燕王は、韓信からの書簡を読み終えると、不安げな視線を随何に向けた。
「使者よ。漢王は睢水で大敗し、どうにか滎陽城に身を寄せているようなありさまだ。
天下統一の王業など、まったく成し遂げられていないではないか。
これで、どうして『漢王に天命が帰りつく』などと言える?」
弁舌の達人随何は、すらすらと答えはじめた。
「燕王様の所見は、大いに誤っております。
我が漢王は、確かに睢水において敗北しましたが、そのとき何が起きたか御存知でしょうか?
大風が吹いて敵の包囲を解かせ、白き光が輝いて漢王を退路へと導きました。
これが天の助けでなくて、一体なんだというのでしょう?
この一件から、漢王が百の神霊によって守られた聖王であることが分かります。
また、今、漢王は滎陽城にあって、四方から敵に攻められております。にもかかわらず、天下の諸国を見事に統率しておられる。
優れた英知や神がかり的な武勇を持たずに、こんなことができるでしょうか?
このことから、漢王が文武の勇を備えた聖王であると分かります。
韓信は上手く兵を用い、張良はすばらしい計略を立て、蕭何は兵糧を絶え間なく供給する。
甲冑を身につけた兵は100万人。
従う大勢の名将たちは、さながら雲のよう。
以上を考え合わせれば、もはや議論するまでありません。
すでに天下の大勢は定まっているのです。
一方、西楚は確かに強大な軍事力を持っておりますが、しょせんは沐猴(猿)、人間ではありません。
覇王項羽は長いあいだ残虐・暴虐をほしいままにしてきましたから、項羽を恨まぬ者は天下に1人もおりません。
私が推測するに、近ければ数ヶ月、遠くとも1年を過ぎないうちに、必ずや楚は滅絶するでしょう。
それなのに、燕王はこうした時勢を考えに入れず、どちらが勝つか敗れるかも見抜けず、『漢王は王業を成し遂げていない』などと、おっしゃる。
これが誤りでなくて、なんだというのですか。
ましてや今、すぐ隣の趙が滅び、趙王の趙歇は生け捕られ、陳余は敗死してしまったのです。
『唇亡ぶるとき歯寒く、床を剥するに膚を以てす』という言葉がございます。
唇が無くなれば、守ってくれるものを失った歯が寒さに凍えるようになる……
床板を剥がせば、自分の肌が傷つくことになる……
燕王様は、身近な味方を失い、孤立なさっているのです。
どうしてこのまま身を守り続けることができましょうか」
燕王は、随何の言葉を聞き、声もなく考えこんだ。
随何の主張に、深く心を動かされたようだった。
燕王は、蒯徹を側に召し寄せ、小声で耳打ちした。
「随何の言うことは、なにもかも理にかなっているように思う。
蒯徹よ。先ほどの話の通り、汝に返答の使者となってもらおうと思う。
韓信に会ったら、よく状況を斟酌(考慮)して判断せよ。やたらに弁舌を振るう必要はないぞ」
蒯徹は、うなずいた。
「燕王様、ご心配なさいますな。臣が向こうに行きましたら、漢の言うことが真実かどうか、よく見極めて決断いたします。
決して主君の命を辱めるようなことは、いたしません」
というわけで、燕王は随何を歓迎し、その後、随何が帰還するときに蒯徹を同行させたのだった。
*
随何は、燕からの返答の使者、蒯徹を連れて趙国へ帰ってきた。
その報告を受けて、韓信は、ほくそ笑んだ。
「ほう、蒯徹が来たか。
これで燕は味方にできたな」
韓信は、喜んで蒯徹を城内に迎え入れた。
蒯徹が中に入ってみれば、鮮やかな軍旗が太陽を覆い隠すほどに立ち並び、精強にして勇壮な兵士たちがズラリ勢ぞろい。謀士は左に、武将は右に整列し、その中央に、韓信が背筋を正して座っている。
韓信の態度は落ち着きはらって礼儀正しく、言葉にも温かく雅な趣があった。
蒯徹は、韓信の堂々たる姿を一目見て、深く感銘を受けた。
「おお……これは、ひとかどの人物だ」
だが蒯徹は、あくまで燕の臣。たとえ相手がどんな人物であろうとも、燕王の命は果たさねばならない。
蒯徹は、口を開き、得意の弁舌を振るおうとした。
その矢先、韓信の方が先手を切って話し始めた。
「蒯徹大夫、貴公がここに来たのは、この韓信に説客として働きかけ、合戦をやめさせようと考えてのことだろう?
燕王が早期に城を開いて投降するというなら、この韓信、どうして好き好んで戦などに訴えようか。
だが、仮に貴公の説得を受けて私が軍を引いたとしても、燕が今まで通り楚の藩屏(防御璧)でありつづけるとしたら、どうなるであろう?
天下の人々は『六国の中で燕だけが強かった。韓信は臆病者だ』とみなすだろう。
漢王様の軍威は、日増しに盛り上がり、四方の諸侯が漢王様の気風を慕って集まってきている。
その大事な時期に、こんな辱めを受け入れるわけにはいかない。
私は誓う。易水(燕国境の川)の前に軍を展開し、武勇を燕台(燕の名所)の上で試してやろう。
たとえ燕の名将楽毅が蘇ったとしても、たとえ義士荊軻が死んでいなかったとしても、この韓信、何を恐れることがあろうか!」
韓信は、蒯徹にぴしゃりと言い放ち、左右の部下に目を向けた。
「汝ら、蒯徹大夫を客人用の屋敷へ案内し、休息していただけ。
私はこれから燕を討ち、斉を破る。その後で再び蒯徹大夫と対面しよう」
諸将は、蒯徹を屋敷に案内すると、幃帳(とばり)を並べ立て、その他もろもろの品物を不自由のないように手配して、丁寧にもてなした。
(つづく)