龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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巻十 さらば、范増
五十五の上 さらば、范増


 

 

 大漢の3年丁酉(ていゆう)(紀元前204年)、冬11月。

 漢の大元帥韓信が、西魏(せいぎ)・代州・趙(ちょう)・燕(えん)の4国を平(たい)らげ、威風によって周囲を動かし始めていた、そのころ……

 

 楚(そ)の都(みやこ)彭城(ほうじょう)にも、韓信快進撃の噂(うわさ)は伝わっていた。

 老軍師范増(はんぞう)は、楚(そ)将鍾離昧(しょうりまい)をともなって、覇王項羽に謁見(えっけん)した。

 

「近ごろ、韓信が魏豹(ぎひょう)を捕らえ、夏悦(かえつ)を斬り、趙(ちょう)を破り、燕(えん)を降伏させ、向かうところ敵なしの様子です。

 この勢いを見て、今まで楚(そ)に従ってきた諸侯の中にも、漢の方に寝返る者が続出しております。

 

 このまま捨て置けば、問題の根はますます深くなり、棘(とげ)もいよいよ固くなって、取りのぞきがたくなっていくでしょう。

 覇王陛下。ここは、一気に決着をつけるため、すみやかに兵を起こして、滎陽(けいよう)の劉邦を征伐なさるべきでありましょう」

 

 項羽は、うなずいた。

「うん。

 俺も韓信の噂(うわさ)を聞いて、近いうちに兵を出さなきゃいけないと思っていたところだ。

 亜父(あふ)たちの奏上は、俺の気持ちにぴったり合っているぞ」

 

 項羽は、すぐに命令を発した。

 すなわち、10万の軍勢を整えて、滎陽(けいよう)城へ向けて出発したのである。

 

 

   *

 

 

 項羽、またしても来(き)たる!

 その情報は、漢の間者によって、すぐさま劉邦に伝えられた。

 

 劉邦は、大慌てで軍師張良と謀士(ぼうし)陳平(ちんぺい)を呼んだ。

「やばいぞ!

 韓信が北方へ遠征中だというのに、韓信不在の隙(すき)を狙って項羽がまた攻めてきやがった!

 

 王陵は、おっ母(か)さんが亡くなったことで心の病(やまい)になって、まだ立ち直っていないし……

 項羽に対抗できそうな英布は、領国の九江へ帰ってしまっている。

 他の大将たちも、大半が韓信の出征について行ったから、今、この滎陽(けいよう)城はカラッポ同然だよ。

 

 これじゃ、とても守りきれない!

 なあ、俺、一体どうしたらいい?」

 

 陳平(ちんぺい)が答えた。

「少しも御心(みこころ)を苦しめなさいますな。

 臣に、ひとつの計があります。

 

 項羽が普段から頼りにしている骨鯁(こっこう)の臣(魚の骨のように意志が固く、主君に直言する硬骨の臣)といえば、范増(はんぞう)、鍾離昧(しょうりまい)、龍沮(りゅうしょ)、周殷(しゅういん)など、せいぜい5、6人にすぎません。

 今回、楚(そ)軍がこちらへ攻めてきたのも、元々は項羽の意志ではありますまい。これら家臣団が勧(すす)めたからでありましょう。

 

 そこで……

 反間(はんかん)の計を用いてはいかがかと思います」

 

 劉邦が身を乗り出す。

「反間(はんかん)の計っていうのは?」

 

 陳平(ちんぺい)が流れるように説明した。

「敵の中に不和(ふわ)を作り出し、仲違(なかたが)いさせる計略のことです。

 まず、漢王様には、賄賂(わいろ)の資金として数万金を用意していただきます。

 これを楚(そ)の将士たちにバラまき、『范増(はんぞう)や鍾離昧(しょうりまい)が反逆を企(くわだ)てている』という噂(うわさ)を流すのです。

 

 項羽は、もともと思慮が浅く、讒言(ざんげん)(他人を陥(おとしい)れるための悪口)を簡単に信じる性格です。

 項羽は必ずこの噂(うわさ)を信じ、范増(はんぞう)たちがどんなに見事な計略を考えたとしても、用いようとしなくなるでしょう。

 

