叔孫通は、使者として楚軍の陣に行くと、覇王項羽に謁見を求めた。
項羽はすぐに叔孫通と対面し、こう切り出した。
「王陵は、楚の沛県出身だそうだな。
それなのに俺に仕えず、劉邦なんかを助けて悪いことばかりしていやがる。
今、この陣中に王陵の老母を捕らえてある。
もし王陵がすぐに降参するなら、母子ともに安全は保証するし、一緒にいられるように取り計らってやろう。
だが、もしこれ以上グズグズするようなら、母親を斬り殺し、王陵を一万代先まで悪名轟く親不孝者にしてやるぞ」
叔孫通は、あくまで丁重に願い出る。
「そのことなのですが、王陵は、本当に御老母がこの陣にいるかどうか怪しんでおります。
どうか、少しだけ王陵の母と会わせていただけませんか? 私が証拠を持って帰れば、王陵も信じるでしょうから」
項羽は、うなずいた。
「なるほど、そりゃそうだな。
おい、誰か。王陵の母親を引っ張り出してこい」
項羽が命じると、剣を帯びた武士たちが、王陵の母を連れてきて、むりやり項羽の前にひざまずかせた。
齢70を超える老女に対して、あまりにも手荒な扱いである。
叔孫通は胸を痛めながら、王陵の母に、そっと話しかけた。
「ご婦人、あなたが王陵将軍のお母上で?」
王陵の母は、とまどいながら、うなずく。
「そうですが……あなた様は、どなたです?」
叔孫通は、優しく微笑んだ。
「私は漢王からの使者、叔孫通でございます。
王陵将軍は、御老母が苦しみを受けておられると耳にして、楚に降伏したいと考えています。
しかし、本当に御老母が楚陣にいらっしゃるかどうかが疑わしい。
そこで私が漢王の命を受け、真偽を確かめるためにやってきたのです。
御老母、王陵へ直筆の手紙を書いていただけませんか?
それを王陵に届け、あなたが本当にここにおられると伝えましょう。
そうすれば、きっと王陵は、御老母を助けに来てくれるはずです」
だが……
これを聞くと、王陵の母は、急に声を励まして叫び始めた。
「なんてことをおっしゃるのです!
漢王様は心が広く、仁義があり、度量の大きい真の長者(徳のある人)!
やがては天下蒼生(万民)の父母となりなさるお方でしょう?
我が子の王陵が漢王様にお仕えしていると聞いて、私は、本当に良い主を得たと喜んでおりました。
あの子が漢王様に忠義を尽くし、すばらしい功績を立て、未来一万代に至るまで偉大なる漢の名臣と称えられるようになってくれたなら……たとえ私が死んだとしても名は残る。生き続けているも同然です。
それを……私などのために二心を抱き、逆賊に下って桀王・紂王(ともに伝説的悪王)が如き輩を助けてよいものですか!
御辺、お願いでございます。
どうか、あの子に……
漢の陣にお帰りになったら、今の話を、あの子によくよく語り伝えてくださいまし」
そこまで一気にまくしたてると、王陵の母は、老人とは思えぬすばやい動きで、そばにいた武士に駆け寄った。
そして武士の帯びていた剣を抜き取り、あっというまに己の首を切り裂いて自害してしまった。
叔孫通は、
「あっ!」
と叫んで飛びかかり、王陵の母を止めようとした。
だが、全ては遅すぎた。
叔孫通が駆け寄ったときには、もう王陵の母の首は、地に落ちた後だったのである。
予想だにしない出来事に、その場の全員が呆気に取られた。
まさか、70歳を超える老婆が、息子の足手まといとならないために、こうも潔く死を選ぶとは……
なんと悲しく、なんと鮮烈な死であろう。
まさに烈女と呼ぶにふさわしい。
楚将たちは胸を打たれ、口々に王陵の母を賞賛しはじめた。
それからしばらく、ざわめきが収まらないほどであった。
しかし、その中にただ一人、まったく別の感想を抱いている者がいた。
覇王項羽である。
「こ……んのクソババア!!
なんでこんなにバカなんだ!!
おい! 早くその死体を微塵に斬り刻んで、見せしめにしてしまえ!!」
「えっ!?」
誰もが耳を疑った。叔孫通が青ざめた。楚の大将たちまで一緒になって顔色を変えた。
いくらなんでも、『死体を斬り刻め』とは!
