龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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五十二の甲 どうか、我が子に

 

 

 ()(みやこ)彭城(ほうじょう)

 この城の奥で、覇王項羽はここしばらく、じっと状況の変化を見守り続けていた。

 そんなある日、間者(かんじゃ)が報告を持ってきた。

 

「先日、西魏(せいぎ)魏豹(ぎひょう)が兵を起こし、漢から離反して()に降伏しようと(くわだ)てました。

 それを伝え聞いた漢の大元帥韓信は、大軍を(ひき)いて平陽へ攻め寄せ、ただいま合戦(かっせん)最中(さいちゅう)でございます」

 

 待ちに待った報告である。

 項羽は、ななめならず喜び、老軍師范増(はんぞう)を呼んだ。

亜父(あふ)の計画どおりになったぞ!

 韓信は魏豹(ぎひょう)()つため遠征に出た。滎陽(けいよう)は今、がら空きだ。

 この(すき)に俺が攻め込めば、劉邦を必ず捕らえてやれる!」

 

 范増(はんぞう)は、うなずいた。

「そのとおりだ。この機会を(のが)さず、すみやかに行って滅ぼしてやりなされ。

 だが……韓信は計の深き者。我々の動きを先読みして(そな)えをしておろう。

 覇王様、何事(なにごと)もよく(つつし)み、決して軽々しく動いてはなりませぬぞ」

 

 このやり取りを聞いて、大将龍沮(りゅうしょ)が笑った。

范増(はんぞう)亜父(あふ)、なにゆえそんなに敵を恐れなさるのです?

 覇王様の武勇は、まさに神がかり。向かうところ敵なしだ。

 滎陽(けいよう)城ひとつ(やぶ)るのに、(なに)ほどのことがあろう」

 

 范増(はんぞう)は、龍沮(りゅうしょ)を横目に(にら)み、ぴしゃりと りつけた。

「甘いな。

 (いにしえ)の人は言った。『虎と素手で戦い、大河を歩いて渡るような無謀(むぼう)者と一緒に仕事はできない。手を組むなら、(こと)(のぞ)んで慎重になり、(はかりごと)を好んで成す者に限る』……とな。

 いやしくも大将たる者が、目に見えた危険に(そな)えもせず飛び込んでなんとする」

 

 険悪になりかけた2人の間に、項羽が苦笑いしながら割って入った。

「まあまあ。味方同士でケンカはよせよ。

 亜父(あふ)、よく分かった。十分に気を付けるから心配するな。

 

 さあ、滎陽(けいよう)攻めに取りかかるぞ!

 先鋒(せんぽう)驍将(ぎょうしょう)(勇敢な将)()奉先(ほうせん)! 精兵3千を(さず)ける!

 後陣は、この俺、項羽がみずから務める!

 今度こそ劉邦を叩き潰してやれ!」

 

 

   *

 

 

 項羽の動きは、すぐさま漢王劉邦にも伝わった。

 劉邦は大いに驚き、張良・陳平(ちんぺい)の知恵者2人を呼んだ。

()軍が来た! どうしよう? どうやって迎え()てばいい!?」

 

 張良が、にっこりと穏やかに微笑(ほほえ)む。

「どうもこうもありませんよ。

 韓信が言い残して行ったのでしょう? 『王陵を大将として、陳平(ちんぺい)を補佐につければ、()を打ち(やぶ)れる』とね。

 どうして王陵をお呼びにならないのです?」

 

 張良の落ち着いた口ぶりに、劉邦も少し平静を取り戻した。

「あっ、そっか……そうだな。よし、王陵を呼んでくれ!」

 

 漢将王陵は、すぐに劉邦の前にやってきた。

 劉邦が言う。

「覇王が、みずから大軍を(ひき)いて、この滎陽(けいよう)に迫ってきた。

 王陵。お前に全軍を預け、()の迎撃を任せたい。どうだ、守り切る自信はあるか?」

 

 王陵は、きっぱりと答えた。

「覇王項羽の軍は、勢力はなはだ(さか)んです。力でぶつかっても勝ち目はありません。

 しかし、臣が愚考(ぐこう)するに、戦い方はございます。

 

 まず軍旗を伏せ、太鼓(たいこ)も止め、(ほり)を深く、土塁(どるい)を高くし、一切戦いに出ずに守りを固めます。

 やがて敵は気疲れし、士気が()えてくる。

 それを待ってから1つの計を用いれば……()を逃走させることはできます!」

 

 劉邦は身を乗り出した。

「その計というのは?」

 

 王陵は、劉邦のそばまで進み出ると、耳元でヒソヒソと、ささやいた。

 

 そのとたん、劉邦の顔に、パッと明るい光が差した。

「なるほど! そりゃあいい考えだ!

