蒯徹は、困り果ててしまった。
燕のため、韓信を説得しようと思ってここまできたのに、逆に韓信の言葉に気圧されて、口を開くこともできなかった。
しかも、客人用の屋敷でもてなされている、と言えば聞こえは良いが、これは実質的な軟禁である。
このままでは燕王から託された使命を果たすことができない。
蒯徹は、心鬱々として悩み、屋敷の門を閉ざして、人にも会わず日々を過ごした。
そんな様子で数日が過ぎたある日。
門番から報告がきた。
「広武君李左車が訪ねて来られました」
蒯徹は、その日も悶々と愁えていたが、李左車が来たと聞くと、すぐに門を開いて迎え入れた。
蒯徹は、大声で泣きながら言った。
「おお、李左車先生!
我が燕と、貴公の趙は、唇と歯のように親密な国です。
それが今や、李左車先生は漢の側につき、陳余は斬首され、趙王は捕らえられてしまった。
趙国が失われてしまったことが、哀しくてたまりません……
しかも、そのために我が燕も危機に陥ってしまいました」
李左車は、静かに首を振った。
「蒯徹殿、どうしてそんなに激しく心を惑わされていらっしゃるのです。
天に従う者は栄え、天に逆らう者は滅びるのが道理。
漢王は、義帝のために喪を発して義兵を起こし、徳と仁愛を人民すべてに及ぼし、その威勢によって諸侯に命令を下しておられる。
これは、まさに仁義によって立つ天下の主です。
それに加えて、韓信が兵を用いる手腕は鬼神の如くで、向かうところ敵なしです。
だからこそ、時勢を見極める目を持ち、天命を知っている者たちは、矛を寝かせて戦意のないことを示し、続々と漢に帰順しているのです。
もし仮に、誤って狂暴な楚に仕えてしまったとしましょう。
それではまるで、殷の紂王を助けて悪事を働いた奸臣、飛廉や費仲のようなものではありませんか。
そんな者には天罰の下らぬはずがありません。
私は、常日頃から趙王に利害を説き、漢に降参するよう、おすすめしてきました。
しかし趙王は、それを用いてくださらなかった。
それでとうとう、身を誤って国を滅ぼしてしまったのです。
私が『天に逆らう者は滅びる』と言ったのは、このことです。
蒯徹殿。貴公は燕の名士です。
時代の流れをよく見て、どの国が興り、どの国が滅びるか、細かく検討してごらんなさい。
きっと貴公なら分かるはず。漢王劉邦と、覇王項羽、どちらが本当に天命を受けた人物でしょうか?」
蒯徹は答えた。
「漢王が芒蕩山で大蛇を斬ったときは、神母が夜中に号泣しました。
また、秦に踏み込んだときには、火・水・木・金・土の五星が一ヶ所に集まる奇跡が起こりました。
これらを考えあわせれば、漢王こそ真の天命を受けた人物であることは疑う余地もありません」
李左車は、さらに言う。
「では、これはどうでしょう。
漢王に仕える韓信、張良、蕭何、陳平。
覇王に仕える范増、龍沮、季布、鍾離眜。
どちらが優れていると思いますか?」
蒯徹は、うなった。
「韓信たちの方が、はるかに優れております。楚の大将たちでは、それらの人材には遠く及ばないでしょう」
李左車は、にこり、と笑う。
「貴公が言う通りであれば、漢が興り、楚が滅びることは、厳然として明らかではありませんか。
そこまで分かっていらっしゃるのに、どうして道義をわきまえた漢に逆らって、今にも滅びようとしている楚に従おうとなさるのです?