楚将の季布が、大慌てで項羽の前に拝伏して諌める。
「いけません!
いえ、その……確かにこの老女の罪は許しがたいものですが、死体を傷つけるというのは、ちょっと……
それよりも……そう、むしろ亡骸を丁重に扱い、故郷の沛県に送って、きちんと埋葬してやってはいかがでしょう?
父母の墓というのは人間の根本。草木にとっての根、水にとっての水源のようなもの。
特に王陵は有名な孝行者です。こちらから弁の立つ者を遣わして説得すれば、きっと心を動かされ、母の葬礼を行うために楚へ降伏してくるでしょう。
逆に、もし母親の死体を傷つけたりしようものなら、王陵は心に深く傷を負い、ますます楚を怨んで、これまで以上に力を尽くして漢を助けるようになります。
そしていつか、母の仇を討つために、命を捨てて攻めてくるはず……
そうなれば、防ぐことは困難です」
項羽は、深く溜め息をついた。
自分自身の中で暴れ狂う怒りを、どうにか抑えこもうとしているようだった。
「ふーっ……
そうだな……うん。そうかもしれん。
じゃあ、王陵の母の屍は、沛県に送って、丁寧に埋葬してやれ」
そして項羽は、叔孫通に目を向けた。
「おい、お前。
滎陽に帰ったら、劉邦と王陵に伝えろ。
早く降伏するなら、それでよし。さもなくば、たちまち滎陽城を打ち破って、お前ら2人とも首を刎ねてやるぞ……とな」
ここで叔孫通は、突然、媚びるような微笑を浮かべ、項羽に半歩すり寄った。
「覇王様、臣から陛下にお願いがございます。
漢王劉邦は、とんでもない無礼者で、いつも賢人を好き勝手に罵るのです。
臣は、それが我慢ならず……前々から覇王様にお仕えしたいと願っておりました。
実は、今日こちらへ参上したのも、王陵のためというより、任務にかこつけて覇王様に帰服を願い出るためだったのです。
同様に、王陵も覇王様をお慕いしております。
そこで……
臣が漢軍の城に戻りましたら、王陵と相談し、2人一緒に覇王様のもとへ降伏して来ようと思うのですが、いかかでしょうか?」
項羽は目を丸くした。
「あっ、そうだったのか?
ふーん。俺に味方するというなら、まず漢軍の内情を教えろ。劉邦のところには、今、大将や兵士がどのくらいいる?」
叔孫通が、立て板に水を流すように、すらすらと答える。
「はい、現在滎陽城におりますのは、兵士の数20万あまり。大将は6、70人。
貯えていた粟も最近倉から出しはじめたばかり。まだまだ兵糧はたっぷりございます。
それなのに城外へ出て戦おうとしないのは、深い企みがあってのこと。
実は……大元帥韓信が、すでに魏豹の討伐を終えましたので、そこから直接彭城に軍を向けたのです。
覇王様がいない間に彭城を落とし、劉邦の父太公や妻の呂后を奪い返し、その勢いのまま代州・燕・斉などの周辺国家を破る作戦です。
そうやって覇王様の逃げ道を完全に塞いでから、ゆっくり追いつめるという計画で……
だから漢軍は、のんびりと時間を過ごしながら、韓信を待っているのです。
もし韓信の大軍が背後に回り、滎陽の兵と呼応して挟み撃ちしてきたら、覇王様は窮地に陥ります。
なにとぞ、お早く対策を打たれますよう……」
項羽は、眉間にシワを寄せた。
韓信が、楚の本拠地彭城を狙っている……これは非常にまずい。
今、彭城は手薄になっている。韓信率いる精鋭部隊に攻撃されたら、とても防ぎきれまい。
項羽は、内心の焦りを押し隠しながら尋ねた。
「叔孫通よ。お前が滎陽城に戻ったとして、それから何日で王陵を連れて降伏してこれる?」
叔孫通が答える。
「日時のお約束は難しゅうございます。周囲に怪しまれたら、それでおしまいですから……
漢軍の警備に隙を見つけたら、すぐに出てこようと思います。
覇王様は、彭城の守りを一刻も早く固めてくださいませ」
(つづく)