 これなら心配ない。よし! 王陵、お前に俺たちの命運(めいうん)()けるぞ!」

 

 こうして劉邦は、王陵を総大将に、陳平(ちんぺい)を軍師に任命し、三軍の指揮を任せたのだった。

 

 

   *

 

 

 ()先鋒(せんぽう)()奉先(ほうせん)は、滎陽(けいよう)城が見えるところにまでやってきた。

 ところが滎陽(けいよう)城の漢軍は、城外に1人の兵も出そうとしない。四方の門を固く閉ざし、不気味な沈黙を保ったままである。

 

 ()奉先(ほうせん)は深く怪しみ、滎陽(けいよう)城には近づかずに、後陣の項羽のもとへ戻ってきた。

「覇王様。滎陽(けいよう)城は四方の門を閉ざしており、兵の1人さえ姿を見せません。

 敵は何を考えているのでしょうか?」

 

 その場にいた()軍の諸将が、口々にざわめきはじめた。

「劉邦は、もう城を捨てて逃げてしまったのではないか?

 覇王様が攻めてきたと聞いて驚き恐れ、どこか近くの郡県に……」

 

「あるいは、韓信の西魏(せいぎ)討伐(とうばつ)に主力を投入したから、もう強い兵が残っていないのかもしれない。

 それで、我らに疑いを抱かせ、覇王様が攻撃をためらうようしむけているのではないだろうか」

 

「覇王様! いずれにせよ、今が攻撃の好機です!」

 

 だが、項羽は静かに首を振った。

「いいや。お前ら、血気に(はや)って(こと)仕損(しぞん)ずるな。

 うかつに攻撃をしかけるのは、まずい。

 こちらの人馬は遠路を進軍してきたばかりで疲れているし、今夜は休息を取らせよう。

 そして明日、敵の動向をよく見極(みきわ)めてから対処を考えるんだ」

 

 項羽は、いつになく慎重だった。

 先日の戦いで、項羽は漢軍をなめてかかり、無残な惨敗を喫した。

 あのときの苦い経験が、項羽の胸に(くさび)となって食い込んでいたのである。

 

 ()軍は項羽の命令どおり陣営を築くと、甲冑(かっちゅう)を脱ぎ、馬の(くら)も降ろして、ゆっくりと休息を取りはじめた。

 

 

   *

 

 

 が。

 この動きを敏感に察知し、ひそかに動き始めた男がいた。

 王陵である。

 

 王陵は、()軍が休息を取りはじめたと聞くと、眉間(みけん)にシワを寄せて考え込んだ。

「項羽の性格からして一気に攻め込んでくるかと思ったが、意外に慎重だな……

 遠征(えんせい)の疲れを()やすために一日ゆっくり休息するつもりなら、これは……千載(せんざい)一遇(いちぐう)の好機かもしれん!

 よし。予定を変更し、計略の実行を早めよう!」

 

 王陵は、まず滎陽(けいよう)城内の四方へ乾いた柴(燃料)を大量に積み上げさせた。

 そして選び抜いた500の精兵に火把(かは)松明(たいまつ))を持たせ、こう(めい)じた。

 

「俺は今夜、()の陣を夜襲する。

 お前たちの役目は城の守りだ。

 俺たちが出撃した後で敵が攻めてきたら、この柴に火をつけて防げ」

 

 次に王陵は、夜襲部隊5千人を選抜し、全員の頭に目印として赤い布を巻かせ、手には短い刀を持たせ、口には(ばい)をくわえさせた。

 さらに別の兵500に鉄砲を持たせ、夜襲部隊の後ろへ配置した。

 

 最後に王陵は、夏侯嬰(かこうえい)に3万の軍勢を任せ、こう(めい)じた。

夏侯嬰(かこうえい)殿は、この兵を(ひき)いて待機していてください。俺たちに万一のことがあった場合は救援をお願いします」

 

