龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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五十四の甲 背水の陣

 

 

 韓信(ひき)いる漢軍別動隊は、代州の平定に成功した。

 ここまでに攻略した西魏(せいぎ)・代州の兵を加え入れたことで、韓信の兵力は、今や総勢30万人にまで膨れ上がっていた。

 

 ところがこのとき、滎陽(けいよう)城の漢王劉邦から、こんな要請が飛んできた。

滎陽(けいよう)を守る兵力が不足している。

 そちらの兵を、増援として送ってくれ!」

 

 次に攻略する予定の(ちょう)は、強国である。

 その(ちょう)との戦いを前に兵を減らされるのは痛い……

 しかし、滎陽(けいよう)城が落とされてしまっては元も子もない。

 

 しかたなく、韓信は全軍のうち20万人を滎陽(けいよう)に送り、自身は残る10万のみを(ひき)いて、(ちょう)国へと進発したのだった。

 

 

   *

 

 

 韓信たち漢軍は、(ちょう)の国へ侵入し、井陘(せいけい)という土地の30里(約12km)手前に陣を取った。

 この井陘(せいけい)は、山脈の間を走る隘路(あいろ)(狭い道)である。

 道幅は狭く、大軍で通過しようと思えば、どうしても細く長い列を作らざるをえない。

 もし井陘(せいけい)を通過している途中で襲われたら、大損害を受ける可能性がある。

 

 そこで韓信は、張耳(ちょうじ)を呼んだ。

 張耳(ちょうじ)は、かつて(ちょう)の実力者だった人物である。それだけに、(ちょう)の内情には詳しい。

(第四十五回参照)

 

 韓信は、張耳(ちょうじ)に相談をもちかけた。

「趙には、広武君李左車(りさしゃ)という謀士(ぼうし)がいるそうだな。

 李左車(りさしゃ)は絶妙な計略を上手く用いる人物だと聞く。

 そこで、まず間者(かんじゃ)(はな)ち、趙王(ちょうおう)がどんな方針を取っているか調べあげ、その後で兵を進めようと思う。

 

 軽々しく敵地の奥に入り、敵に糧道(りょうどう)を遮断されてしまったら、進んで戦うことも、退(しりぞ)いて守ることもできなくなる。それは兵家(へいけ)が非常に()み嫌うところだ」

 

 しかし、張耳(ちょうじ)は余裕の笑みを浮かべている。

「大元帥、ご心配には及びません。

 いま(ちょう)王を補佐している実力者は、成安君陳余(ちんよ)です。

 あの男、兵を用いるのは上手いのですが、臨機応変に物事へ対処する才能は持っていません。

 

 そういう性格の男ですから、陳余(ちんよ)李左車(りさしゃ)のことを『人を(だま)すような手段ばかり多用する奴だ』と言って嫌っています。

 たとえ李左車(りさしゃ)がすばらしい計略を考えても、陳余(ちんよ)が採用しないでしょう」

 

 韓信が言う。

「いや。『成敗(せいばい)利鈍(りどん)あらかじめ見るべからず』だ。

 成功するか失敗するか、やりとげられるか挫折するかは、前もって予測することはできない。

 貴公の言うとおりになると決めてかかるのは危険だ。

 

 実戦に(のぞ)む前に、まず敵の情報を詳しく調べ、虚実(きょじつ)を明らかにする必要がある。

 軍を前進させるのは、その後だ。

 さすれば味方の意気も盛り上がり、必勝の体勢を作ることができよう」

 

 そこで韓信は、兵の中から間者(かんじゃ)を10人選抜し、こう(めい)じた。

「汝ら、ひそかに(ちょう)の城へ潜入し、敵の内情を探ってこい。

 特に、陳余(ちんよ)李左車(りさしゃ)がどんな計略を用いるつもりかが知りたい。

 有力な情報をつかんだなら、重く恩賞を与えよう」

 

 (めい)を受けた間者(かんじゃ)たちは、商人ふうに変装し、何食わぬ顔をして(ちょう)の城に(もぐ)り込んだ。

 

 間者(かんじゃ)たちは、まず(ちょう)城の門番に接近をはかった。

 賄賂(わいろ)を握らせてみたり。

 ともに酒を()み交わしながら、()(かた)()(すえ)(過去・未来)の四方山(よもやま)話に(きょう)じてみたり……

 

 人間というのは不思議なもので、毎日挨拶(あいさつ)を交わし、一緒に食事や雑談を楽しんだりしていだけで、ついなんとなく、その人に親しみを覚えはじめる。

 数日を()て、門番はすっかり間者(かんじゃ)たちに心を許すようになった。

 

 ここまでくれば、あとは簡単。

 酒を飲みながら、世間話のふりをして、(ちょう)軍の内情を聞き出すのだ。

 こうして、(ちょう)王が陳余(ちんよ)李左車(りさしゃ)と相談した内容は、一から十まで漢軍の間者(かんじゃ)に筒抜けとなってしまったのである。

 

 

   *

 

 

 間者(かんじゃ)たちが聞き集めた情報によれば……

 

