夏悦の軍に敗れた漢軍は、ほうほうの体で逃げ出した。
その後ろを、夏悦は調子に乗って追い回していたのだが……
これは漢軍のしかけた罠であった。
夏悦がうっかり敵地の奥へ深入りしたところを狙い、漢の伏兵が右から、左から、そして前から、一斉に襲いかかったのだ。
後悔しても、もう遅い。
3方向から攻め立てられ、夏悦の兵は、みるみるうちに討たれていく。
四方から降り注ぐ鉄砲・火矢は雨のよう。
無数に投げ込まれた火把(松明)などは、おぞましい飛蝗の大群さながらである。
日も、はや西に沈みかけている。
このまま夜になれば、逃げることもできず全滅させられるだけだ。
夏悦は震え慄き、どうにか生きのびる道はないかと周囲を見回した。
すると、平山に続く小路だけは漢軍がいない。
「あそこだ! 平山方面へ逃げるぞ!」
夏悦は、兵を励まし、包囲を強行突破して逃げだした。
だが漢軍の攻撃は激しい。
どうにか包囲から抜けでた時には、夏悦の兵は、わずか110騎にまで減っていた。
しかも、背後からは漢の大将曹参・灌嬰・盧綰の軍勢が、執念深く追いかけてきている。
夏悦は馬に鞭を加え、必死になって山道を逃げ走る。
と、そのとき。
またも鬨の声が天まで響かんばかりに湧きおこり、夏悦の正面に一彪の軍馬が立ちはだかった。
その軍勢の中から、1人の大将が進み出て、大きな目を怒らせ夏悦へ怒鳴りつけた。
「俺こそは舞陽候樊噲!
ずっとお前を待ってたぞ! さあ、早く首を渡せ!」
夏悦は、胆魂が体から飛び出てしまうほどに驚き恐れ、とっさに横へ転進した。
そちらは、まともな道さえない、山中の谷間へ入り込む方向である。
樊噲は、
「あっ! そんなところに逃げ込みやがって! 逃がすかよっ」
と、兵を駆り立て、追いかけ始めた。
谷の左右には、大きな岩壁がそびえ立っている。
鳥でさえ飛び抜けるのに苦労するほどの険しさだ。
そんな谷の中を、樊噲の軍勢は、串刺し魚のように列をなして追撃していく。
一方そのころ、逃げる夏悦の方は、谷の奥で呆然と立ち尽くしていた。
夏悦の前には、うず高く積みあがった大岩がある。
この岩が、道を完全に塞いでしまっていたのである。
とても馬で越えられるような地形ではない。
しかも、背後には、樊噲が迫ってきている……
「……ええい、しかたない!」
夏悦は、ここで馬を捨て、己の身ひとつで大岩をよじ登り始めた。
生き残りたい。逃げのびたい。その一念で木の根を掴み、岩に貼りつき、力を振りしぼって登り切り、転げるように向こう側へ降りる。
「やった! 乗り越えたぞ! これでどうにか逃げ切れる!」
と、夏悦がホッと胸をなでおろした……そのとき。
夏悦の前方で、にわかに鉄砲が1発、鳴り響いた。
それに続いて銅鑼と太鼓がやかましく響いたかと思うと、前方から、漢軍が姿を現したではないか。
大元帥韓信が自ら率いる、最後の伏兵である。
夏悦は、
「あ……あ……」
と、力無く声をもらしながら、よろめいた。
夜も更けた。兵も減った。体も疲れ果てている。夏悦はもう、頭が全く回っていない。
「あー……どうしたらよいのだろう……」
などと夏悦がボンヤリ考えている間に、韓信の手勢は、すばやく夏悦を取り囲み、手際よく縛り上げてしまったのだった。
*
さて、同じころ。
代州の城を守っていた張同は、不安に駆られて動き始めていた。
「夏悦殿が出撃したのは午の刻。
それが、こんな夜中になっても帰ってこないとは……
きっと、深入りして敵の計略にハメられたに違いない。
早く行って救出せねば!」
張同は、5千の兵に火把を持たせ、城から出撃した。
少し進んだところで、行く手の方から、敗軍の兵士が10人あまり逃げ帰ってきた。
張同は、その兵を呼び止めて問う。
「お前たち! 夏悦殿は、どうなった?」
兵士たちが答える。
「夏悦将軍は、あまりに奥深くまで追撃しすぎて、敵の計略にハメられました。
味方の兵をことごとく討たれ、夏悦将軍は谷の中に逃げ込んで行かれましたが……きっと、今ごろは討死しておられるかと……
私たちも、もう少しで殺されるところだったのですが、どうにか脱出して逃げてきたのです。
張同将軍、軽々しく前へ出てはいけません!
