王族発見の知らせを受けて、項梁はななめならず喜んだ。
吉日を選んで儀式を行い、米心少年を立てて主君とし、懐王と名乗らせた。楚の後継者を立てたことを世に知らしめるために、あえて亡き祖父の諡をそのまま名号としたのだ。
後に義帝と呼ばれることになる人物が、この懐王である。
さらに、懐王の母を王太后と尊称し……
項梁みずからも武信君と称した。
諸将も、恩賞としてそれぞれ位をさずかった。
項羽は大司馬副将軍。
范増は軍師。
季布、鍾離昧は都騎。
英布は偏将軍。
桓楚と于英は散騎。
そのうえで、酒宴をもうけて祝賀し、あの社の長にも、黄金50両、綵帛一束を下賜した。
これによって、楚の勢力はますます盛んになり、国々の諸侯が次々にやってきて恭順した。
そのひとりが、楚国の大将、宋義である。
宋義は、長江下流域で蜂起して兵を集めていたのだが、項梁が楚の後継者を立てたと聞いて、はせ参じた。その兵力は、実に3万騎以上にも及んだ。
項梁は宋義と対面し、懐王に謁見させた。
そのうえで、宋義に卿子冠軍の位を与え、ともに秦を討つ計画を議論した。
宋義は言った。
「淮水西方は楚の土地ですが、狭くて都を立てるには向きませぬ。
今、楚の大将の陳嬰という者が、盱眙の街に兵を駐屯させております。
まずは彼らと合流し、盱眙城の要害に陣取って本拠地としましょう。その後に西進して秦討伐に出陣すれば、攻めるに敵を打ち破りやすく、退くにも守りやすくなります。これこそ万全の計でござる」
項羽は
「名案だ」
と、うなずいた。
そして、武信君項梁にこの作戦を告げ、懐王にも報告したうえで、大軍を率いて盱眙へと出発したのである。
*
その道の途中のこと。
ようやく淮河の近くまで来たところで、向こうから、一手の軍勢が現れた。
これを一目見て、
「うっ!?」
と軍師范増は息を飲んだ。
常人ならば気にも留めまいが、范増の目はごまかせない。あの軍勢の様子はただごとではない。
軍旗の動くところ紅の光が閃き走り、剣戟の煌めくところ紫の気が立ちのぼる……不思議な吉兆祥瑞が、軍勢の中からとめどなくあふれ出ているのだ。
「あれはただの軍勢ではない! あの中に天運を得た人物がいると見た」
その見立てを証明せんとするかの如く、軍勢の中から、一人の男が馬を躍らせて駆けてきた。
聖王堯と同じ、八色の眉。
聖王舜と同じ、瞳孔が二つある目。
鼻柱が高いのは隆準、眉骨が大きいのは龍顔といい、いずれも帝王になるべき者の人相。
さらに、その男の体は、周囲へ堂々たる帝王の気を放ってすらいる。
范増は思わず首を垂れた。
「間違いない、この男だ。彼こそ真の天子となるべき運命の男。
なんたること……私が楚に仕えたのは誤りだった……」
この男に対して、
「誰だ」
と問えば、
「沛公の劉邦だ」
と答える。
芒蕩山で白蛇を斬った、あの劉邦である。
妙ななりゆきで沛の県令になってしまった劉邦は、その後、豊の邑の西方で10万もの兵を集めていた。
そして今、項梁が楚の後継者を立てたと聞いて、それに協力すべく、夏侯嬰や樊噲などの部下とともに馳せ参じたのである。
武信君項梁は大いに喜び、劉邦勢とともに淮河を渡って盱眙に入った。
そこで陳嬰と合流して都を構え、武信君自身は泗水のほとりに出でて、そこへ軍を駐屯させた。
*
かくして、楚の旗のもとに、そうそうたる豪傑たちが集結したのであるが……
その軍の中に、地味な無名の男が一人、まぎれ込んでいた。
名を、淮陰の韓信という。
この韓信が「自分を使ってくれ」と願い出てきた時、武信君項梁は眉をひそめた。韓信はひどく痩せて弱々しく、とても戦ができるような男には見えなかったのだ。
「頼りない男だ。使い物になるまい」
と、項梁は冷たく追い返そうとした。
そこへ范増が口をはさんだ。
「この男、外見はこんなふうだが、頭の中には深い智謀を秘めているようだ。引き留めて用いてやりなさい。もしこの男をお捨てになるのなら、賢人を求める道を自ら塞ぐことになりましょうぞ」
「ふーむ。まあ、軍師がそこまで勧めるなら」
と、項梁も一応その意見を受け入れることにした。
とりあえず韓信に執戟郎官(王や太守を護る衛兵)の役目を与え、軍内に留めておいたのである。
*
この韓信という男、いまいちパッとしない逸話がいくつもある。
以前、韓信は淮水下流で魚を釣って暮らしていたのだが、貧乏で、一日中食えない日もあるほどだった。
ある日。いつものように釣り糸を垂らす韓信のそばに、一人の漂母が近づいてきた。
漂母とは、川で木綿を洗う仕事の女を言う。
その漂母は、韓信が腹を空かせているのを見て憐れに思い、食事を分け与えてくれたのだった。
韓信は、この親切に感じ入った。
「私がいつか裕福になったら、手厚くご恩返しをしよう」
ところがこの漂母、いささかひねくれ者だったのか、かえって怒りだした。
「バカなことを言うんじゃないよ。いい年をした男が自分で飯の種を稼ぐこともできない。それを憐れんで食事を恵んでやったんだ。恩返しなんか期待してると思うのか!」
手ひどく叱られた韓信は、苦笑しながら、釣った魚を売りに市場へ向かった。
その途中、力自慢の若者たちが、韓信を馬鹿にして言う。
「おい韓信! お前、いつも剣を佩いて市場へ来るが、それを何に使うつもりだ?
もしお前に勇気があるなら、剣を抜いて俺を刺し殺してみろよ。
刺し殺すことができないなら、俺の股の間をくぐって通れ!」
この侮辱と挑発に対して、韓信は怒るどころか言い返しすらしなかった。迷いなく即座に頭を下げ、股の間をくぐり抜けたのである。
市場の人はみんな笑って、臆病者だ! と韓信を嘲った。
ところが一人、許負という男だけは、別の見方をしていた。
許負は人相を見極める技を持っていた。その許負が、そっと韓信に寄って行って話しかけた。
「ちょっと待ちたまえ。君には王侯の相があるぞ。いつかきっと天下の大将軍に就任し、富も権力も思いのままになるだろう」
「まさか! 私は今日一日の食事をする金にさえ困っているのだ。富や権力など望むべくもない」
と、笑いとばした韓信であったが……
*
この予言は、やがて現実のものとなる。
今はまだ、楚に仕えて執戟郎ていどの役しかもらえず、不満をおぼえている韓信だったが……
数年後、彼は漢の国で大将軍に任命され、縦横無尽の活躍を見せることになるのである。
後の世、歴史を知る人々は、口をそろえてこう言った。
漢が中国を統一できたのは、もっぱら韓信の力のおかげなのだ……と。
(巻二へ、つづく)
■次回予告■
ついに幕を開けた楚秦の激戦。項羽のおそるべき強さの前に、百戦錬磨の秦軍さえもが薄紙の如く打ち破られる。
逃げる秦軍。追いすがる楚軍。しかし危うし、敵もさるもの。秦将章邯の鋭い牙が、一人の英雄の喉を捉える――!
次回「龍虎戦記」第七回
『我が心、砕くるが如し』
乞う、ご期待!