韓信との戦いで散々に打ち負けた項羽は、本拠地彭城に帰ってきた。
敗軍を点検してみれば……30万いたはずの兵が、10万足らずしか残っていない。
実に20万もの兵を失う大敗北であった。
項羽は大いに後悔し、老軍師范増を呼んだ。
「俺が亜父の諌言を聞かなかったせいで、こんなに軍馬を失ってしまった。
ここから挽回する策はあるか?」
范増は、うなずいた。
「ありますとも。
狙い目は、西魏王魏豹だ。
魏豹は、かつて漢軍の総大将を務めましたが、睢水における大敗北の責任を問われ、追放されて、西魏国の都平陽に帰りました。
私が調べたところでは、この魏豹、『漢王に処罰されるのではないか?』と怯え、身を守るために反乱を企てているようです。
覇王陛下が使者を送り、利害を説いて諭しなされば、魏豹は必ずこちらに帰服するでしょう。
そうなれば、韓信は、まず平陽の討伐に向かわざるをえなくなる。
こうして本拠地が手薄になったところを狙い、覇王陛下が大軍を率いて攻め寄せればよいのです。
韓信さえ引き離してしまえば、漢王を守る者は誰もいない。たちまち滅ぼしてしまえましょう」
項羽は、手のひらを打って、大いに喜んだ。
「ものすごく好いぞ好いぞ!
西魏も取れるし劉邦も倒せる。これこそ『一挙して両ながら得る』ってやつだな!
じゃあ、誰を派遣しようか?」
そのとき、尚書令の項伯(項羽の叔父)が進み出た。
「私の友人で、相士(人相見の占い師)の許負という者が平陽に住んでおります。
魏豹は許負の占いをたいへんに信頼していて、大きなことも小さなこともみんな相談し、許負の指示には必ず従うのだそうです。
この許負に私から書簡を送り、魏豹を説得させるというのは、いかがでしょうかな?
魏豹が態度を決めかねていたとしても、許負から一言あれば、きっとそれに従うと思われますが」
許負は、相術(人相見の術)の達人として有名な人物である。
かつて極貧生活をしていた頃の韓信を見て、「あなたはいつか天下の大将軍になる」と予言した人物でもある。
(第六回参照)
范増は喜んだ。
「ほう、それはよい。許負の説得があれば、魏豹はすぐに漢から離反するだろう」
というわけで、項伯はすぐに書簡を整え、使者に持たせて平陽へ送った。
*
項伯からの使者は、西魏国の都、平陽にやってきた。
平陽において、許負は大変な有名人である。
そこらで通行人に道を尋ねると、許負の住まいはすぐに分かった。
使者が許負の館を訪れると、召使いの小童が門を守っていた。
使者は小童に声をかけた。
「許先生はご在宅かな?」
小童が答える。
「先生なら、中堂で暇してらっしゃいますよ」
使者は言う。
「それはよかった。私は使者です。許先生に、お手紙を届けに参りました」
それを聞くと、小童は館の中へ入っていった。
しばらくすると、奥の方から声が聞こえてきた。
「入っていただきなさい!」
使者は奥に通され、許負と対面すると、さっそく書簡を手渡した。
許負は、その文面を見ると、しばし黙って考え込む。
「ふーむ……『魏豹を説得し、楚に帰順させよ』か……
覇王項羽の勢力は、はなはだ強い。それに、項伯殿とは日頃親しくつきあっている。
引き受けぬわけにも、いくまいなあ……」
*
許負は、その日のうちに、魏豹の宮殿を訪れた。
許負が来たことを門番が知らせると、魏豹は喜んで迎え入れた。
礼を交わしてから、魏豹が言う。
「御無沙汰でしたな、許負先生。
ちょうどよい時に訪ねてきてくださった。
実は最近、少し迷っていることがあって、御辺に人相を見てもらってから決断しようと思っていたのですよ。
先生、私の相はどうです?
私の氣色(皮膚の上に浮き出る気の色)は、今どんな具合でしょう?
吉か凶か、ぜひ教えてください」
許負は、にっこりと微笑み、心の中で思った。
「なんだ、たあいない。もう思い通りになってしまったぞ」
そんな本音は、おくびにも出さないで、許負は尋ねた。
「西魏王様、今日は御酒を召し上がったかな?
氣色を見るには、酔っていないほうが都合が良いのですが」
魏豹が、うなずく。
「今日は飲んでおりません。
朝はやく起きてから、ひとり心静かに座っておりました。精神も心も、清らかで爽やかですよ。
許負先生、お手数ですが、人相を見てください」
「よろしい。では……」
と、許負は魏豹を、日光の当たるところへ連れ出した。
明るく照らされた魏豹の人相を、許負は、しばらくじっくりと観察し……
「うわっ……これは酷い」
と、心の中で、うめいた。
「天倉が白氣に侵され、中正が滞氣で雑味を帯びている。
そのうえ日月の明るさを欠き、水土は位を失っている……
なんと不吉な相だ。顔中どこを見ても、良いところが全然ないぞ。
この分では、魏豹も長くなさそうだな……
しかし、正直に見立てを伝えたら、魏豹は保身に走るだろう。漢を裏切って楚につくような危ない橋は、もう決して渡るまい。
それでは私は都合が悪い。上は覇王の命を違え、下は項伯の友情に背くことになってしまう。
……よし。ここはひとつ、適当なことを言って魏豹を喜ばせてやるか」
そこで許負は、大げさに驚くフリをしはじめた。
「おお! 西魏王様、はなはだ貴い相が出ておりますぞ!
紅黄の氣が満面に起こり、喜氣が重々と浮き上がっております。
これから100日も経たないうちに、西魏王様のもとへ四方の諸侯が先を争って服従してきて、大業は、たちまち成就するでしょう!」
魏豹は目を丸くした。
「えっ? 大業というと……?」
許負が言う。
「決まっているではありませんか。ただの王爵ではありません。
吉なる土地にお遷りあそばされて、九五(天子)の位に登りつめなさるのですよ!」
これを聞いて、魏豹は、ななめならず喜んだ。
「先生、それは本当ですか!
もし先生の予言が的中したら、きっと重く賞しましょうぞ!」
(つづく)