魏豹が寝返った!
その情報は、すぐさま漢王劉邦の耳にも届いた。
劉邦は、一報を聞くなり、大笑いしはじめた。
「あっはっは! 鼠1匹謀反したところで、どうってことねえよ!
さっさと討伐隊を出して、心配事のタネを取りのぞこう」
そこへ、老弁士の酈生(酈食其)が進み出た。
「漢王様、お待ちを。
味方の軍は、つい先日、楚と戦ったばかり。
まだ少しも休息が取れていないのに、また遠く魏を討伐に行かせるというのは、兵や民衆を大切にする道とは言えませぬ。
臣は、以前から魏豹と深く交友がございます。
まずは、臣が平陽へ行って利害を説き、謀反をやめるように働きかけましょう。
もし魏豹が臣の言葉に従わなかったら、その時は、あらためて兵をさしむけなさいませ」
劉邦は喜んだ。
「確かにそうだな。説得できるなら、それが一番だ。
もし謀反を止められたら、酈先生の舌は値万金。その功績は千の城を奪うのにも匹敵するぞ!」
許可を得た酈生は、すぐに平陽へ向けて出発した。
*
数日して、酈生は西魏国の都平陽に到着した。
魏豹は、酈生が訪ねてきたと聞くと、すぐに宮殿に迎え入れた。
そして、形ばかりの礼を施すと、皮肉な笑みを浮かべながら言った。
「ああ、故人(旧友)が遠くからやってきた。
漢が説客として送り込んできたのかな?」
酈生は、心外そうに首を振った。
「それがしが来たのは、計略のためなどではない。
十年来の友情のためだ。貴公のためを思って、利害を説きに来たのだ。
従うか従わないかは、貴公の自由。無理強いなどするものか。
どうしてそんなに疑いなさるのだ」
魏豹は、わずかに鼻息を吹いた。
「ふうん。で、利害とは?」
酈生は言う。
「大丈夫(立派な男)たるもの、二心を持つべきではない。一度決めたことは後で覆すべきではない。
二心がある者は、他人もそうなのではないかと疑心に駆られてしまい、敗北する。
物事を覆す者は、うっかり軽挙に出てしまい、失敗して恥をかく。
貴公は、はじめ楚に従っていたが、その後、漢に降伏した。
それなのに、今また心に不平を抱いて、再び謀反しようというのか?
物事の是非を考えてみたまえ。
かつて貴公が漢に降伏したのが正しかったとすれば、いま楚に降伏するのは誤りだろう。
一方、いま楚に降伏するのが正しいとすれば、かつて漢に降伏したのは誤りだったことになる。
これでは、どう転んでも貴公が誤った道を選んだことになってしまうではないか。
こんなふうに、ひとつところに落ち着かず、物事を覆し続けていたら、いつか必ず身を滅ぼすぞ。
さらに、今の情勢を論じてみよう。
楚は勢力が大きいが、狂暴で愚かだ。
漢は勢力こそ小さいものの、寛大で知恵がある。
だから愚人は『楚が強い』と言うが、知恵のある人は、最終的に楚が滅んで漢が興ると確信している。
どちらが興り、どちらが滅ぶか。どちらが安全で、どちらが危険か。
論ずるまでもなく自明のことだ。
魏豹殿、貴公が漢に仕えたのは、まことによい判断であった。
それなのに、どうして今また二心を抱き、万全の漢を捨てて、滅亡の危機にある楚に降伏しようなどと考えなさる?
これは大丈夫のやることではない。
いますぐ兵を収め、ひたすら漢の方についていれば、貴公は安泰だ。
漢が天下を統一したら、いつまでも富貴を保つことができるのだぞ」
だが魏豹は、静かに首を横に振った。
「漢王は、人をバカにして罵る。大変な無礼者だ。あんな男の下にいれば、恥をかかされるばかりだ。
私の心は、もう動かない! 一人前の男が、どうしていつまでも他人の下に屈していられようか!
たとえ蘇秦や張儀(ともに高名な弁舌の士)が昼夜にわたって説いたとしても、この決心は覆せないぞ。
酈先生、もうこれ以上は、何も言ってくれるな」
*
魏豹の説得は、失敗に終わった。
酈生は、魏豹に別れを告げて滎陽に帰り、事の子細を報告した。
話を聞いた劉邦は、酈生に尋ねた。
「そうか。ま、しかたないな。
それで、魏軍の大将は誰々だ?」
酈生は答える。
「総大将は柏直。
歩将は項它。
騎将は、秦の大将だった馮毋択の息子で、馮敬という者だそうで」
説得には失敗しても、抜け目なく敵軍の人員配置は調査してきている酈生なのだった。
劉邦は、にやり、と笑ってみせた。
「柏直は乳臭いガキだ。俺の韓信に敵うわけがない。
項它は武勇があるそうだが、曹参には勝てまい。
馮敬は知恵者だが、灌嬰の相手ができるほどじゃない。
ま、ぜんぜん心配ないな」
劉邦は、すぐに韓信を呼んだ。
「韓信よ。10万の精兵を率い、曹参・灌嬰と協力して、パパッと魏を討伐してきてくれ」
韓信は、うなずいた。
「臣も、ちょうど魏討伐を提案しようと考えていたところでした。
すぐにも出撃しようと思いますが、ひとつ懸念があります。
覇王項羽は、臣が魏に遠征したと聞けば、必ず滎陽が手薄になった隙を狙って攻め寄せてくるでしょう。
誰かに項羽を防ぐ役目を任せなければなりませんが……
臣の見たところ、この重要任務を託せる人物は、王陵をおいて他にありません。
漢王様、ぜひとも王陵に命じて敵を防がせなさいませ。
そうすれば、きっと無事に乗り切ることができるでしょう」
これを聞くと、劉邦は腕組みをして、うなった。
「うーん……王陵か……
王陵の能力は認めるが、あいつの母親は、項羽に囚われて楚の陣にいるんだぞ。
母親を人質に取られていては、王陵も力を尽くして戦うことができないんじゃないか?」
韓信は首を振った。
「いえ、ご心配にはおよびません。
王陵の母親は、賢明かつ貞淑な女性。
彼女が息子をたいへん厳しく教え育てたおかげで、王陵は金属や岩石のように堅い意志を持つ男になりました。
王陵が心変わりすることは、万にひとつもありえないでしょう。
王陵を総大将とし、陳平を補佐につけ、もし予期せぬ事態が起きた時には張良先生に相談なさいませ。
これで万全でございます」
劉邦は、大きくうなずいた。
「よし! じゃあ、そうしよう。
韓信よ、はやく魏を平定して、戦勝の報告を聞かせてくれよ!」
(つづく)