龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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五十四の丁 背水の陣

 

 

 燕(えん)王は、韓信からの書簡(しょかん)を読み終えると、不安げな視線を随何(ずいか)に向けた。

「使者よ。漢王は睢水(すいすい)で大敗し、どうにか滎陽(けいよう)城に身を寄せているようなありさまだ。

 天下統一の王業など、まったく成し遂(と)げられていないではないか。

 これで、どうして『漢王に天命が帰りつく』などと言える?」

 

 弁舌の達人随何(ずいか)は、すらすらと答えはじめた。

「燕(えん)王様の所見は、大いに誤っております。

 我が漢王は、確かに睢水(すいすい)において敗北しましたが、そのとき何が起きたか御存知(ごぞんじ)でしょうか?

 

 大風が吹いて敵の包囲を解かせ、白き光が輝いて漢王を退路へと導きました。

 これが天の助けでなくて、一体なんだというのでしょう?

 この一件から、漢王が百の神霊によって守られた聖王であることが分かります。

 

 また、今、漢王は滎陽(けいよう)城にあって、四方から敵に攻められております。にもかかわらず、天下の諸国を見事に統率しておられる。

 優れた英知や神がかり的な武勇を持たずに、こんなことができるでしょうか?

 このことから、漢王が文武の勇を備(そな)えた聖王であると分かります。

 

 韓信は上手く兵を用い、張良はすばらしい計略を立て、蕭何(しょうか)は兵糧(ひょうろう)を絶(た)え間(ま)なく供給する。

 甲冑(かっちゅう)を身につけた兵は100万人。

 従う大勢の名将たちは、さながら雲のよう。

 

 以上を考え合わせれば、もはや議論するまでありません。

 すでに天下の大勢は定まっているのです。

 

 一方、西楚(せいそ)は確かに強大な軍事力を持っておりますが、しょせんは沐猴(もっこう)(猿)、人間ではありません。

 覇王項羽は長いあいだ残虐・暴虐をほしいままにしてきましたから、項羽を恨まぬ者は天下に1人もおりません。

 

 私が推測するに、近ければ数ヶ月、遠くとも1年を過ぎないうちに、必ずや楚(そ)は滅絶するでしょう。

 

 それなのに、燕(えん)王はこうした時勢を考えに入れず、どちらが勝つか敗れるかも見抜けず、『漢王は王業を成し遂(と)げていない』などと、おっしゃる。

 これが誤りでなくて、なんだというのですか。

 

 ましてや今、すぐ隣の趙(ちょう)が滅び、趙(ちょう)王の趙歇(ちょうけつ)は生(い)け捕(ど)られ、陳余(ちんよ)は敗死してしまったのです。

 

 『唇(くちびる)亡(ほろ)ぶるとき歯(は)寒く、床を剥(はく)するに膚(はだえ)を以てす』という言葉がございます。

 唇(くちびる)が無くなれば、守ってくれるものを失った歯が寒さに凍(こご)えるようになる……

 床板を剥(は)がせば、自分の肌が傷つくことになる……

 

 燕(えん)王様は、身近な味方を失い、孤立なさっているのです。

 どうしてこのまま身を守り続けることができましょうか」

 

 燕(えん)王は、随何(ずいか)の言葉を聞き、声もなく考えこんだ。

 随何(ずいか)の主張に、深く心を動かされたようだった。

 

 燕(えん)王は、蒯徹(かいてつ)を側(そば)に召(め)し寄せ、小声で耳打ちした。

「随何(ずいか)の言うことは、なにもかも理にかなっているように思う。

 蒯徹(かいてつ)よ。先ほどの話の通り、汝に返答の使者となってもらおうと思う。

 韓信に会ったら、よく状況を斟酌(しんしゃく)(考慮)して判断せよ。やたらに弁舌(べんぜつ)を振るう必要はないぞ」

 

 蒯徹(かいてつ)は、うなずいた。

「燕(えん)王様、ご心配なさいますな。臣が向こうに行きましたら、漢の言うことが真実かどうか、よく見極(みきわ)めて決断いたします。

 決して主君の命(めい)を辱(はずかし)めるようなことは、いたしません」

 

 というわけで、燕(えん)王は随何(ずいか)を歓迎し、その後、随何(ずいか)が帰還するときに蒯徹(かいてつ)を同行させたのだった。

 

 

   *

 

 

 随何(ずいか)は、燕(えん)からの返答の使者、蒯徹(かいてつ)を連れて趙(ちょう)国へ帰ってきた。

 

 その報告を受けて、韓信は、ほくそ笑(え)んだ。

「ほう、蒯徹(かいてつ)が来たか。

 これで燕(えん)は味方にできたな」

 

 韓信は、喜んで蒯徹(かいてつ)を城内に迎え入れた。

 

 蒯徹(かいてつ)が中に入ってみれば、鮮(あざ)やかな軍旗が太陽を覆い隠すほどに立ち並び、精強にして勇壮な兵士たちがズラリ勢ぞろい。謀士(ぼうし)は左に、武将は右に整列し、その中央に、韓信が背筋を正して座っている。

 韓信の態度は落ち着きはらって礼儀正しく、言葉にも温かく雅(みやび)な趣(おもむき)があった。

 

 蒯徹(かいてつ)は、韓信の堂々たる姿を一目(ひとめ)見て、深く感銘を受けた。

「おお……これは、ひとかどの人物だ」

 だが蒯徹(かいてつ)は、あくまで燕(えん)の臣。たとえ相手がどんな人物であろうとも、燕(えん)王の命(めい)は果たさねばならない。

 

 蒯徹(かいてつ)は、口を開き、得意の弁舌(べんぜつ)を振るおうとした。

 

 その矢先、韓信の方が先手を切って話し始めた。

「蒯徹(かいてつ)大夫、貴公がここに来たのは、この韓信に説客(せっかく)として働きかけ、合戦をやめさせようと考えてのことだろう?