 (ちょう)王の趙歇(ちょうけつ)は、漢軍が攻め寄せてきたという報告を聞き、すぐに動いた。

 陳余(ちんよ)とともに20万人の軍勢を整え、井陘(せいけい)の手前まで軍を進めて駐屯したのだ。

 

 ちょうど、漢軍とは井陘(せいけい)隘路(あいろ)を挟んで反対側に布陣した形となる。

 

 ここで(ちょう)王は、李左車(りさしゃ)を呼んで計略を尋ねた。

 

 李左車(りさしゃ)が答えて言う。

「私が聞いたところでは、韓信は渡河(とか)して西魏(せいぎ)魏豹(ぎひょう)を捕らえ、代州では夏悦(かえつ)を斬り、勢いに乗って攻めてきております。

 その鋭気は、はなはだ(さか)ん。そのうえ、(ちょう)の地理・内情に詳しい張耳(ちょうじ)が補佐しております。

 それゆえ、漢軍と真正面から戦うべきではありません。

 

 しかし、漢軍には弱点もあります。

 漢軍は、はるばる千里も離れた本拠地から兵糧(ひょうろう)を輸送してきております。そのため食糧は常に不足気味で、兵士たちは満腹になる日がないそうです。

 

 さらに、井陘(せいけい)の道は非常に狭く、荷車を走らせることも、騎馬を横に並ばせることも不可能。

 となれば、漢軍が井陘(せいけい)を通過するとき、食糧の輸送が(とどこお)り、本隊からかなり離れた後方に留め置かれると予想されます。

 

 そこで、お願いがございます。

 臣に3万の兵をお貸しくださいませ。

 漢軍が井陘(せいけい)隘路(あいろ)に入ったら、臣の部隊が間道(かんどう)を使って敵の背後に回り込み、輜重(しちょう)(輸送)の道を遮断いたしましょう。

 

 (ちょう)王様は、隘路(あいろ)の出口側を(ふさ)ぐかたちで布陣し、(ほり)を深く、土塁を高くして、厳重に守りを固めてくださいませ。

 さすれば、韓信は進んで戦うことも、退(しりぞ)いて帰ることもできなくなります。

 

 しかも今は10月の末。

 食糧不足に(おちい)った漢軍が略奪(りゃくだつ)(まかな)おうとしても、この季節ならば、田畑にも野山にも食糧らしい食糧は残っておりません。

 漢軍の兵糧(ひょうろう)はたちまち尽きます。敵を全員捕虜(ほりょ)とするのに、10日もかかりますまい。

 

 (ちょう)王様、どうぞ臣の計略を用いてください。さすれば完全勝利は間違(まちが)いありません。

 しかし、もしこの計略に従われなかったなら、韓信・張耳(ちょうじ)によって(ちょう)王様は確実に滅ぼされてしまうでしょう」

 

 李左車(りさしゃ)の理路整然とした献策(けんさく)に、(ちょう)王も一度は納得しかけた。

 

 が、ここで陳余(ちんよ)が口を挟んだ。

「お待ちください!

 李左車(りさしゃ)が言っているのは、全て詭謀(きぼう)、つまり人を(だま)す計略です。

 この私、陳余(ちんよ)は、義のために兵を起こした男。どうしてそんな卑怯な計を用いることができましょうか!

 

 兵法(へいほう)にも『十なるときは(すなわ)ちこれを囲み、倍するときは(すなわ)ちこれと戦う』と言うではありませんか。

 『敵の十倍の兵力があれば包囲し、敵の二倍の兵力があれば正面から戦う』……これこそ正々堂々の戦い方というものです。

 

 韓信は、西魏(せいぎ)や代州との戦いで疲れ果てた将士を連れてきております。

 その兵力も『数十万』などと吹聴(ふいちょう)しているようですが、いやいや、大げさ、大げさ。その実数は、せいぜい数千人に過ぎず、といったところでしょう。

 それが千里も離れた遠方から行軍してきたのですから、疲労も極限に達しておりましょう。

 

 対する味方の兵は、長いあいだ戦わずに鋭気(えいき)(やしな)い、日々調練(ちょうれん)(はげ)み、(じゅく)しきっております。

 数の上でも、兵の力でも、我が(ちょう)の方が上回っている。韓信に負けることなどありえましょうか。

 

 それに……

 これほど有利な状況にもかかわらず、我らが陣地に引きこもって守りを固めたら、天下の諸侯はどう思うでしょうか?

