叔孫通は、覇王項羽に降伏したいと申し出た。
が、その言葉は一から十まで嘘八百であった。
叔孫通は、この機会を利用して項羽を騙す計略を思いつき、その場でとっさに弁舌を紡いで、みごとたぶらかしてみせたのだ。
叔孫通は、項羽の許しを得て、滎陽城に帰還した。
そして劉邦に謁見すると、王陵の母が自害したことを、苦々しげに報告した。
謁見の場に居合わせた王陵は、母親の運命を知るや、一声大きく叫び、そのまま慟哭しながら地に倒れ込んでしまった。
周囲の人々が慌てて王陵に駆け寄り、手を差し伸べて助け起こそうとする。しかし王陵は、悲しみのあまり、立ち上がることさえできない……
しばらくして……
王陵はやっと我に返り、よろめきながら立ち上がった。
王陵は、目を真っ赤に怒らせ、歯ぎしりの音を響かせながら、天地を震わすほどの大声で罵りたてた。
「匹夫項羽ッ! よくも母を殺したな! 貴様とは誓って共に天を戴ないぞ!」
叔孫通は、王陵のすさまじい怒りようを見ながら、心の内で考えた。
「ううむ、これはいかん……
この調子では、項羽が母親の屍を丁重に葬った話を伝えたら、王陵が恩を感じて心変わりするということも、ありえるやもしれん。
あのことは、私の胸の中に隠しておいた方がよさそうだ。
王陵には申し訳ないが、漢のためには、そのほうがよい……」
そこへ、張良が進み出た。
「漢王様。今、陳平殿とも相談したのですが」
劉邦が、張良へ目を向けた。
「おう。なんだ?」
「項羽は、叔孫通に欺かれ、韓信が彭城を襲うと思い込んでおります。
当然、すぐに彭城へ引き返したいと考えているでしょう。
にもかかわらず、まだ陣を畳んでいないのは、王陵と叔孫通が降参してくるのを待っているからです。
もしこのまま時を過ごせば、いずれ項羽の耳にも真相が伝わり、叔孫通の言ったことが全て嘘だとバレてしまいます。
そうなれば、項羽が一気に攻め込んでくることは確実です。
そこで、私にひとつ、計がございます。
かようかようにすれば、項羽は気を失って、ただちに立ち去るでしょう」
劉邦は、張良から計の内容を聞き、うなずいた。
「おお、すごくいい作戦だ! すぐにやってくれ!」
張良・陳平が考えた計とは……
滎陽城の牢獄に入れられていた死刑囚を2人、牢から引き出して斬首し、城門の上に晒すことだった。
そのうえで、城下にこんな立て札を立てた。
『叔孫通が項羽に内応し、王陵とともに謀反を企てた。
事が露顕したので、この2人を誅殺した』
*
「叔孫通と王陵が処刑された!」
という報告は、滎陽に入り込んでいた楚の間者によって、たちまち覇王項羽の元へ、もたらされた。
項羽は、がっくりと肩を落とした。
「叔孫通と王陵が裏切る計画は、ダメになっちまったか……
滎陽は、堅固な城だ。
攻めても、すぐに破るのは難しい。
こうやって時間を無駄にしている間に、韓信が彭城を襲ったら……
叔孫通が言った通り、俺は進んでも行き場が無く、退いても帰る場所が無いってことになってしまうぞ」
そこへ、大将の龍沮が申し出た。
「覇王様。ここは、少しずつ少しずつ兵を静かに撤退させるのが良いと思われます。
もし急に後退すれば、きっと漢軍が追撃してくるでしょう」
項羽は、うなずいた。
「よし。それしかないな」
かくして楚軍は撤退を決めた。
それから一昼夜のうちに、楚の大軍は、1兵残らず立ち去っていったのだった。
*
この楚軍の動きを、滎陽の城壁上から、見張りの兵が目撃していた。
「楚兵が撤退してしまいました!」
という報告を受けて、劉邦は、喜び勇んで諸将に言った。
「やったぞ! 張良先生の計略どおり、項羽は撤退しはじめた!
お前ら、すぐに追いかけて項羽の背中を襲ってやれ!」
が、張良が進み出て、ピシャリと制止する。
「絶対にいけません」
劉邦が目を丸くした。
「えーっ、ダメェ?」
張良が、うなずく。
「ダメです。
楚軍は、一気に引き上げたように見せかけながら、実は秩序立って、ゆるゆると退いております。
これは明らかに、追撃を予測して返り討ちにせんとする構え。
范増の計か、他の者の計かは分かりませんが、うかつに追撃を仕掛けては危険です。
むしろ、今まで以上に用心して守りを固めるべきです」
そこで漢軍は、周勃・周昌の2人に一手の軍勢を与え、滎陽から50里(20km)の地点に陣取らせて、楚軍の動きを警戒したのだった。
*
漢軍が追撃しなかったため、それ以上の戦闘は起こらず……
楚軍は、そのまま無事に彭城へ帰還した。
項羽は、城に戻るなり、老軍師范増を呼び、滎陽で起きた出来事を詳しく語って聞かせた。
「……というわけで、しかたなく帰って来たんだ」
范増は、全てを聞き終えると、大きく溜め息をついた。
「陛下……始終ことごとく敵の計に欺かれましたな」
項羽は、ギクリと肩を震わせた。
「えっ!?」
范増が淡々と説明する。
「叔孫通は、長く劉邦に仕えてきた心腹の臣ですぞ。どうして我らに降参などしましょうか。
韓信がまだ西魏討伐から帰らず、城内は兵力も兵糧も空同然で、とても陛下を迎え討つことができない。だから、どうにかして楚軍を帰らせようと考え、適当なことを言ったのですよ。
叔孫通が陛下に申し上げたことも、叔孫通が殺されたということも、すべて偽りとみて間違いあるまい」
説明されてみれば、いちいちもっとも。
項羽は赤面した。敵の言うことを素直に信じ込んでしまった自分が恥ずかしいやら、情けないやら……
項羽は頭から湯気を立てて怒り出した。
「くそーっ! あの匹夫、俺をバカにしやがってーっ!
よし! もう一回滎陽に行ってくる! 今度こそ劉邦を殺すまで戻らないぞ!」
范増が、静かに首を横に振る。
「いやいや。今となっては、もう遅い。
そろそろ韓信が西魏から帰ってくる頃でしょう。今度は、攻めても簡単には勝てませぬ。
まあ、過ぎたことはしかたがない。とりあえず今は、軍を休ませて鋭気を養い、しばらく時機をうかがいなされ」
「うう……くそーっ……」
こうなっては、范増の言うとおりにするしかない。
項羽は、せっかくの好機を台無しにしてしまったことを悔やみつつ、間者を放って韓信の動向を探りはじめたのだった。
(つづく)
■次回予告■
魏討伐を終え無事帰還した大元帥韓信。後方の安定を得た漢軍は、詰めの一手に向けて新たな計画に着手する。
中国北部に割拠する代州、趙、燕、そして斉。これら諸国を平定し、項羽包囲網を完成させる。韓信率いる漢軍別動隊の快進撃が今、はじまった。
次回「龍虎戦記」第五十三回
『決戦への布石』
乞う、ご期待!