 燕(えん)王が早期に城を開いて投降するというなら、この韓信、どうして好き好(この)んで戦(いくさ)などに訴(うった)えようか。

 

 だが、仮に貴公の説得を受けて私が軍を引いたとしても、燕(えん)が今まで通り楚(そ)の藩屏(はんぺい)(防御璧)でありつづけるとしたら、どうなるであろう?

 天下の人々は『六国の中で燕(えん)だけが強かった。韓信は臆病者だ』とみなすだろう。

 

 漢王様の軍威は、日増しに盛り上がり、四方の諸侯が漢王様の気風を慕(した)って集まってきている。

 その大事な時期に、こんな辱(はずかし)めを受け入れるわけにはいかない。

 

 私は誓う。易水(燕(えん)国境の川)の前に軍を展開し、武勇を燕台(えんだい)(燕(えん)の名所)の上で試してやろう。

 たとえ燕(えん)の名将楽毅(がくき)が蘇ったとしても、たとえ義士荊軻(けいか)が死んでいなかったとしても、この韓信、何を恐れることがあろうか!」

 

 韓信は、蒯徹(かいてつ)にぴしゃりと言い放ち、左右の部下に目を向けた。

「汝ら、蒯徹(かいてつ)大夫を客人用の屋敷へ案内し、休息していただけ。

 私はこれから燕(えん)を討(う)ち、斉(せい)を破る。その後で再び蒯徹(かいてつ)大夫と対面しよう」

 

 諸将は、蒯徹(かいてつ)を屋敷に案内すると、幃帳(いちょう)(とばり)を並べ立て、その他もろもろの品物を不自由のないように手配して、丁寧にもてなした。

 

 

(つづく)




●注釈
(1)
 『唇(くちびる)亡(ほろ)ぶるとき歯(は)寒し』という言葉は、「春秋左氏伝・僖公五年」に見られる。第二十七回の注釈で虞(ぐ)国の百里奚(ひゃくりけい)の逸話を紹介したが、その中に登場した虞(ぐ)の臣、宮之奇(きゅうしき)の発言である。
(第二十七回の注釈参照)
 晋(しん)国の献公は『虢(かく)(西虢(せいかく))国を攻めるために虞(ぐ)の領土を通過させてほしい』と虞(ぐ)の君主に打診してきた。宮之奇(きゅうしき)は、諌(いさ)めて言った。
『虢(かく)は虞(ぐ)の表側です。虢(かく)が滅びれば、必ず次は虞(ぐ)の番になるでしょう。ことわざに「頬骨と顎(あご)はお互いに頼り合う。唇(くちびる)が亡びれば歯は寒くなる」といいますが、これはまさに虞(ぐ)と虢(かく)のことです』
 しかし虞(ぐ)の君主はこの諌言(かんげん)を聞き入れず、結局、晋(しん)の攻撃で滅ぼされてしまった。

(2)
 韓信のセリフの中に、燕(えん)にまつわる地名・人名が多数登場した。それぞれ簡単に紹介する。
 易水は、燕(えん)の国境にある川。後述する荊軻(けいか)が燕(えん)から旅立つとき、この易水のほとりで見送りの友人たちと別れの宴をしたことで有名。
 燕台(えんだい)とは、黄金台のことと思われる。これは燕(えん)の昭王が築いた高台で、人材を登用する儀式を行うための施設である。
 楽毅(がくき)は燕(えん)の名将。紀元前3世紀の初めごろ、斉(せい)は中国最強の国力を持っており、そのために燕(えん)は滅亡寸前にまで追い込まれていた。このとき昭王によって登用された楽毅(がくき)は、たくみな外交戦略によって趙(ちょう)・韓(かん)・魏(ぎ)・楚(そ)を味方につけ、五ヶ国連合軍の総大将として斉(せい)に侵攻した。そこから5年に渡って楽毅(がくき)は暴れまわり、無類の強さで70以上もの城を陥落させ、あと一歩のところまで斉(せい)を追い込んだ。しかしそのとき、楽毅(がくき)を取り立ててくれた主君の昭王が死んでしまった。跡を継いだ息子の恵王は、敵のしかけた情報戦にまんまとはまって楽毅(がくき)を疑いはじめ、ついには解任してしまった。
 荊軻(けいか)は、燕(えん)の太子丹に頼まれて秦(しん)王政(始皇帝)暗殺をもくろんだ刺客。結局、暗殺は失敗し、荊軻(けいか)はその場で殺された。この事件は本編のたった22年前だから、年齢的には荊軻(けいか)が存命であってもおかしくはない。だから韓信は『もし荊軻(けいか)が死んでいなかったとしても』と言っているのである。
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