大元帥韓信は、西魏王魏豹を捕らえ、無事、滎陽に帰還した。
そして帰ってくるなり漢王劉邦に謁見し、魏豹一族を劉邦の前に引き出してきた。
劉邦は、魏豹の顔を見るや、声を大にして罵りはじめた。
「魏豹!
お前は56万の軍勢を率いて睢水で戦い、30万人以上を死なせた!
この俺だって、天の助けでどうにか逃げのびたけど、一歩まちがえば命を落としていたところだ!
だが、お前には一国の王という立場がある。
だから誅殺はせず、平陽へ帰らせるだけで許してやったんじゃないか。
そのことを恩に感じてくれたっていいくらいだろう。
それなのに、お前は! 恩に着るどころか、俺を恨んで謀反を計りやがって!
もう生かしちゃおかねえぞ! 何か言いたいことはあるか!?」
魏豹は、むっつりと顔をしかめ、開きなおった。
「言うことなど何もない。さあ、殺せ!」
そのとき、魏豹一族の中から、1人の老婆が進み出た。
齢80を数えようかというこの老婆は、魏豹の母親である。
魏豹の母は、悲しみに声を震わせながら、切々と劉邦に訴えた。
「我が子の魏豹は、無知なあまり、反逆という過ちを犯しました。
国法をもって正せば、この罪は誅殺を免れがたいものでしょう。
ただ……
魏の公子たちは、始皇帝によってことごとく殺され、今や生き残りは我が子魏豹ただ1人……
もしこの子が死んだら、魏の後裔は完全に絶えてしまいます。
漢王様、どうか、この子の命ばかりはお助けください。
魏王家の血筋を残し、祖先の祭祀を繋ぐことをお許しください。
どうか、どうか……」
魏豹の母の懇願に、劉邦は心を動かされた。
劉邦は大きく嘆息した。
「おい、魏豹よ。
一家の柱たるべき男子が、こんな年老いたおっ母さんに心配かけてどうすんだ!
今度こそ誅殺してやろうと思ってたが……お前のお母さんの泣き顔を、これ以上見たくねえ」
結局……
劉邦は、魏豹の処刑を取りやめ、庶人へ落とすことに決めた。
庶人という身分は、今に言う一般庶民とは、かなり意味が異なっている。
庶人は、赦免された罪人や奴婢からなる特別な身分階級である。奴隷ではないし、田畑の相続も許されるが、仕官には制限がかけられていた。
つまり劉邦は、魏豹の罪を完全に許したわけではないのだ。
慎重に魏豹の権限を剥奪しつつ、命だけは見逃してやった……という表現が、最も実態に近いと言えよう。
連座して魏豹一族も城外に追放されることとなったのだが、このとき劉邦は、魏豹一族の中に、容色すばらしく麗しい2人の女性を見出した。
魏豹の妻の、薄氏と管氏である。
好色な劉邦は、たちまち両美人に目を奪われた。
薄氏と管氏は後宮に迎えられ、劉邦の側室となった。
一方、魏豹の腹心であった大夫周叔は、西魏の都平陽を預けられ、周辺郡県の管轄を任されたのだった。
*
魏豹一族の処分が済むと、劉邦は韓信に言った。
「これで西魏は平定できたな。
大元帥、次はどうする?」
韓信は、うなずいた。
「北部に目を向けるべきでしょう。
ここ滎陽城から真北に位置する代州……そこに拠点を置く夏悦・張同の2人が、王化に服せず反抗を続けています。
まず、代州の賊を誅殺し、そこから勢いに乗って東進し、趙、燕、斉と順に破っていく。
これら諸国を平定してしまえば、我が漢の勢力圏によって楚を完全に包囲することができます。
その後で一息に楚を滅ぼし、中国統一の大業を成しとげましょう」
劉邦は、大いに喜んだ。
「よしっ! じゃあ韓信、よろしく頼むぞ!」
*
こうして漢軍は、項羽との最終決戦を見据えて動きだした。
滎陽を拠点とする漢王劉邦は、王陵を大将として守りを固める。
本拠地咸陽を守る相国蕭何には、使者を遣わし、こう伝えた。
「固く関中を守り、法令を明確にして軍民を治めよ。
わざわざ漢王へ奏上するまでもない政策は、相国の判断で、良いと思うようにやってくれてかまわない」
蕭何は謹んで王命を受け、昼夜孜々として(休まず懸命に努力して)政治に取り組んだ。
蕭何が後方で本拠地をきちんと治め、莫大な量の兵糧を滞りなく戦地へ送り続けたため、この後、漢の大軍はいつも力いっぱい戦うことができた。
こうして足場を固める一方、大元帥韓信は、漢軍別動隊を率いて北へ向かった。
まずは代州。そこから一気に海まで東進し、趙、燕、斉など北部諸国の平定を狙ったのである。
*
さて、その中国北部、代州。
