龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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五十二の乙 どうか、我が子に

 

 

 漢の大将王陵は、()軍がぐっすり眠っているところへ、突然の夜襲をしかけた。

 ()軍は、たちまち大混乱に(おちい)り、なすすべもなく蹂躙(じゅうりん)されていく。

 

 一方、機能不全状態の()軍にあって、いち早く動きだした男もいる。

 他ならぬ覇王項羽である。

 

 中軍にいた項羽は、

夜討(よう)ちだ!」

 という叫び声を聞くと、たちまち幕舎を飛び出して、馬に飛び乗り、槍を握って、疾風(はやて)の如く戦場へ駆けつけた。

 

 しかし()軍はもう散々に打ち破られた後であった。

 そこらじゅうに死体が転がり、血が川の如く流れる地獄絵図。

 

 その奥を見れば、()兵たちが右へ左へ逃げ回るのを、1人の男が槍を横たえて追い回している。

 もちろん、王陵である。

 

 項羽は大喝(だいかつ)一声(いっせい)した。

「貴様が漢の大将かァッ!」

 

 項羽は名馬烏騅(うすい)を走らせ王陵に駆け寄るや、雷光の如き速さで槍を繰り出した。

 対する今夜の王陵は、馬に乗っていない。

 騎馬と徒歩(かち)での白兵戦は、高所から見下ろせるぶん騎馬のほうが有利なのだが、それでも王陵は槍を(たく)みに操り、項羽の攻撃を受け流した。

 

「おっ?」

 項羽が、感心して眉を動かす。

「俺の槍を受けたか。なかなかやるじゃないか」

 

 そこから項羽と王陵は、20合に渡って槍を交わした。

 必死に応戦する王陵。

 どこか楽しげに槍を振り回す項羽。

 

 王陵は、はじめこそ項羽と互角に渡り合っていたが、やがて、じりじりと追いつめられはじめた。

 とにかく覇王項羽は強い。打ち合わせる一槍(ひとやり)一槍(ひとやり)(なまり)の如く重い。

 受け止めるたびに王陵の体力が容赦(ようしゃ)なく削り取られていく。

 

 とうとう王陵は、

「だめだ、(かな)わぬ!」

 と見極(みきわ)め、兵を退()いて逃げ出した。

 

 項羽は、王陵の後ろ姿を見遣(みや)りながら、そこらの()兵たちに声をかけた。

「おい! あの大将は誰だ? 知ってる者はいるか?」

 

 すると、1人の兵が答えた。

「あれは漢の王陵です」

 

「ああ。あれが王陵か……」

 項羽は、うなった。

「以前に劉邦の家族を捕まえようとしたとき、邪魔しやがった奴だな。

 英布や鍾離昧(しょうりまい)でさえ、王陵にうまくしてやられたというが……(第四十三回参照)

 

 俺の槍を受け止めるとは、いい腕をしてる。

 あいつは並の使い手じゃない。今のうちにどうにかしないと、後で大きな害になりそうだ」

 

 そこで項羽は、馬を走らせ、王陵を追撃しようとした。

 そのとき、季布、鍾離昧(しょうりまい)龍沮(りゅうしょ)が駆けつけてきて、項羽を引き止めた。

 

「お待ちください覇王様、追撃してはなりません!

 漢軍は今、勝った直後で鋭気はなはだ(さか)んです。

 

 しかも、先ほどより滎陽(けいよう)城の周囲に火の手があがり、その周囲に兵が雲霞(うんか)の如く集まっておるようです。

 おそらく、韓信が何か計略を残しておいたのではないかと……

 

 いま追撃するのは危険です。

 ここは、まず傷ついた軍を立て直しましょう。

 王陵のことについては、臣らにひとつ計がございます」

 

 項羽は槍を降ろした。

「計とは?」

 

「以前に、王陵の母を捕らえたでしょう。

 それ以来、王陵の母は彭城(ほうじょう)軟禁(なんきん)したままです。

(第四十三回参照)

 

 その母親を、こちらへ移送させましょう。

 そして王陵に『母の(いのち)()しければ()へ帰順せよ』と()くのです。

 

