龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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五十四の乙 背水の陣

 

 

 韓信は、まず1万の兵を先行させ、水(川)を背にして陣取らせた。

 つまり、背水の陣である。

 

 この布陣を見た(ちょう)軍は、将兵みんなで大笑いしはじめた。

 川を背後に置いて陣取ってはいけない、というのは兵法(へいほう)の基本。当時の常識である。戦闘で劣勢になったとき、川に(はば)まれて逃げ場を失ってしまうからだ。

 こんな簡単なことさえわきまえない韓信の布陣が、(ちょう)の将兵には滑稽(こっけい)に見えたのだ。

 

 そして、翌朝未明(みめい)

 韓信は、大将旗を前面に立て、太鼓を打ち鳴らしながら、井陘(せいけい)隘路(あいろ)を越えて進軍した。

 

 対する(ちょう)軍が、陣門を開いて出撃し、漢軍に正面から挑みかかる。

 

 両軍ぶつかりあい、火花を散らして戦うこと、しばし。

 数の上では、(ちょう)軍の方が(まさ)っている。

 漢軍は、じりじりと押し込まれはじめた。

 

 そしてついに、

「ここまでか」

 と、韓信・張耳(ちょうじ)が撤退を(めい)じた。

 漢の兵士たちは、軍旗や太鼓を投げ捨てて身軽になり、背水の陣へ向けて逃げだした。

 

 (ちょう)軍指揮官の陳余(ちんよ)は、興奮気味に声を張り上げた。

「よし、好機だ!

 漢軍の背後は大河に(ふさ)がれている! どこへも逃げ場はない! 一気に追いつめて、敵兵を全員、川の中へ突き落としてやれっ!」

 

「おおっ!」

 (ちょう)軍の将兵たちが、勢いに乗って追撃を開始する。

 

 さらには、(ちょう)本陣に残っていた守備の兵さえ、

「漢軍、弱し!」

 と見て取ったのか、陣門を開いて出撃してきた。

 彼らの目的は、漢軍が投げ捨てた軍旗や太鼓である。足の踏み場もないほど(つら)なった漢軍の落とし物を略奪してやろうという欲に駆られているのだ。

 そのため、(ちょう)の本陣は、ほとんど(から)になってしまった。

 

 ところが。

 そこから先の戦いは、陳余(ちんよ)(ちょう)軍が考えていたほど簡単には進まなかった。

 

 というのも、韓信と張耳(ちょうじ)が背水の陣に入るや、周囲から曹参(そうさん)樊噲(はんかい)周勃(しゅうぼつ)靳歙(きんきゅう)の4大将が現れ、一斉に(ちょう)軍に襲いかかったのだ。

 

 樊噲(はんかい)が叫ぶ。

「さあ、お前ら、ひるむな! 死ぬ気で戦え!

 一歩でも退(しりぞ)く者は、俺が首を()ねてやるぞ!」

 

 などと言われるまでもなく、漢の兵卒たちは必死だ。

 なぜなら、漢軍は、背後を大河、前方を(ちょう)の大軍に(はさ)まれている。

 退(しりぞ)こうにも逃げ場など無い。生き残るには、この戦いに勝つしかないのである。

 

 生き残りたい! その一念に()き動かされ、漢軍は死にもの狂いで戦った。

 漢軍の気迫はすさまじく、1人で10人の敵を相手どれるほどだった。

 その勢いに(ちょう)軍は気圧(けお)され、しだいに乱れ騒ぎはじめた。

 

 戦意の差が、戦況にも影響をおよぼす。

 はじめは優勢であったはずの(ちょう)軍が、だんだん押し返されはじめた。いったんこうなってしまうと、兵卒たちの士気を再び盛り上げるのは難しい。

 

 陳余(ちんよ)は、いまいましそうに舌打ちした。

「ちっ……このまま攻め切るのは無理か。

 まあいい。日を改めて再戦すればよいだけだ」

 

 陳余(ちんよ)は一時撤退を決断し、軍勢をまとめて後退した。

 こうして(ちょう)軍は、本陣の前まで戻ってきたのだが……

 

 どうも本陣の様子がおかしい。門の前まで陳余(ちんよ)が戻ってきたというのに、陣門が開く気配がない。

 

 陳余(ちんよ)は、本陣に向かって叫んだ。

「帰還したぞ! 早く門を開け!」

 

 だが、本陣の中からは人の声ひとつ、物音ひとつ聞こえてこない。

 一体これは、どうしたことか?

 

 と、そのとき。

 本陣の土塁の上に、突如、おびただしい数の旗が(かか)げられた。

 真っ赤な旗……漢の軍旗である!