天命を知っている者が、そんな行動を取るでしょうか?」
蒯徹は、首を垂れ、しばし無言で考えこんだ。
やがて、蒯徹は顔を上げた。
「李左車先生のおっしゃることは、大いに理にかなっております。
実を言うと、私はもともと、韓信大元帥を説得し、燕攻撃を止めるために来たのです。
しかし、逆に大元帥の言葉に深く感じいってしまい、どうしたものかと思っていたところでした。
今、李左車先生にお会いして、私の意志は固まりました。
どうか、もう一度、韓信大元帥に会わせていただきたい。
燕と漢、両国の好を結びたいのです。
そして、私自身も、これからは韓信大元帥の麾下に所属したい。
攀龍附鳳……龍の体に攀じ登り、鳳凰にしがみ附くように、韓信大元帥のそばで共に出世の道を歩みたいのです。
先生、私の気持ちを韓信大元帥に伝えていただけませんか」
*
李左車は大いに喜び、すぐに蒯徹を韓信の前へ連れて行った。
「韓信大元帥。
蒯徹大夫は、敵国の使者たる自分に対して礼を尽くしてくださった大元帥の優しさと心の広さに、深く感じ入ったそうです。
そして、一刻も早く帰国して燕王に降参を勧め、自分自身は、これから大元帥の麾下に所属して働きたい、と申しております。
いかがでしょう。いったん侵攻を取りやめて、燕が降参してくるのをお待ちいただけないでしょうか?」
韓信は、これを聞いて、ななめならず喜んだ。
そして、すぐに曹参・樊噲の2人に1万の軍勢をあずけ、蒯徹と一緒に燕へ派遣した。
攻撃のためではなく、燕の降伏を受け入れるためである。
曹参・樊噲らの軍勢は、燕の城に近づくと、城外に陣を置いて足を止めた。
そして蒯徹は、燕王に降伏を勧めるため、1人、城に入っていった。
*
そのころ、燕王は深く憂えて、日々を悶々と過ごしていた。
蒯徹が、いつまでたっても帰ってこないからである。
そんなとき、外から報告が飛び込んできた。
「蒯徹が、ただいま帰って参りました!」
燕王は、大急ぎで蒯徹を招き入れた。
「おお、蒯徹!
遅かったではないか……それで、一体どういう結果になった?」
蒯徹は、韓信・李左車と話したことを、細かく燕王に語り聞かせた。
「……と、こういうわけでございます。
臣の見たところでは、漢王は賢明さと人徳を兼ね備えた本物の君主です。
必ずや、漢王が楚を滅ぼして、天下を統一なさるでしょう。
そうと分かれば、一刻も早く漢に降参して、人民を戦の苦しみからお救いなさることが、なにもかも上手くいく万全の計であろうと思います」
燕王は、喜んで言った。
「私は、最初から『漢に降伏しよう』と思っていたのだ。
それを、汝が『まず自分が行って虚実を確かめてくる』などと言うから、今まで先延ばしにしていたのではないか。
汝も降伏すべきだと判断したのなら、もう迷うことはあるまい。
漢の曹参殿・樊噲殿を城へお迎えせよ。すぐに謁見しよう」
蒯徹は、城門を開いて、外の漢軍を迎え入れた。
曹参・樊噲は、兵を率いて城内に入った。
燕王は、酒宴を設けて、曹参・樊噲を丁寧に、もてなした。
そして、翌日。
燕王は、100騎あまりの兵を従えて、曹参・樊噲と共に、趙の城へ向かった。
趙の城では、韓信が燕王を待っていた。
お互いに礼を済ませると、韓信が言う。
「私は、近いうちに大軍を率いて出発し、燕を経由して斉まで進み、北方の国々をことごとく平定しようと思っておりました。
しかし、その前に、そちらから来ていただけるとは!
賢明なる燕王よ、はるばる遠くから、よくぞお越しくださいました」
燕王が言う。
「私は、以前から韓信大元帥の武威と人徳を慕っておりました。
さらに、漢王様は心が広く仁義あふれる長者(徳のある人)であらせられるとか。
そこで、漢に降伏したいと考え、蒯徹を送ってその気持ちをお伝えしたのですが、幸いにも大元帥は降伏を受け入れてくださった。
どうか、漢王様に奏上して、今後は我らを漢の麾下で用いてくださいませ」
韓信は深く喜び、降参を願い出る表奏(文書)を燕王に書かせた。
そして、使者を滎陽城に送り、燕が降伏したことを劉邦に報告した。
かくして、燕もまた漢の勢力圏に組み込まれた。
こうなると、北方諸国の中で平定されずに残っているのは、最東端の斉のみである。
韓信は、斉攻撃に取りかかることを全軍に通達し、夜に日を継いで戦準備を進めたのだった。
(巻十へ、つづく)
■次回予告■
着実に北方平定を進める韓信。この動きに焦った楚の老軍師范増は、戦乱を一挙に決着させんと滎陽攻撃を画策する。
もはや何度目かも分からぬ劉邦の危機。そのとき、一人の謀士が蠢きだした。漢の暗部を一手に担う稀代の陰謀家、名は陳平。策略という毒に塗れた刃が、今、老賢者の喉を裂く。
次回「龍虎戦記」第五十五回
『さらば、范増』
乞う、ご期待!