この地を支配する夏悦と張同が、各地の勢力の動向について議論していると……
物見の兵が部屋に飛び込んできて、報告した。
「漢の軍勢が、おびただしい数で攻めてきて、我が城から30里(12km)の地点に陣を置きました!」
夏悦が言う。
「韓信は、先日、西魏の魏豹を捕らえたらしい。
つまり、勝ちの勢いに乗って攻め寄せてきた、というところだな。
となれば、気が緩み、心が驕っているだろう。
対する我々は休息十分。人馬ともに元気いっぱいだ。
漢軍が備えをする前に、すばやく打って出て攻めこもう。そうすれば完全勝利できる。
これは、いわゆる『逸を以て労を待つ』の計だ」
『逸を以て労を待つ(以逸待労)』とは……
じっと守りを固めて攻撃を耐え、敵が疲労したところを狙って反撃をしかける戦術のことである。
確かに、韓信の軍は、西魏討伐からの連戦になるうえ、長距離を移動してきた直後である。
人馬ともに相当な疲労を抱えているのは間違いない。
張同は、大きく、うなずいた。
「うむ、貴公の言うとおりだ。やろう!」
代州軍は、夏悦・張同の指揮のもと、手際よく合戦準備に取りかかった。
*
一方こちらは、代州の城から30里のところに位置する漢軍の陣。
韓信は、諸将を集めて言った。
「我々は、代州まで遠路を移動してきたばかりで、まだ防備が整っていない。
夏悦と張同は、兵法の達者だ。
我らの弱点を見抜き、必ず攻撃をしかけてくるだろう。
汝ら、みな疲れているとは思うが、ここが踏ん張りどころだ。
敵の策を逆に利用して裏をかく!
いま辛苦を厭わず、心を尽くして戦えば、敵を全員捕虜にすることができよう」
諸将は、力強く答える。
「おう! 命令をお聞かせください!」
韓信は、うなずいた。
「よし。
では、まず曹参! 貴公は一軍を率い、攻撃をしかけて敵を誘いだせ!」
「承知!」
「灌嬰! 盧綰! お前たちは道の左右に伏兵を置き、敵が通過するのを待って退路を塞げ!」
「は!」
「お任せを!」
「樊噲! 汝は山の影に兵を伏せ、敵が敗走する姿を見たら、一気に飛び出て、とどめを刺せ!」
「おうっ!」
そして韓信自身は、500の精兵を率い、平山という山を迂回して小道を進み、白石口なる谷に入って、兵を伏せた。
*
対する夏悦は、張同に城の守りを任せ、自分は午の刻(昼12時前後)に1万の軍勢を率いて出撃した。
夏悦は、韓信の陣の前に押し寄せ、声を大にして叫びかけた。
「股を潜った男(韓信)は、この中にいるのか?
すぐに出てきて降参せよ!」
すると漢の陣門が開き、中から、1人の大将が馬を躍らせ駆け出てきた。
その手勢が掲げている旗を見れば、『漢大将曹参』と大きな文字で書き記してある。
しかし、一体どうしたことだろう。
曹参の軍勢は旗幟がまるで整っていない。兵の隊列も交わったりバラけたり、あちこち乱れ放題。
まるで素人の集団である。
夏悦は、大笑いした。
「はっはっは! なんだ、あの情けない軍勢は?
人は皆『韓信は兵を用いるのが上手い』と言っているが、見ると聞くとでは大違いだ。
まるで子供の遊びではないか。恐るるに足らぬわ」
夏悦は、軍勢の前に進み出ると、曹参に向かって声をはりあげた。
「おい! 股潜り男は、なぜ出てこないんだ?
ひょっとすると、この夏悦の名を聞いて、腰を抜かしてしまったのかな?
ならば、しかたない。汝などは無名の匹夫だが、まずは汝で、我が刀の切れ味を試してやろう!」
この挑発に、曹参は大いに怒った。
曹参は戟を取り、馬を飛ばして夏悦に駆け寄り、戦いを挑んだ。
そこから戦うこと10合ほど。
曹参は急に顔を青くして、
「だっ、だめだ! 敵わぬ!」
と怖気づき、馬を反転させて逃げはじめた。
……というのは、もちろん、すべて詐りである。
曹参の軍勢が素人同然に乱れていたのも、敵を油断させるための演技であった。
曹参は、負けたフリをして、夏悦を誘い出そうとしているのだ。
そうとは知らない夏悦は、
「逃がさん!」
と兵を駆り立て、曹参の後を追いかけた。
そうして20里(8km)ほども進んだところ……
突然、夏悦の周囲で太鼓の音が湧き起こった。
漢の伏兵である。
左手からは灌嬰。
右手からは盧綰。
二手の軍勢が殺出し、夏悦の背後を塞いでしまったのだ。
これを見て、前方の曹参も急に引き返してきて、夏悦に襲い掛かってきた。
「しまった! 罠か!」
夏悦は顔面蒼白となった。
(つづく)