 

「えっ!?」

 (ちょう)軍の将兵に、衝撃が走った。

 

「バカな! 本陣を漢軍に取られたというのか!?」

「一体どうして!?」

「漢の伏兵が本陣を攻め落としたんだ!」

「どうしてこんなに、あっさりと?」

「漢が、とんでもない大軍を隠していたに違いない!」

 

 実際は、本陣を守備していた兵が外へ出た(すき)に、少数の別動隊が本陣を奪っただけなのだが、(ちょう)兵は、そういう事情を知らない。

 ゆえに、疑念が無限に膨らんでいく。疑念は流言を生み、流言は恐怖を生む。

 

「大変だ! 俺たちは皆殺しにされるぞ!」

 (ちょう)の兵士たちは大混乱に(おちい)り、上へ下へと大騒ぎしながら好き勝手に逃げ始めた。

 20万の大軍が勝手気ままに慌て騒げば、下手な敵に襲われる以上の被害がでるのは当然のこと。

 (ちょう)兵たちは、あちこちで衝突し、転び、踏み、踏まれ、負傷する者、死亡する者も数知れず。

 

 この事態に、陳余(ちんよ)は激怒した。

「バカ者ッ! 落ち着け! 騒ぐんじゃないっ!」

 と、陳余(ちんよ)は5、6人ほどの兵を惨殺して、秩序を取り戻そうとした。

 だが、混乱の度を極めた(ちょう)の兵士たちは、いっこうに静まろうとしない。

 

 漢軍の本隊が後方から襲いかかってきたのは、このときだった。

 漢の軍勢が野に満ち、山を覆い、須臾(しゅゆ)の間(あっというま)に、(ちょう)軍の四方を百重にも千重にも取り囲んだ。

 その陣立ての密なことは、水さえ通さぬほどである。

 

 (ちょう)軍が統率を失っていたところへ、漢軍の容赦(ようしゃ)ない一斉攻撃。とても戦いになりはしない。

 (ちょう)軍は、一気に崩壊しはじめた。

 

 陳余(ちんよ)は、死力をふるって戦った。

 左を突き、右を攻め、前にぶちあたり、後ろに打撃を加えた。だが、戦えど戦えど包囲から抜け出すことができず……

 

「くそっ……くそっ! ここまでだというのか!」

 陳余(ちんよ)がそう(なげ)いたところへ……

 背後から、漢の大将灌嬰(かんえい)が馬で駆け寄ってきた。そして、ただ一刀のもとに、陳余(ちんよ)を斬り捨ててしまった。

 

 あとは、(もろ)いものであった。

 (ちょう)王は、なすすべもなく捕らえられ……

 韓信は(ちょう)の城に悠々(ゆうゆう)と踏み入り、そこで、出陣前の予言通り、全軍に食事をとらせたのだった。

 

 

   *

 

 

「ほ、本当に1日で(ちょう)を攻め落としてしまった……!」

 漢の大将たちは、この大戦果に驚き、みんなで韓信の前に集まって拝伏した。

 

「大元帥。

 兵法(へいほう)においては、山を背に、川を前に置いて布陣するのが常識です。

 それなのに、大元帥は川を背にして背水の陣を取り、こんなに鮮やかに勝利なさいました。

 一体これは、どういうわけなのでしょうか?」

 

 韓信は、にやりと笑みを浮かべた。

「諸君、聞いたことがないか。兵法(へいほう)には、こんな言葉もあるのだ。

 『これを死地に(おとしい)れて、しかして後に生き、これを亡地(ぼうち)に置いて、しかして後に(そん)す』……

 人間は、もう死ぬしかないという窮地(きゅうち)(おちい)ったとき、はじめて生きるために全力を尽くす、という意味だ。

 

 味方の兵のうち、練度の高い精鋭は、滎陽(けいよう)の守備に回してしまった。

 今、私たちのところに残っている兵は、最近西魏(せいぎ)や代州で加え入れた者がほとんどだ。

 それゆえ、兵法(へいほう)の調練が行き届いていない。

 調練不足の兵は、敵に出会うと逃亡してしまいがちだ。

 

 だから私は、大河を背にして陣を取った。

 そうすれば、兵士たちは『逃げることができない』と思い、生き残りに望みをかけて、死にもの狂いで戦うだろう。

 そして、思った通り、十分な戦果を得たというわけだ」

 

 大将たちは、感服した。

「大元帥の神機(しんき)妙算(みょうさん)(神のような機略、たくみな計算)は、鬼神といえども見抜けそうにありませんなあ」

 

 この時の韓信の巧みな戦術を、漢の大将たちは、あちこちの人に語り聞かせたという。

 その話が歴史書に記され、はるか後の時代にも語り継がれ……

 やがて、『背水の陣』という故事成語を生むことになるのであった。

 

 

   *

 

 

 さて、ここで韓信は、ひとつの()れを出した。

「もし広武君李左車(りさしゃ)()()ってきた者がいれば、黄金千両を恩賞として与える」

 千両といえば、とんでもない大金である。人々は目の色を変えて李左車(りさしゃ)行方(ゆくえ)を追い始めた。

 

 そして数日後。

 ついに、ある者が李左車(りさしゃ)を縛って連れてきた。

 

