが戦車上から弓と弩で攻撃します。
また、牛4頭だての大型戦車も6台ほど用意します。
この大型戦車には、頑丈な屋根を作り、強力な弩を設置します。
敵が来たなら、太鼓の合図によって、一斉にこれを射るのです。
戦車の攻撃で楚兵の前進が止まったら、そこを狙って騎兵を出撃させます。
さすれば、大勝を収めることができる。
戦車1乗は騎兵10騎に匹敵し、戦車が10乗もあれば千人の敵歩兵を打ち破れるといいます。
また、戦車を用いることで、兵の苦労を減らすこともできます。
行軍の時には食糧を積むことができ、停止した時には陣の周囲に並べておくことで陣営を守る壁にもなる。
戦車をもって敵陣を突破すれば、敵兵は必ず潰走する。
険しい隘路(道の狭くなったところ)を車体で塞いでおけば、逃げる敵を簡単に捕らえることもできる。
このように、平坦な土地は、戦車を用いるのに最適なのです。これで必ず勝利を掴めるでしょう」
劉邦は、話を聞き終えると、手を叩いて喜んだ。
「大元帥は、すでにこんな備えをしていたんだな!
俺はもう、何の心配もなくなったぞ!」
そして、即座に工匠たちを集め、韓信の指示のもと、3000両の戦車を生産させたのだった。
*
戦車が完成すると、韓信は滎陽城を出て、遠く離れた平地に要塞を築いた。
この要塞を拠点として、韓信は、さっそく戦準備に取りかかった。
諸大将を集めて、綿密に作戦を伝え……
兵卒を調練して、戦車の扱いを習わせる……
それから一両月ほど過ぎた頃には、漢軍は、手足のように戦車を乗り回せるようになっていた。
一方、相国蕭何は咸陽の都へ帰り、漢軍再建のために働いていた。
諸方から駆り集めた無数の兵と、莫大な量の兵糧を、次から次へと滎陽に送ってきてくれたのだ。
蕭何の働きによって、漢の兵力は50万人にまで増加した。
彭城・睢水で敗戦する前の兵力を、ほとんど回復しきった形である。
こうして再戦準備が整ったのを見ると、韓信は滎陽城に入り、劉邦に奏上した。
「軍兵の訓練もしあがり、兵の数も回復し、戦の用意は一々整いました。
いよいよ再戦に挑みたいと思います。
まずは項羽に戦書を送り、奴を十分に怒らせて、みずから攻めてこさせて返り討ちにいたしましょう。
ただ……問題は、敵の軍師范増です。
こちらから挑発的な戦書を送ったとしても、それが范増の目に入ったら、項羽が怒りに飲まれないよう手を打ってくるはず。
これをどうしたものか……」
劉邦は、手を叩いた。
「おう、それなら、ちょうどいい手があるぞ!
以前に、うちの王陵が楚に潜入し、俺の家族を救出したことがあっただろう?
(第四十二回参照)
あの一件で、どういうわけか項羽は王陵のことを気に入ったらしくてな。
王陵の老母を捕まえて人質にして、王陵に楚へ来るよう要求してきてるんだ。
その使者が、今ちょうど客室に滞在している。
大元帥、この使者に賄賂を与え、戦書を項羽に直接渡させてはどうだ?」
韓信は喜んだ。
「おお、それはよい。では、さっそく……」
*
韓信は、劉邦の前から退出すると、すぐに楚の使者を部屋に呼んだ。
左右の部下も外に出し、楚の使者と2人きりになると、韓信は小声で、ささやいた。
「……貴公をお招きしたのは、他でもない。覇王様に口利きしていただきたいのです。
私は、もともと覇王様の臣であった。
不幸にも覇王様の元から離れることになりましたが、楚に帰りたいという思いは、まったく消えることがなかった……
この気持ちを覇王様に伝えるために、密書を送りたいのです。
御辺、私の密書を届けてはくださらないか?」
韓信は、こう頼みこみながら、黄金20両を楚の使者に差し出した。
使者は、露骨に頬を緩ませる。
「これはこれは……!
覇王様が、それがしを滎陽に向かわせたのは、王陵を招くためだけではありません。
実は、韓信大元帥の動向を調べるためでもあったのです。
大元帥が楚に帰りたがっていると聞けば、覇王様は、必ず大いにお喜びになるでしょう。
さ、怪しまれないうちに、はやく密書をお書きなさい」
韓信は、にっこりと笑って、手早く密書を認めた。
もちろん、降伏を願い出る密書などというのは大嘘。本当は、項羽を挑発するための戦書である。
韓信は、封をした密書を、楚の使者に手渡した。
「よいですか、事は重大です。
楚の王宮にも、漢の間者は大勢まぎれこんでいる。
楚に帰ったら、この密書を誰にも見せないよう気をつけて、必ず覇王様に直接お渡ししていただきたい。
もし外に情報が漏れたら、私の造反は失敗する。御辺も責任を問われることになりますぞ」
楚の使者は、やや緊張した顔で、うなずいた。
「大丈夫です、うまくやりますよ。ご心配なく……」
こうして楚の使者は、密書を懐の中へ深く隠し、彭城へと帰っていったのだった。
(つづく)
■次回予告■
挑発の戦書に心乱され、みずから攻め寄せる激怒の項羽。怒涛の勢いで迫りくる楚の大軍に、韓信率いる漢軍が真正面から立ち向かう。
ここに初めて対峙する無敵の覇王と国士無双。唸る剣戟、駆け抜ける戦車。大地を血に染める頂上決戦の決着や、いかに?
次回「龍虎戦記」第五十回
『対決! 項羽vs韓信』
乞う、ご期待!