夜も更けて、見通しも悪くなりました。おそらく敵は伏兵を置いております!」
これを聞くと、張同は、痛恨の思いで歯噛みした。
「私の予想通りになってしまったか……くそっ!」
どんなに悔やんだところで、今さらどうすることもできない。
すでに夏悦が討たれた可能性が高い以上、救出に向かうのも危険なばかりで意味が無い。
しかたなく、張同は城に引き返し、固く四方の門を守り始めたのだった。
*
韓信は、夏悦を捕らえて本陣に戻った。
そして陣の奥に座ると、左右に燈火を燃やし、刀、槍、剣、戟を立てつらね、漢軍の諸将を並ばせて、十分に威儀を正してから、夏悦を縛って引き出させた。
韓信は、夏悦に言った。
「我が主、漢王様の仁義と人徳は、中華から蛮夷まで広く知れ渡り、遠近の勢力を動かしている。
それなのに、なぜ汝らは、漢王様に帰服せずにいるのか?
これまでの過った行いを改め、ひたすら漢に仕えよ。
今後二度と漢王様の命に逆らわないというなら、すぐに解放して代州へ帰らせてやろう」
しかし夏悦は、吐き捨てるように答えた。
「私の願いは、王位に昇ることだった。
だが、こうして貴様に捕らえられた以上は、もう志を遂げることはできまい。
さあ、早く殺せ!
股潜り男に降参などするものか!」
韓信は怒った。
「匹夫め、無礼はなはだしい。
今すぐに誅殺してやりたいくらいだが、深夜だからやめておこう。
明日、張同を生け捕りにしたら、2人一緒に首を斬り、城門にかけて晒しものとしてくれる」
韓信は、夏悦を縛らせて檻車に押し込み、多くの兵士に守らせた。
*
次の日。
韓信は、大軍を押し出して、代州の城へ攻め寄せた。
しかし、張同は、ひたすら固く守るばかりで、まったく城外に出て戦おうとしない。
そこで韓信は、夏悦の檻車を城壁の前まで兵に曳いて行かせ、兵にこう叫ばせた。
「見ろ! 夏悦は捕らえたぞ!
張同よ、早く降伏しろ!」
張同は、この様子を城壁の上から見て、大声で嘆き悲しんだ。
「おお、夏悦将軍!
こんなにも苦しめられている貴公の姿を、とても見ていられない! 私の心が砕けてしまいそうだ!」
夏悦は、檻車の中から、あらん限りの声を振りしぼって叫んだ。
「張同ーっ! 私のことは気にするな!
どうか御辺は死力を尽くして城を守ってくれ! 私1人のために股潜り男に降伏することはないぞ!」
これを聞いた韓信は、いらだって目尻をヒクつかせた。
「憎たらしい匹夫の言だ」
韓信は、氷のように冷ややかに、夏悦の処刑を命じた。
夏悦は檻車から引きずり出され、その場で、たちまち首を刎ねられてしまった。
張同には、これを見ていることしかできなかった。
張同は声を放って大いに泣き、その場に膝から崩れ落ちた。
「夏悦殿っ……!
あなたが死んでしまった今、一体誰のために城を守ればよいというのだ。
もうよい……
惜しくもない命を惜しんで敵に辱められるより、ここで死んで、あなたから受けた今までの御恩に報いよう……」
張同は、そう言い終えると、抜身の剣を口にくわえ、城壁から地面へと身を投げて、自分の剣に体を貫かれて死んでしまった。
これに慌てたのは、代州軍の将兵たちである。
敵が城壁の前まで迫っているこの状況で、軍を指揮する2人が次々死んでしまったのだから、たまらない。
代州軍の副将王存は、謀士の単忠を呼んで、こう相談した。
「城の中に強兵も無く、外に助けてくれる勢力も無い。
これ以上、守りを固めても、なんの益もあるまい……」
こうして代州軍は、ついに降参を決断し、城門を開いたのだった。
*
韓信は、大軍を率いて城に入ると、まず、いつものように城内の人民を安心させる施策に取り組んだ。
そして王存に代州の守り任せることとし、滎陽城の劉邦へは戦勝の知らせを送った。
ここで漢軍の兵力を数え直してみると、西魏・代州の軍勢を加え入れたことによって、合計30万人以上にも達していた。
「この勢いに乗って、次は趙を討つ」
韓信はこう宣言し、さらなる遠征の準備を三軍に命じたのだった。
(つづく)
■次回予告■
連戦連勝の余勢を駆って駒を進める漢別動隊。次なる相手は勇士陳余擁する強豪の趙。
この難敵を討ち果たすべく、韓信は思いもよらぬ策に打って出る。奇想天外、前代未聞、だが後世には知らぬ者さえなくなるほどの名戦術。その原点はこの一戦にあり。
次回「龍虎戦記」第五十四回
『背水の陣』
乞う、ご期待!