龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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五十三の下 決戦への布石

 

 

 夏悦(かえつ)の軍に敗れた漢軍は、ほうほうの(てい)で逃げ出した。

 その後ろを、夏悦(かえつ)は調子に乗って追い回していたのだが……

 

 これは漢軍のしかけた罠であった。

 夏悦(かえつ)がうっかり敵地の奥へ深入りしたところを狙い、漢の伏兵が右から、左から、そして前から、一斉に襲いかかったのだ。

 

 後悔しても、もう遅い。

 3方向から攻め立てられ、夏悦(かえつ)の兵は、みるみるうちに()たれていく。

 四方から降り注ぐ鉄砲・火矢は雨のよう。

 無数に投げ込まれた火把(かは)松明(たいまつ))などは、おぞましい飛蝗(バッタ)の大群さながらである。

 

 日も、はや西に沈みかけている。

 このまま夜になれば、逃げることもできず全滅させられるだけだ。

 

 夏悦(かえつ)は震え(おのの)き、どうにか生きのびる道はないかと周囲を見回した。

 すると、平山(へいざん)に続く小路(こみち)だけは漢軍がいない。

 

「あそこだ! 平山(へいざん)方面へ逃げるぞ!」

 夏悦(かえつ)は、兵を(はげ)まし、包囲を強行突破して逃げだした。

 

 だが漢軍の攻撃は激しい。

 どうにか包囲から抜けでた時には、夏悦(かえつ)の兵は、わずか110騎にまで減っていた。

 

 しかも、背後からは漢の大将曹参(そうさん)灌嬰(かんえい)盧綰(ろわん)の軍勢が、執念(しゅうねん)深く追いかけてきている。

 夏悦(かえつ)は馬に(むち)を加え、必死になって山道を逃げ走る。

 

 と、そのとき。

 またも(とき)の声が天まで響かんばかりに湧きおこり、夏悦(かえつ)の正面に一彪(いっぴょう)の軍馬が立ちはだかった。

 その軍勢の中から、1人の大将が進み出て、大きな目を怒らせ夏悦(かえつ)怒鳴(どな)りつけた。

 

「俺こそは舞陽候(ぶようこう)樊噲(はんかい)

 ずっとお前を待ってたぞ! さあ、早く首を渡せ!」

 

 夏悦(かえつ)は、胆魂(きもだましい)が体から飛び出てしまうほどに驚き恐れ、とっさに横へ転進した。

 そちらは、まともな道さえない、山中(さんちゅう)の谷間へ入り込む方向である。

 

 樊噲(はんかい)は、

「あっ! そんなところに逃げ込みやがって! 逃がすかよっ」

 と、兵を駆り立て、追いかけ始めた。

 

 谷の左右には、大きな岩壁がそびえ立っている。

 鳥でさえ飛び抜けるのに苦労するほどの(けわ)しさだ。

 そんな谷の中を、樊噲(はんかい)の軍勢は、串刺し魚のように列をなして追撃していく。

 

 一方そのころ、逃げる夏悦(かえつ)の方は、谷の奥で呆然(ぼうぜん)と立ち尽くしていた。

 夏悦(かえつ)の前には、うず高く積みあがった大岩がある。

 この岩が、道を完全に(ふさ)いでしまっていたのである。

 

 とても馬で越えられるような地形ではない。

 しかも、背後には、樊噲(はんかい)(せま)ってきている……

 

「……ええい、しかたない!」

 夏悦(かえつ)は、ここで馬を捨て、(おのれ)の身ひとつで大岩をよじ登り始めた。

 

 生き残りたい。逃げのびたい。その一念で木の根を(つか)み、岩に貼りつき、力を振りしぼって登り切り、転げるように向こう側へ降りる。

「やった! 乗り越えたぞ! これでどうにか逃げ切れる!」

 と、夏悦(かえつ)がホッと胸をなでおろした……そのとき。

 

 夏悦(かえつ)の前方で、にわかに鉄砲が1発、鳴り響いた。

 それに続いて銅鑼(どら)太鼓(たいこ)がやかましく響いたかと思うと、前方から、漢軍が姿を現したではないか。

 

 大元帥韓信が(みずか)(ひき)いる、最後の伏兵である。

 