 王陵は、親孝行の気持ちが誰よりも強い男。

 母が人質にされていると聞けば、必ずや降伏してくるでしょう。

 王陵さえいなくなれば、滎陽(けいよう)を落とすのは、手のひらを裏返すよりも容易(たやす)いことです」

 

 項羽は、ふん、と鼻息を吹いた。

「よし。じゃ、それでいってみるか。

 また夜襲されてはかなわん! 陣を30里(12km)後退させろ! あと、誰か彭城(ほうじょう)へ行って、王陵の母親を連れてこいっ!」

 

 

   *

 

 

 一方そのころ、王陵は滎陽(けいよう)城に無事帰還を果たしていた。

 今夜の戦果を調べたところ、漢軍の死傷者は100名あまり。それに対して()軍の死者は、ざっと3万人を超えるものと見積もられた。

 大戦果、まさに快勝である。

 

 漢王劉邦も大いに喜び、王陵を迎えて賞賛(しょうさん)した。

「王陵、やってくれたなあ! たった1戦で3万もの敵を倒すだなんて!

 あの武勇自慢の項羽が、鋭気を失って30里も後退したらしいぞ!

 

 これで、お前の名声は関中全土に(とどろ)くだろう。

 これからもよろしく頼むぜ! いつか必ず、この働きに重く(むく)いるからな!」

 

 だが、この賞賛(しょうさん)を喜んでばかりいられないのは、他ならぬ王陵自身であった。

 項羽と直接槍を交わした王陵は、覇王の強さが身に()みている。たかが一度しりぞけたくらいで安心できる相手でないことは、王陵が一番よく分かっているのである。

 

 王陵は、緊張した面持(おもも)ちで言った。

「先日申し上げた通り、もともと臣は、4、5日ほど固く守り、その後で攻めようと思っておりました。

 そんなおり、()軍が遠路を進軍してきて疲労しているのを知って、予定を変更いたしました。

 

 今回の大戦果は、あくまで敵が無防備になっている(すき)を狙うことで得たもの。

 同じ手は二度と通じない。

 

 覇王は、今なお滎陽(けいよう)から遠くない位置に駐屯(ちゅうとん)したままです。

 遠からず再び攻めてくると見てよいでしょう。

 急いで防戦の準備を整えなければ、次はどうなるか分かりません」

 

 そこへ、張良が進み出た。

「確かにその通りですが、よい(しら)せもあります。

 韓信は、すでに西魏(せいぎ)の平定を終えたそうですよ。じきに戻ってくるでしょう」

 

 さらに陳平(ちんぺい)が付け加える。

「ここは、滎陽(けいよう)城を固く守ることに全力を注ぎましょう。

 そうして韓信の帰還を待ち、その後で反撃の計略を考えるのがようございます」

 

 王陵、陳平(ちんぺい)、張良が少しも浮かれた様子を見せないので、つられて劉邦も顔を引き締めた。

「おお……分かった。しっかり守ってくれ。お前たちに任せるぞ」

 

 漢軍は、総大将王陵の指示のもと、弓や鉄砲をしっかり用意し、東西南北の門を固く閉ざして、()軍の襲撃に備えた。

 

 

   *

 

 

 ……が。

 それから10日あまり、意外にも()軍は全く攻めてこなかった。

 

 攻めてこないならこないで、これもまた不気味である。

 何かあるのではないか……? と漢軍が(いぶか)りはじめた、ある日。

 滎陽(けいよう)の城壁の前に、1人の()兵が近づいてきた。

 

 ()兵は、城壁の上を見上げて叫んだ。

「王陵将軍に会って、ひとつ大事なことを申し上げたい!」

 

 それを聞くと、王陵は城壁の上から身を乗り出して、()兵を見下ろした。

「聞こう! 何事(なにごと)か!」

 

 ()兵が答えて言う。

「王陵将軍の御老母(ごろうぼ)が、今、()の陣営に(とら)われております!

 御老母(ごろうぼ)は王陵将軍に一目(ひとめ)会いたいとおっしゃり、私に言伝(ことづて)を頼まれたのです!

 

 将軍、どうか()軍の陣におこしください!

 もし王陵将軍の到着が遅れれば、覇王様は、きっと御老母(ごろうぼ)を殺してしまうでしょう!