 夏侯嬰(かこうえい)は、うなずいた。

「承知した。王陵殿、ご武運を」

 

 このように万端(ばんたん)準備を整えたうえで、王陵は時を待った。

 

 西の地平に日が沈み、人の顔も見えなくなった黄昏(たそがれ)(どき)

 王陵は、夜襲部隊を引き連れて出発し、音もなく()陣に忍び寄っていった。

 

 ()陣の近くまでくると、王陵は、数十人の兵に()兵の格好(かっこう)をさせ、陣内に潜入(せんにゅう)させた。

 やがて、そのうちの1人が戻ってきて、こう報告した。

()軍は、遠征の疲れからか、無防備(むぼうび)に休息しております」

 

 王陵は、ニヤリと笑みを浮かべた。

「よし……思った通りだ」

 

 夜襲部隊は、さらに前進し、()陣の目の前までやってきた。

 彼らが、門前で赤い旗を打ち振り合図すると、()陣の門が内側から開かれていく。潜入(せんにゅう)していた漢兵たちの仕業(しわざ)である。

 

「行くぞっ」

 王陵の(めい)によって、5千の夜襲部隊が()陣に駆け込む。

 ()軍の将兵は、ぐっすり眠り込んでいて、この()に及んでまだ何も気づいていない。

 

 今こそ好機!

 王陵は、手に握っていた鉄砲を放り投げ、()陣の真ん中で炸裂(さくれつ)させた!

 その直後、陣の外でも呼応して無数の鉄砲が鳴り響く。

 王陵が連れてきた500の鉄砲兵が、一斉に鉄砲を放ったのだ。

 

 このすさまじい轟音(ごうおん)に、()兵は飛び起き、慌てふためきながら幕舎から転げ出た。

 そこへ、王陵の夜襲部隊5千が猛然と襲いかかった!

 

 ひらめく刃。噴き散る血潮(ちしお)

 漢軍は(われ)(さき)にと乱れ入り、一人も(あま)さじと(おめ)き叫んで暴れまわる。

 

 ()兵は、あたかも10万の敵兵が天から降ってきたかのように錯覚(さっかく)し、ことごとく震えあがった。

 なにしろ時刻はすでに夜。なんの準備もしていないところへ、突然の襲撃である。

 情報は錯綜(さくそう)し、恐怖は無限に拡大する。

 

 ある者は錯乱(さくらん)して駆け回り、またある者は寝ぼけ(まなこ)(こす)(こす)り「槍はどこだ、(げき)はどこだ」と探し歩き、その全員が漢軍に蹴散(けち)らされていく。

 

 斬られる者もあり、転んで味方に踏み殺される者もあり。

 ()陣は、収拾のつかない大混乱に(おちい)った。

 

 王陵は、いよいよ勢いに乗り、さながら無人の野を駆けるが如く、軽快に走りながら左右前後を()ぎ斬りまわった。

 ()兵の(しかばね)は地に充満(じゅうまん)し、血が河をなすほどに流れ出した。

 

 

(つづく)




●注釈
 范増(はんぞう)のセリフにある『虎と素手で戦い……』の部分は、「論語・述而」からの引用。ここでいう『(いにしえ)の人』とは孔子のことである。
 あるとき、孔子の弟子の子路が、こんなことを尋ねた。
『もし先生が三軍を指揮するなら、誰を補佐に選びますか?』
 これに対する孔子の回答が、范増(はんぞう)の引用した言葉である。『虎と素手で戦い、大河を歩いて渡ろうとするような者に軍の補佐は任せられない』……あたりまえのようではあるが、それだけ当時は無謀な将が多かったのかもしれない。
 なお、「西漢通俗演義」や「通俗漢楚軍談」で実際に引用されているのは、『好謀而成((はかりごと)を好んで成す)』の部分だけである。引用元が中国における基礎教養中の基礎教養たる「論語」だけに、『この4文字だけ言えば通じるだろう』という考えで書かれたものと思われる。(みん)代当時の中国知識人層では、「論語」の文章など覚えていて当然。なにしろ科挙に挑む子供は、まずまっさきに「論語」全文の丸暗記から受験勉強を始めるのである。
 しかし現代日本では全く事情が異なるため、本編は分かりやすく文言全体を引用する形に改めた。
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