項羽は、随何の言葉を聞くと、腕を組んで考え込んだ。
かなりの長時間、一言も発せずに考えた末、項羽は范増を呼んだ。
「亜父よ。
劉邦が、随何を使者として、和睦を求めてきた。
よく考えてみたのだが、彭城に都を置いて天下に号令したとはいえ、俺自身の領土は、とても狭い。
つまり、近隣の諸侯を味方につけていなきゃ話にならないわけだが、そういう諸侯のうちの7割か8割は、楚から離反して漢の方についてしまった。
今の状況は、かなり不利だ。
ここは劉邦の望み通り、いったん講和してはどうだろう?
そうして兵を休養させ、後日あらためて計を動かすんだ」
范増は、首を振った。
「不可です。
漢が和睦を乞うてきたのは、明らかに本心ではない。
韓信が北方に遠征している今、滎陽城は空城同然。
そこに陛下が猛烈な勢いで攻めてきたので、和睦で時間を稼ごうとしているだけです。
和睦など無用。
むしろ、ますます人馬を増やし、力を尽くして夜中まで攻め立ててやりなされ。
滎陽城を破り、城内の宝玉も城壁の石も区別なく焼き払ってしまえば、たとえ韓信が100万の勇猛な兵を持って帰還したとて、もう、どうすることもできません。
随何などの言うことを真に受けて、絶好の機会を逃してはいけませんぞ」
しかし、項羽は、これを聞いても、まだ決断しきれなかった。
とりあえず随何に向かって言う。
「随何よ、しばらく退出していろ。
よく議論してから返答する」
すかさず随何が口を挟む。
「覇王陛下、どうぞ自ら御心をお決めなさいませ。
他人の言葉に惑わされてはいけません。陛下の左右の人々は、陛下のためではなく、自分の都合で物を申している可能性がございます。
韓信は、すでに北方諸国の平定を完了して、近いうちに帰還してくる予定です。
このまま長期戦にもつれこめば、兵糧は乏しくなり、兵卒も疲れてくる……そこへ韓信が大軍を率いて到着したら、どうなると思われますか?
外の韓信に呼応し、滎陽城の内からも漢軍が打って出て、楚軍を挟撃するでしょう。
さすれば、たとえ覇王陛下といえども防ぎきれるものではありません。
その時が来てから和睦を求めなさっても、漢王は、決して同意しないでしょう。
加えて、天下の人々も、覇王様を好き勝手に笑い辱めるに違いありません。
臣は、今でこそ漢に仕えておりますが、元々は楚の臣でした。
それゆえに、今日は覇王様のために、誠意をもって胸の内にある言葉を吐露したのです。
覇王陛下は、罪人を斬るための斧鉞(斧・鉞)をお持ちです。
その斧鉞を前にして、どうして覇王様を欺き誑かすことなどできましょうか。臣の言葉は、すべて真実でございます。
どうか、お早く決断なさって、後悔することのないようになさいませ」
この言葉を、項羽は大いに喜んだ。
「随何よ、よく言ってくれた。
お前の言うとおりだ。俺は覇王だ。部下の言うことなど関係ない、俺自身の意志で決断しなければいけない。
よし! 俺の気持ちは決まったぞ。
随何、お前は滎陽に帰って、劉邦に俺の気持ちを伝えておけ。
あとで、こちらからも使者を送る。和睦の話を進めようじゃないか」
*
随何は、すぐに楚陣から立ち去り、滎陽城に戻ってきた。
随何は、楚陣で起きたことを、劉邦に詳しく報告した。
范増が和睦を止め、城攻めを続行するよう項羽に勧めたこと。
そこで随何が弁舌を振るい、項羽の心を動かしたこと。
そして、近いうちに講和のための使者が来るであろうこと。
随何は、最後に、こう付け加えた。
「今こそ好機と思います。
すみやかに陳平殿に命じて、范増たちを陥れる計略を動かしなさいませ」
「よしっ!」
というわけで、劉邦は、すぐに陳平を召し寄せた。
「陳平、上手くいったぞ! 項羽が、もうすぐ和睦の使者を送ってくるそうだ。
この後、どういう計略を用いればいい?」
陳平は、劉邦のそばに近寄って、ヒソヒソと、ささやいた。
「この如く、この如く……」
劉邦は、手のひらを叩いて喜んだ。
「すげえぞ! この計略が上手くいったら、范増は、もうおしまいだ!」
そこから、陳平は使者の到着に備え、いそいそと動き始めた……
*
一方そのころ、楚陣では、項羽が虞子期(項羽の妻の弟)を呼んで、こう命じていた。
「虞子期、お前には滎陽城への使者になってもらう。
劉邦に会ったら、『3日以内に必ず城を出て、俺のところに会いに来い。そこで以前のように友好関係を結ぼう』と伝えろ。
それから、ついでに漢軍の様子を、しっかり伺ってくるんだぞ」
虞子期は、すぐに滎陽城へ向かった。
ところが、劉邦の宮殿の門番が、こんなことを言う。
「漢王は、昨夜、大いに酒を過ごしてしまったため、今日はまだ起きておられません」
「なんだそれは……」
と虞子期が眉をひそめていると……
虞子期の前へ、2人の人物が現れた。
軍師張良と、謀士陳平。いずれも漢の重鎮である。
「ご使者、ようこそお越しを。
歓迎の宴を用意してあります。さあ、こちらへ……」
張良と陳平は、虞子期を立派な楼閣に案内していった。
楼閣の中に整えられていた宴というのが、これまた、目を見張るほどに豪勢なものであった。
食卓には、黄金の杯や宝玉の碗がズラリと並べられ、美酒、佳肴、山海の珍味は数え切れぬほどである。
陳平が、虞子期に酒を勧め、ニコニコと愛想よくふるまいながら、こんなことを言う。
「范増亜父は、お元気でいらっしゃいますか?」
虞子期は、眉をひそめた。
「は? はあ……まあ、お元気だが」
陳平が、さらに妙なことを訊いてくる。
「それはなによりです。それで范増殿は、一体どのようなご用件で貴公を送ってこられたのです?」
どうも話が噛み合わない。
虞子期は苛立って、やや声を荒げた。
「貴公は何を言っているんだ?