 そのときを狙って、臣が、もうひとつ別の計を施(ほどこ)します。

 そうすれば、項羽は怒り狂い、きっと范増(はんぞう)や鍾離昧(しょうりまい)を誅殺(ちゅうさつ)いたします。

 

 范増(はんぞう)さえ楚(そ)から消えれば、項羽がどれほど強くとも、その武勇を活かすことは不可能となる。

 その後で我らが攻撃を仕掛(しか)ければ、楚(そ)は、たちまち滅んでしまうでしょう」

 

 劉邦は限りなく喜び、すぐさま黄金4万斤(きん)(約10トン)を用意した。

「陳平(ちんぺい)、この金を全部お前に任す。好きなように使っていいぞ!」

 

 これほどの財宝を、ポンと家臣に預けてしまう気前の良さ。このあたりが、他人にはちょっと真似(まね)できない劉邦の長所である。

 とはいえ、本当に范増(はんぞう)を失脚させられるなら、これでも決して高い買い物ではない。

 

 陳平(ちんぺい)は、十分すぎるほどの資金を手に入れると、ひそかに心腹(しんぷく)の人を楚(そ)へ送り込み、楚(そ)の将士に金をバラまきはじめた。

 そして、盛(さか)んに噂(うわさ)を流した。

 

「范増(はんぞう)や鍾離昧(しょうりまい)は、たびたび功績をあげてきたが、覇王は彼らに領地や爵位(しゃくい)を与えようとしない。

 だから范増(はんぞう)たちは覇王を恨(うら)み、漢と内通して楚(そ)を滅ぼそうと企(たくら)んでいる。

 彼らは、楚(そ)の領土を分割して自分たちの物にするつもりなのだ……」

 

 

   *

 

 

 噂(うわさ)は、ほどなく項羽の耳に入った。

 項羽は、顔面蒼白(そうはく)になった。

「そうだったのか……もう少しで奴らに騙(だま)されるところだった」

 

 范増(はんぞう)や鍾離昧(しょうりまい)といえば、これまで数えきれないほどの功績をあげてきた、腹心中の腹心だ。

 それにもかかわらず、項羽は、出所(でどころ)不明の怪しげな噂話(うわさばなし)を、いともあっさりと信じ込んでしまった。

 

 それ以来、項羽は、重要な会議に范増(はんぞう)たちを呼ばなくなった。

 こうして、なにもかも謀士(ぼうし)陳平(ちんぺい)の思惑(おもわく)通りに事(こと)が運んでいったのである。

 

 

   *

 

 

 楚(そ)陣営に微妙な空気が漂(ただよ)う中、項羽は、大軍を率(ひき)いて出陣した。

 

 項羽は、滎陽(けいよう)城の近くまで軍を進めると、まず城の手前に本陣を作り、その翌日、みずから先陣を切って滎陽(けいよう)城に押し寄せた。

 

 かくして滎陽(けいよう)の戦いは始まった。

 開戦から3日。楚(そ)軍は城の四方を取り囲み、息も継がずに攻め続けた。

 一方、漢軍の方は、城に立てこもって、ひたすら守りを固め、城外にまったく出てこようとしない。

 

 項羽は、勇(いさ)ましく号令を下(くだ)す。

「韓信が不在の今、あんな城は空城(あきじろ)同然だ!

 さっさと打ち潰してしまえっ!」

 

 楚(そ)軍は、数多くの射手を集め、おびただしい数の鉄砲や火矢を一斉に城へ打ち込んだ。

 漢軍の方も、石礫(いしつぶて)や灰瓶(はいびん)を、雨のように降らせて対抗する。(灰瓶(はいびん):石灰を詰めた瓶(びん)。敵を失明させるための投擲(とうてき)武器)

 

 連日、激しい戦闘が繰(く)り広げられたが、決着はなかなかつかなかった。

 いかに精強な楚(そ)軍といえども、籠城(ろうじょう)に徹(てっ)する相手を強引に打ち破ることは難しい。

 漢軍の必死の抵抗を浴びて、楚(そ)軍は、まったく城に近づくことができなかったのである。

 

 そこから、膠着(こうちゃく)状態のまま時間ばかりが過ぎ去って、戦(いくさ)は7日目に突入した。

 これだけ攻めても、まだ滎陽(けいよう)城が落とせない。

 それどころか、攻略の足がかりひとつ作れていない。

 