 夏悦(かえつ)は、

「あ……あ……」

 と、力無く声をもらしながら、よろめいた。

 

 夜も()けた。兵も減った。体も疲れ果てている。夏悦(かえつ)はもう、頭が全く回っていない。

「あー……どうしたらよいのだろう……」

 などと夏悦(かえつ)がボンヤリ考えている間に、韓信の手勢は、すばやく夏悦(かえつ)を取り囲み、手際(てぎわ)よく縛り上げてしまったのだった。

 

 

   *

 

 

 さて、同じころ。

 代州の城を守っていた張同は、不安に駆られて動き始めていた。

 

夏悦(かえつ)殿が出撃したのは(うま)の刻。

 それが、こんな夜中になっても帰ってこないとは……

 きっと、深入りして敵の計略にハメられたに違いない。

 早く行って救出せねば!」

 

 張同は、5千の兵に火把(かは)を持たせ、城から出撃した。

 

 少し進んだところで、()く手の方から、敗軍の兵士が10人あまり逃げ帰ってきた。

 張同は、その兵を呼び止めて問う。

「お前たち! 夏悦(かえつ)殿は、どうなった?」

 

 兵士たちが答える。

夏悦(かえつ)将軍は、あまりに奥深くまで追撃しすぎて、敵の計略にハメられました。

 味方の兵をことごとく()たれ、夏悦(かえつ)将軍は谷の中に逃げ込んで行かれましたが……きっと、今ごろは討死(うちじに)しておられるかと……

 

 私たちも、もう少しで殺されるところだったのですが、どうにか脱出して逃げてきたのです。

 張同将軍、軽々しく前へ出てはいけません!

 夜も()けて、見通しも悪くなりました。おそらく敵は伏兵を置いております!」

 

 これを聞くと、張同は、痛恨(つうこん)の思いで歯噛(はが)みした。

「私の予想通りになってしまったか……くそっ!」

 

 どんなに()やんだところで、今さらどうすることもできない。

 すでに夏悦(かえつ)()たれた可能性が高い以上、救出に向かうのも危険なばかりで意味が無い。

 しかたなく、張同は城に引き返し、固く四方の門を守り始めたのだった。

 

 

   *

 

 

 韓信は、夏悦(かえつ)を捕らえて本陣に戻った。

 

 そして陣の奥に座ると、左右に燈火(ともしび)を燃やし、刀、槍、剣、(げき)を立てつらね、漢軍の諸将を並ばせて、十分に威儀(いぎ)を正してから、夏悦(かえつ)を縛って引き出させた。

 

 韓信は、夏悦(かえつ)に言った。

「我が(あるじ)、漢王様の仁義と人徳は、中華から蛮夷(ばんい)まで広く知れ渡り、遠近の勢力を動かしている。

 それなのに、なぜ汝らは、漢王様に帰服せずにいるのか?

 

 これまでの(あやま)った行いを(あらた)め、ひたすら漢に仕えよ。

 今後二度と漢王様の(めい)に逆らわないというなら、すぐに解放して代州へ帰らせてやろう」

 

 しかし夏悦(かえつ)は、吐き捨てるように答えた。

「私の願いは、王位に昇ることだった。

 だが、こうして貴様に捕らえられた以上は、もう(ここらざし)()げることはできまい。

 さあ、早く殺せ!

 (また)(くぐ)り男に降参などするものか!」

 

 韓信は怒った。

匹夫(ひっぷ)め、無礼はなはだしい。

 今すぐに誅殺(ちゅうさつ)してやりたいくらいだが、深夜だからやめておこう。

 明日、張同を()()りにしたら、2人一緒に首を斬り、城門にかけて(さら)しものとしてくれる」

 

 韓信は、夏悦(かえつ)を縛らせて檻車(かんしゃ)に押し込み、多くの兵士に守らせた。

 

 

   *

 

 

 次の日。

 韓信は、大軍を押し出して、代州の城へ攻め寄せた。

 しかし、張同は、ひたすら固く守るばかりで、まったく城外に出て戦おうとしない。

 

 そこで韓信は、夏悦(かえつ)檻車(かんしゃ)を城壁の前まで兵に()いて行かせ、兵にこう叫ばせた。

「見ろ! 夏悦(かえつ)は捕らえたぞ!