 韓信は、その者に約束通りの恩賞を与えると……

 李左車(りさしゃ)の縄を(ほど)き、部屋に迎え入れて東向きに座らせ、自身は西を向いて対面した。

 これは、相手を師として(うやま)うときの礼儀作法である。

 

 韓信は、李左車(りさしゃ)に対して、静かに問いかけた。

李左車(りさしゃ)先生、どうか、私に教えを()れてくださいませ。

 私は、これから北上し、(えん)の国を討伐しようと考えています。どのような計略を用いれば成功をつかめるでしょうか?」

 

 李左車(りさしゃ)は首を振った。

(いにしえ)より、『亡国の大夫(たいふ)は以て存を(はか)るべからず。敗軍の将は以て勇を語るべからず』と申します。

 (ほろ)びた国の大夫(たいふ)は、国の存続を(はか)るべきではない。敗れた軍の大将は、勇気について語るべきではない。

 私は亡国の捕虜にすぎません。今さら何を語る資格がありましょうか」

 

 韓信が言う。

「昔、百里奚(ひゃくりけい)()国に仕えていましたが、()が滅んだ後、(しん)に行って覇業をなしとげました。

 では、百里奚(ひゃくりけい)()にいた時は愚か者で、(しん)に行ったら賢くなったということでしょうか?

 

 そうではない。

 ただ主君が百里奚(ひゃくりけい)の計略を用いたか用いなかったか、百里奚(ひゃくりけい)の言葉を聞いたか聞かなかったかの違いにすぎない。

(第二十七回の注釈参照)

 

 (ちょう)が滅びたのは、李左車(りさしゃ)先生の能力が足りなかったからではありません。

 もし(ちょう)王が先生の計略を用いていたら、今ごろ私のほうが捕虜となっていたでしょう。

 陳余(ちんよ)が先生の邪魔をしたおかげで、私は(ちょう)を破ることができた。それだけのことなのです。

 

 先生。心からお願いいたします。

 どうか私に計略を(さず)けてくださいませ。

 この願いを断らないでくださいませ」

 

 

(つづく)




●注釈
(1)
 韓信が語った『これを死地に(おとしい)れて、しかして後に生き、これを亡地(ぼうち)に置いて、しかして後に(そん)す』という言葉は、「孫子・九地」からの引用である。
 亡地・死地とは、孫子が語る九地(9つの状況)のうちの一つであり、死が避けられぬほど追いつめられた絶体絶命の状況を指す。
 この言葉の後に『それ衆は害に(おちい)りて、しかる後に()く敗を為す』と続く。『兵の集団は、害のある状況に(おちい)って、はじめて全力を出すことができる』という意味である。

(2)
 本編でも語ったが、今回描かれたこの戦いこそが、『背水の陣』の由来となった故事である。本編の文章は小説である「通俗漢楚軍談」「西漢通俗演義」に基づくものだが、「軍談」も「演義」も歴史書「史記・淮陰侯列伝」の記述をかなり忠実になぞっている。おおむね史実に準じた描写と考えていただいてよい。
 背水の陣という言葉自体は、説明するまでもなく多くの方が御存知(ごぞんじ)であろう。現代日本では『追いつめられると普段以上の実力が出せる』という程度の意味で使われることが多いだろうが、実際には、お読みいただいた通り、この計略の妙味は別動隊で敵本陣を奪取するところにある。
 本編では(ちょう)軍20万に対して漢軍10万と書いたが、「史記」の記述では、漢の兵力がわずか数万とされている。敵との兵力差は4~5倍といったところであろうか。さらに、手塩にかけて育ててきた精鋭は滎陽(けいよう)防衛のためということで劉邦に取られてしまったから、質の上でも心もとない。そんな状況で強敵(ちょう)を破るため、やむにやまれず韓信がひねり出した奇策、というのが本当のところであろう。
 背水の陣は、たしかに人を奮い立たせるかもしれない。しかし逃げ場がないのは事実なのだから、不利は不利に違いないのである。もし(ちょう)軍が、本陣を奪われた時に取り乱すことなく腰を据えて戦っていたら、おそらく負けるのは漢軍のほうだった。そういう危うさも(はら)む戦術なのだ。
 背水の陣は、あくまで一時的に士気を高めて時間を稼ぐための手段にすぎない。むしろ、そうして時間を稼いでいる間に打つ起死回生の一手こそが、勝利の決め手となるのだろう。上司・上官たるもの、むやみやたらと部下に背水の陣を敷かせたがるようでは困るというわけである。
 余談だが、今回のストーリーから、傑作ファンタジー漫画「ベルセルク」のドルドレイ要塞攻略戦を思い出した方もいらっしゃるかもしれない。あのエピソードの展開は、明らかに韓信の背水の陣に取材したものであろう。このように、韓信の機略は、現代の娯楽・芸術にまで多大な影響を与えているのだ。
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