私は范増の使者ではない。覇王項羽様の使者だ」
と。
そのとたん、張良と陳平が顔色を変えた。
「なにっ……項羽の使者だと?
亜父の使者ではなかったのか」
張良は急に席を立ち、左右の部下たちを呼んだ。
「汝ら、楚の使者を客室へ案内して、丁寧に、もてなしなさい」
そう言い捨てると、張良と陳平は、2人そろって去って行ってしまった。
張良の部下たちは、命令通りに虞子期を立たせ、楼閣から連れ出していく。
あらためて虞子期が案内された先は、ある小さな館だった。
中に入ってみると……これは酷い!
さっきまでの贅を尽くした宴が嘘のよう。
器や皿は欠けやヒビ割れだらけで、完全な物が1つもない。
給仕の者は、たった2人。
食べ物は、みすぼらしい粗食。
酒に至っては、まるで村醪……田舎の農村で自家用に醸造する安物の濁酒同然なのだ。
張良と陳平はと言えば、あれっきり、虞子期の前に顔を出そうとすらしない。
あんまりといえばあんまりな扱いである。
虞子期は、もう、腹が立つやら、唖然とするやら……
そうこうするうちに、外から人がやってきて、
「漢王が、今お目覚めになりました」
と告げた。
虞子期は、正式の使者である。もてなしは酷かったが、そんなことで機嫌を損ねて役目を放り出すわけにもいかない。
虞子期は、胸の中に不満をかかえながらも、衣服を整え、館を出て、劉邦の宮殿へ足を運んだ。
*
虞子期が宮殿を訪れると、随何が出迎えに現れた。
「申し訳ありませんが、漢王は、まだ目を覚ましたばかりで、顔も洗っていないありさま。
身支度が整うまで、こちらの部屋でお待ちください」
そう言って、随何は、ある閉め切った部屋に虞子期を案内した。
部屋の机には、数千巻にも及ぶ書類が、うずたかく積まれている。
また、両隅には、衝立や器、皿の類が無数に備えてある。
つまり、書庫のような、倉庫のような、そんな部屋である。
随何は、案内が済むなりサッと立ち去ってしまい、部屋には、虞子期1人が取り残された。
もう、メチャクチャである。仮にも王の使者たる客人を、こんな倉庫のような場所に放り込んで、ほったらかしにするなど……常識ハズレもいいところだ。
腹立たしい限りだが、考えようによっては好都合でもある。
今なら、何をしても見咎められることはないのだ。
漢の内情を探には絶好の機会である。
虞子期は、部屋に積まれていた書類を、ひとつひとつ開いて読み始めた。
どうやら、ここに保管されているのは、各地から届いた手紙らしい。
その中に1つ、奇妙な書簡があった。
というのも、差出人の名前がどこにも書かれていないのである。
虞子期は、不審に思って、その書簡を紐といてみた。
すると、その文面は……
『項羽は、彭城の守備を捨て、兵を率いて遠征してきました。
その兵力は、総数20万にも届かぬ程度。
人民の心をつかむことができず、天命にも背いてしまった項羽は、しだいに勢力を弱めております。
漢王様は、決して項羽に降伏するべきではありません。
とにかく早急に、韓信を滎陽城へ呼び戻してくださいませ。
韓信が項羽を攻撃したときを狙って、この老臣が、鍾離昧たちと一緒に内応いたします。
さすれば、近日中に楚が崩壊することは必定でございます。
お送りいただいた黄金は、あえて拝領いたしません。
そのかわり、楚を破った後で楚領を分割し、私を故郷の領主として封じていただきたい。
そうして子孫百代に渡るまで栄えること、それこそが臣の望むところ。
なにとぞ、お聞き入れくださいますよう、お願い申し上げます。
署名、あえて具えず』
虞子期は愕然とした。
「こっ……これは! まぎれもなく范増の書簡だ!
そういえば最近、『范増が漢と内通して楚を滅ぼそうとしている』などという噂が立っていたな。
あんなもの、根も葉もない虚言だと思っていたのだが……
考えてみれば、今日の張良・陳平の言動は、あまりにも不自然すぎた。
そこへきて、この書簡……
もはや疑う余地はない。范増内通の噂は、本当だったのだ!」
虞子期は、慎重に周囲の様子をうかがった。
部屋には他に誰もいない……
虞子期は、すばやく書簡を盗むと、袖の中へ隠した。
*
……が。
虞子期の行動は、一から十まで、すべて見張られていた。
部屋の壁に小さな覗き穴があり、その向こうから、張良と陳平の目が光っていたのである。
虞子期が読んだ書簡は、もちろん張良・陳平が用意した偽手紙。
さきほどの怪しげな言動も、虞子期を書庫に1人きりで残したことも、虞子期に偽手紙を読ませるための策。
「ふふ……これで計略は成就した」
張良と陳平は、会心の笑みを浮かべ、喜びあったのだった。
(つづく)