 張同よ、早く降伏しろ!」

 

 張同は、この様子を城壁の上から見て、大声で(なげ)き悲しんだ。

「おお、夏悦(かえつ)将軍!

 こんなにも苦しめられている貴公の姿を、とても見ていられない! 私の心が砕けてしまいそうだ!」

 

 夏悦(かえつ)は、檻車(かんしゃ)の中から、あらん限りの声を振りしぼって叫んだ。

「張同ーっ! 私のことは気にするな!

 どうか御辺(ごへん)は死力を尽くして城を守ってくれ! 私1人のために(また)(くぐ)り男に降伏することはないぞ!」

 

 これを聞いた韓信は、いらだって目尻をヒクつかせた。

「憎たらしい匹夫(ひっぷ)(げん)だ」

 

 韓信は、氷のように冷ややかに、夏悦(かえつ)の処刑を(めい)じた。

 夏悦(かえつ)檻車(かんしゃ)から引きずり出され、その場で、たちまち首を()ねられてしまった。

 

 張同には、これを見ていることしかできなかった。

 張同は声を放って大いに泣き、その場に膝から崩れ落ちた。

夏悦(かえつ)殿っ……!

 あなたが死んでしまった今、一体誰のために城を守ればよいというのだ。

 もうよい……

 ()しくもない(いのち)()しんで敵に(はずかし)められるより、ここで死んで、あなたから受けた今までの御恩(ごおん)(むく)いよう……」

 

 張同は、そう言い終えると、抜身の剣を口にくわえ、城壁から地面へと身を投げて、自分の剣に体を貫かれて死んでしまった。

 

 これに慌てたのは、代州軍の将兵たちである。

 敵が城壁の前まで迫っているこの状況で、軍を指揮する2人が次々死んでしまったのだから、たまらない。

 

 代州軍の副将王存は、謀士(ぼうし)の単忠を呼んで、こう相談した。

「城の中に強兵も無く、外に助けてくれる勢力も無い。

 これ以上、守りを固めても、なんの益もあるまい……」

 

 こうして代州軍は、ついに降参を決断し、城門を開いたのだった。

 

 

   *

 

 

 韓信は、大軍を(ひき)いて城に入ると、まず、いつものように城内の人民を安心させる施策(せさく)に取り組んだ。

 そして王存に代州の守り任せることとし、滎陽(けいよう)城の劉邦へは戦勝の知らせを送った。

 

 ここで漢軍の兵力を(かぞ)え直してみると、西魏(せいぎ)・代州の軍勢を加え入れたことによって、合計30万人以上にも達していた。

 

「この勢いに乗って、次は(ちょう)()つ」

 韓信はこう宣言し、さらなる遠征の準備を三軍に(めい)じたのだった。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

■次回予告■

 

 連戦連勝の余勢を駆って駒を進める漢別動隊。次なる相手は勇士陳余(ちんよ)(よう)する強豪の(ちょう)

 この難敵を()ち果たすべく、韓信は思いもよらぬ策に打って出る。奇想天外、前代未聞、だが後世には知らぬ者さえなくなるほどの名戦術。その原点はこの一戦にあり。

 

 次回「龍虎戦記」第五十四回

 『背水の陣』

 

 ()う、ご期待!




●注釈
 夏悦(かえつ)は、「史記・張耳(ちょうじ)陳余(ちんよ)列伝」や「史記・曹相国(しょうこく)世家」に夏説(かえつ)の名で登場している。
 夏説(かえつ)(ちょう)の重鎮陳余(ちんよ)の部下。項羽による十八王封建のとき、元(ちょう)王の趙歇(ちょうけつ)は僻地の代州に追いやられた。陳余(ちんよ)(ちょう)の実権を握ると、この趙歇(ちょうけつ)を国に呼び戻し、あらためて(ちょう)王として立てた。
 こうして(から)になった代州へ交代要員として派遣されたのが夏説(かえつ)であった。陳余(ちんよ)夏説(かえつ)相国(しょうこく)に任命し、代州の守りを任せたのだ。
 それから二年ほど後、韓信率いる漢軍別動隊が代州を攻撃した。このとき夏説(かえつ)曹参(そうさん)に敗北し、斬られてしまった。
 今回の代州での戦いは、次回描かれる(ちょう)攻略の前哨戦と捉えてよいだろう。
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