 項羽は、次第(しだい)に焦り始めた。

 

 

   *

 

 

 一方、籠城(ろうじょう)する漢軍の側(がわ)も、苦しい。

 外の項羽からは、粘(ねば)り強く守っているように見えるかもしれないが、劉邦たちは劉邦たちで、いつ守りを突破されるかと戦々(せんせん)恐々(きょうきょう)なのである。

 

 この状況を見て、軍師張良が、劉邦に進言した。

「項羽は、猛烈な勢いで滎陽(けいよう)城を攻撃していますが、思わしい戦果をあげられていません。

 そろそろ焦りはじめている頃でしょう。

 

 いま使者を送り、詐(いつわ)りの降参を申し出れば、項羽は必ず和睦(わぼく)に乗ってきます。

 和睦(わぼく)の交渉を利用して、陳平(ちんぺい)殿の計を動かしましょう。項羽と家臣団の間に疑念(ぎねん)を生じさせるのです」

 

 劉邦が言う。

「もし項羽が降伏を受け入れなかったら?」

 

 張良の微笑が、氷のように冴(さ)えわたる。

「いいえ、その心配はありませんよ。

 項羽は、天性の躁(そう)。

 剛胆(ごうたん)ではありますが、ジッと耐え忍(しの)ぶのが苦手な性格です。

 

 項羽が城を攻め始めて、すでに7、8日が経過しております。

 はじめは勢いがあった楚(そ)軍も、だんだんと疲れ、弱ってきています。

 すでに項羽は、心の中で躁(そう)の気分が爆発しそうになっているはず。

 

 漢から使者が来れば、たちまち兵を後退させて和睦(わぼく)に踏み切ることは疑う余地もありません」

 

 劉邦は、うなずいた。

「よし、それで行こう! 随何(ずいか)を呼んでくれ!」

 

 漢一番の弁舌(べんぜつ)の士、随何(ずいか)は、ちょうどこのとき韓信のところから滎陽(けいよう)に戻ってきていたのだ。

 項羽を騙(だま)すための説客(せっかく)として、随何(ずいか)以上の適任者はいない。

 

 劉邦は、随何(ずいか)に、使者として楚(そ)陣へ行くよう命(めい)じた。

 

 

   *

 

 

 随何(ずいか)は、滎陽(けいよう)の城壁に登ると、外の楚(そ)軍に向かって声を張り上げた。

「私は、これより漢王様の命(めい)により、一大事の使者として楚(そ)陣に赴(おもむ)く!

 楚(そ)軍の方々よ! うっかり私を攻撃なさらないように気を付けていただきたい!」

 

 それから随何(ずいか)は、滎陽(けいよう)城の東門を開け、楚(そ)の陣へ向かった。

 

 楚(そ)陣に到着した随何(ずいか)は、項羽に謁見(えっけん)した。

「漢王は、以前に覇王陛下と義兄弟の盟約を交わし、共(とも)に義帝の命(めい)を受け、二手(ふたて)に分かれて秦(しん)を討伐(とうばつ)いたしました。

 その後、漢中という、険阻(けんそ)極(きわ)まりない土地に封(ほう)ぜられてしまいましたから、父母のいる遠い故国を離れるのを忍(しの)びなく思い、兵を起こして攻め上ったのです。

 

 しかし、漢王の望みは、ただそれだけでありました。天下を手中に収めようと考えていたわけではありません。

 関中の地を手に入れた今、漢王の望みは十分に叶(かな)えられました。

 

 漢王は、もう、こんな戦いは終わりにしたいと考えております。

 そこで……

 滎陽(けいよう)より東を楚(そ)の領域、西を漢の領域とする条件で、和睦(わぼく)していただけないでしょうか?

 

 和睦(わぼく)が成立すれば、すぐに韓信の別動隊も呼び戻します。

 漢王と覇王陛下が、それぞれの領地の境界線を侵(おか)さぬようにすれば、人民は戦禍(せんか)から逃(のが)れることができ、漢王と覇王陛下も共(とも)に長く富貴を保つことができます。

 

 覇王陛下、どうかこの提案を聞き届けてくださいませ」

 

 

(つづく)

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