 彼らは我らの臆病(おくびょう)さを(あなど)り、領土の切り取りを狙って攻めてくるかもしれません。

 長い目で見れば、これは良い策とは言えませんぞ」

 

 陳余(ちんよ)は実力者である。その意向は(ちょう)において重きをなす。

 こうして、李左車(りさしゃ)の計略は却下(きゃっか)されてしまったのだった。

 

 

   *

 

 

 以上の話は、間者(かんじゃ)からの報告によって、あまさず韓信の知るところとなった。

 

 韓信は大喜びした。

井陘(せいけい)の通過中に襲われたら危なかったが、(ちょう)にそのつもりがないのなら安心だ。

 では、攻め寄せてやろう」

 

 韓信は、10人の間者(かんじゃ)に重く恩賞を与えると、早くもその日の夜半(やはん)に軍を動かす手配をしはじめた。

 

 まずは騎兵2千人を集め、こう(めい)じる。

「汝らは、ひそかに間道を使って井陘(せいけい)迂回(うかい)し、山の中へ身を隠せ。

 しばらくすると、(ちょう)軍が、みんな本陣から打って出るだろう。

 そうして(から)になった(ちょう)の本陣に、汝らは、すばやく突入せよ。

 陣地を乗っ取り、(ちょう)旗幟(きし)をすべて抜き捨てて、かわりに我が漢の赤旗を立てるのだ。

 その後は陣地を固く守り、決して動かないように」

 

 それから、他の諸軍勢に向かって、こう言った。

「さて、今日で(ちょう)(やぶ)ってしまおう。

 お前たち、出陣前の食事は少なめにしておけ。(ちょう)を倒した後で、心静かにゆっくり食事をしようじゃないか」

 

 これを聞いた張耳(ちょうじ)曹参(そうさん)樊噲(はんかい)、その他もろもろの大将たちは、目を丸くして、互いに顔を見合わせた。

「あ、はあ……」

 

 (ちょう)軍は総勢20万人。この大軍を今日1日で(やぶ)るというのか……

 にわかには信じられず、生返事をするばかりの大将たちであった。

 

 

(つづく)




●注釈
(1)
 『成敗(せいばい)利鈍(りどん)あらかじめ見るべからず』は、三国時代(しょく)の諸葛亮が著したとされる「後出師表(すいしのひょう)」からの引用である。
 西暦228年、有名な『泣いて馬謖(ばしょく)を斬る』の事件によって()討伐(第一次北伐)を断念した諸葛亮は、早くもその冬に第二次北伐を実行に移した。これら北伐に先がけて、諸葛亮は(しょく)皇帝劉禅(りゅうぜん)に対し、出征を宣言する文書を奏上した。それが「出師表(すいしのひょう)」である。第一次北伐のものを「前出師表(すいしのひょう)」、第二次北伐のものを「後出師表(すいしのひょう)」と呼んで区別する。
 このうち「前出師表(すいしのひょう)」は史上まれに見る名文として知られ、後世には『これを読んで涙しない者は絶対に不忠者である』などという、いささか押し付けがましい書評さえ付けられている。一方、「後出師表(すいしのひょう)」の方は内容におかしな点が多く、後世の偽作ではないかという説が根強い。
 ともあれ、その「後出師表(すいしのひょう)」の文末に『臣鞠躬尽力、死而後已。至於成敗利鈍、非臣之明所能逆睹也』とある。和訳すれば『臣は全身全霊を尽くします。止まるのは死んだ後のこと。成功するか失敗するか、やりとげるか挫折するかを、あらかじめ予測することなどできません』というところだろうか。
 諸葛亮は『結果の予測などできないのだから、全力で挑戦するのだ』という意味で言っているが、本編の韓信は『結果の予測などできないのだから、慎重になるべきだ』と真逆の使い方をしているようだ。もちろん、韓信が数百年後の人物である諸葛亮の言葉を引用していることは時代考証的におかしいが、例によって「通俗漢楚軍談」の記述を尊重した。

(2)
 陳余(ちんよ)のセリフにある『十なるときは(すなわ)ちこれを囲み、倍するときは(すなわ)ちこれと戦う』は、若干改変されているが、「孫子・謀攻」からの引用である。
 孫子の兵法理論において、戦争とは利益を得るための手段に過ぎない。軍と軍が衝突する戦闘での勝利は最善のものではない。なぜならそれは、戦後に手に入れるはずの敵の国土や人材を損壊することに他ならないからである。また、味方に大きな被害を出したり、戦争を長期化させて出費を増大させることも避けねばならない。利益を得るための戦争で、得られる以上の損を出していては意味がないからだ。よって、味方の損害を避け、可能な限り敵も殺さずに無力化する、そんな(はかりごと)が最も大切なのだ、と孫子は説く。
 そうした話の流れの中で、陳余(ちんよ)の引用した言葉が登場する。
『用兵の法は、十なれば(すなわ)ちこれを囲み、五なれば(すなわ)ちこれを攻め、倍すれば(すなわ)ちこれを分かち、敵すれば(すなわ)()くこれと戦い、少なれば(すなわ)()くこれを守り、()かざれば(すなわ)()くこれを避く』
 和訳すると、こうである。
『用兵の方法は、敵の十倍の兵があれば包囲し、五倍あれば攻撃し、二倍あれば敵を分断し、互角であれば力を尽くして戦い、敵より少なければ固く守り、それにも満たないようであればうまく戦いを避ける』
 つまり、基本的に味方が有利な局面でしか戦わないのである。人的・費用的損害を避け、徹底的に利益を追求する、という孫子の考え方がよくあらわれた一節と言えよう。
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