 王陵将軍は、親を見殺しにした不孝(ふこう)の子として万代(ばんだい)不朽(ふきゅう)罵名(ばめい)(不名誉な評判)を残すことになりますぞ!」

 

 これを聞くと、王陵は、その場に崩れ落ちながら声をあげて、大泣きに泣きはじめた。

「お……おおおーっ! 母さん! お、俺のために、母さんが……」

 王陵の目からこぼれる涙は、さながら雨の如くであった。

 

 騒ぎを聞いて、劉邦や張良も駆けつけてきた。

「どうしたどうした」

 と劉邦が問うと、王陵は泣きながら答える。

 

「臣の母は、今年でもう70歳あまり。

 まだろくに親孝行もできていないのに、項羽は母を捕らえて殺そうとしています。

 それで母は、臣に使者をよこし、会いに来てほしいと願ってきたのです。

 

 ……漢王様!

 こんなことをお願いするのは、万死(ばんし)(あたい)する罪とは分かっております。

 しかし……しかし、どうかお願いです。

 ()に行くことを、お許しくださいませ!

 

 一度行けば、臣はもう漢には戻ってこれないでしょう。

 しかし、たとえ体は()にあっても、心は常に漢王様のそばにおります。

 決して()のために働くことはいたしません!

 ですから……どうか、どうか!」

 

 劉邦は、たじろいだ。

 母親のために漢を離反する気なら、黙って城を抜け出せばよいものを……まさか正面から許しを()うてくるとは。

 正直に上にも正直を重ねた馬鹿正直……王陵とは、こういう男なのだ。

 

 しかし、簡単に認めることもできない。

 王陵が一度()に行けば、もう二度と戻ってくることはできまい。

 目の前に項羽の大軍がいるこの状況で、防衛を指揮する総大将を失えば、一体どうなるか……想像するまでもない。

 

 劉邦が悩んでいると、その後ろから、軍師張良が進み出た。

「王陵将軍。あなたは間違(まちが)っておられる」

 

 王陵は、涙にまみれた顔を上げた。

「えっ?」

 

 張良は、淡々と語り聞かせた。

「あなたは先日、項羽の兵を何万人も殺したのですよ。

 項羽は、牙を噛み締めて(うら)み怒り、どんな手を使ってでも王陵将軍を殺してやる、と考えておりましょう。

 

 使者の言葉を軽々しく信じて()の陣に行くなど、わざわざ虎の巣穴に入るようなもの。

 だいいち、本当に()陣に御老母(ごろうぼ)がいるという保証がどこにあります?」

 

 王陵と劉邦は、ふたり声をそろえて、

「あっ!」

 と叫んだ。

 

 張良は、さらに()く。

「ここはまず、信頼できる人物を返答の使者として(つか)わし、御老母(ごろうぼ)()陣にいるかどうか調べるべきでしょう。

 もし御老母(ごろうぼ)がいるのなら、証拠として直筆(じきひつ)の手紙をもらってくればよい。

 王陵将軍が()陣に行くのは、その後でも遅くはありますまい」

 

 劉邦は、うなずいた。

「うん、張良先生の言うとおりだ」

 

 かくして、事の真相を確かめるための使者として、謀士(ぼうし)叔孫通(しゅくそんとう)()陣に派遣されることになった。

 

 

(つづく)




●注釈
 本文で王陵のことを『馬鹿正直』と表現した。この部分は筆者による創作だが、この人物評そのものは史書の中にも見られる。
 「史記・高祖本紀」によれば、あるとき劉邦は『丞相(じょうしょう)にふさわしい人物は誰か』と問われ、こう答えたという。『王陵がいい。ただ、王陵は少し(かん)だから、陳平(ちんぺい)に補佐させろ』
 (かん)というのは、『バカ』を意味する漢字である。ただ、同時に『無邪気である』『素直である』というニュアンスも含まれており、現代日本語に訳すならまさに『馬鹿正直』あたりがふさわしいと思われる。
 なお、上記の『丞相(じょうしょう)にふさわしい人物』のエピソードは、本編でも第八十八回で描写される予定である。そのため、詳しい話の流れについて今は紹介を避ける。
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