蒲将軍は、項羽のそばまで近づいてきた。
「覇王様。戦場ゆえ十分な礼ができぬことをお許しあれ。
范増亜父の命によって、救援に参りました。
ここは臣にお任せを!
臣が敵を食い止めている間に、どうかお逃げください!」
まさに九死に一生であった。
項羽は、
「頼む!」
と、うなずくと、傷ついた手兵を連れて、東へと走り去っていった。
その場に残った蒲将軍は、迫りくる漢軍を睨み、刀を横に構えて馬を走らせた。
「ここから先は、一歩も通さぬぞ!」
蒲将軍は漢軍の中に飛び込むや、四方八面の漢兵たちを刀で薙ぎ回った。
同時に蒲将軍配下の楚兵たちも漢軍と正面衝突し、たちまち混戦となった。
そこへ、漢の大将、李畢と洛甲が駆けつけてきた。
「貴様、何者だ!?
あと少しで項羽を討ち取れるというのに、なぜ邪魔をする!」
李畢・洛甲は、罵りながら蒲将軍に斬りかかる。
対する蒲将軍は、グアッ! と目を怒らせた。
「覇王様を、貴様ら如きに討たせはせぬ!
この俺、天下に隠れなき蒲将軍を見知らぬか!」
李畢、洛甲、そして蒲将軍。
三者雄々しく激突し、馬を交えて戦うこと20合。
蒲将軍が、
「かあっ!」
と裂帛の気合いとともに繰り出した剣が、漢将李畢の胸に食い込んだ。
たちまち李畢が馬から転げ落ちる。
それを見た洛甲は、慌てて馬を返し、その場から逃げ出した。
しかし、
「逃さぬ!」
と蒲将軍が急いで弓を取り、矢をつがえ、よっ引いて、兵! と放った。
矢は見事、洛甲の背中に命中。
洛甲は落馬し、息絶えた。
蒲将軍は、楚兵たちに向けて大声で下知する。
「敵将は討ち取ったぞ! さあ、残る敵兵を蹴散らせっ!」
蒲将軍率いる楚軍は、漢軍へ反撃を開始した。
*
一方、漢の中軍にいた大元帥韓信の元に、伝令が飛んできた。
「楚の援軍が到着し、李畢様と洛甲様は討たれてしまいました!」
これを聞いた韓信は、深く後悔して、溜め息を吐いた。
「古より、『窮寇は追うことなかれ』という。兵法家が深く忌み嫌う、もっとも基本的な落とし穴だ。
そんなことは百も承知だったはずなのに、つい深追いさせ、あたら2人の大将を死なせてしまった……
これは私の失策だ」
心から無念そうに首を振ると、韓信は、すぐに追撃の中止を命じたのだった。
*
漢軍が撤退を始めると、楚軍の蒲将軍も、攻撃をやめて後退した。
漢軍による再攻撃を警戒しながら、ゆるゆると東へ軍を進める。
やがて夾河という川まできたところで、その辺に、ひとかたまりの軍勢が陣を張っているのと出くわした。
項羽が、兵を休ませながら敗残兵をまとめていたのである。
蒲将軍は、項羽の軍勢と合流すると、馬から降りて項羽に拝謁した。
「陛下、ご無事で本当にようございました。
陛下が韓信を侮っておられるのを見て、范増亜父は、深く心配なさいまして……
臣に3万の兵を授け、覇王様を救出するよう命じなさったのです。
覇王様の威光のおかげで、敵将を2人も討ち取ることができました。あれだけ叩いておけば、追撃の心配は当面ありますまい」
しかし、項羽は、無言であった。
蒲将軍の報告を聞いているのか、いないのか……胡床(床几)に座り込んだまま、ぼんやりと遠くを見ているばかりなのだ。
蒲将軍は、やや戸惑いながら、言葉を続けた。
「范増亜父は、再三に渡って臣を戒めました。『韓信は尋常の輩ではない。決して軽く見るな』と。
それゆえ、漢軍が撤退するのを見て、あえて追撃はせずに戻って参ったのです」
項羽が、ぴくり、と体を震わせた。
「韓信……韓信か。
俺は……旗挙げから数年、何百という戦に臨んだ。
戦って勝てなかったことは一度もない。攻めて取れなかったことだって全然ない。
こんな見苦しい目に遭うのは初めてだ。
亜父が蒲将軍を差し向けてくれなければ、俺は間違いなく生け捕られていた……あの、韓信に。
……負けた。
俺は、負けたんだ」
その場が、しん……と静まりかえった。
蒲将軍、季布、鍾離昧……その場に居合わせた大将たちは、何も言えずに立ち尽くした。
静かに敗北を認める覇王項羽……こんな姿は見たことがない。
怒声も発せず、顔面を怒らせもしない。だが、この静けさが、かえって……怖い。
長い沈黙の後、季布が、おそるおそる進み出た。
「……覇王様。今はただ、すみやかに撤退いたしましょう。
この場所は、敵陣から遠くありません。もし漢軍が再び追撃してきたら、どうにもできなくなります」
項羽は……
項羽は、ゆらり、と立ち上がった。
「撤退する」
「はっ!」
楚の大将たちは、撤退準備のため、大急ぎで散っていった。
項羽は、愛馬烏騅に歩み寄り、風のように身軽に烏騅の背にまたがった。
一歩、一歩、ゆっくりと本拠地彭城への退路を進み始める烏騅。その背の上で、項羽は一人、拳を握り固める。
「……負けた」
静水の如く穏やかなその声とは裏腹に、項羽の目は、烈火の如く燃えていた。
(つづく)
■次回予告■
生涯はじめての敗戦を味わう項羽。この劣勢を挽回すべく、老軍師范増が動きだす。
狙いはかつての漢軍総大将、魏豹。気位高いこの貴公子を、おだて、抱き込み、味方につけて、漢軍に打ち込む楔と成す。たちまち巻き起こる新たな戦。この難局を、韓信はいかに乗り越える?
次回「龍虎戦記」第五十一回
『奇策、木罌缶』
乞う、ご期待!