龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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五十五の中 さらば、范増

 

 

 項羽は、随何(ずいか)の言葉を聞くと、腕を組んで考え込んだ。

 かなりの長時間、一言も発せずに考えた末、項羽は范増(はんぞう)を呼んだ。

 

亜父(あふ)よ。

 劉邦が、随何(ずいか)を使者として、和睦(わぼく)を求めてきた。

 

 よく考えてみたのだが、彭城(ほうじょう)(みやこ)を置いて天下に号令したとはいえ、俺自身の領土は、とても狭い。

 つまり、近隣の諸侯を味方につけていなきゃ話にならないわけだが、そういう諸侯のうちの7割か8割は、()から離反して漢の方についてしまった。

 

 今の状況は、かなり不利だ。

 ここは劉邦の望み通り、いったん講和(こうわ)してはどうだろう?

 そうして兵を休養させ、後日あらためて計を動かすんだ」

 

 范増(はんぞう)は、首を振った。

「不可です。

 漢が和睦(わぼく)()うてきたのは、明らかに本心ではない。

 韓信が北方に遠征している今、滎陽(けいよう)城は空城(あきじろ)同然。

 そこに陛下が猛烈な勢いで攻めてきたので、和睦(わぼく)で時間を稼ごうとしているだけです。

 

 和睦(わぼく)など無用。

 むしろ、ますます人馬を増やし、力を尽くして夜中まで攻め立ててやりなされ。

 

 滎陽(けいよう)城を破り、城内の宝玉も城壁の石も区別なく焼き払ってしまえば、たとえ韓信が100万の勇猛な兵を持って帰還したとて、もう、どうすることもできません。

 随何(ずいか)などの言うことを()に受けて、絶好の機会を(のが)してはいけませんぞ」

 

 しかし、項羽は、これを聞いても、まだ決断しきれなかった。

 とりあえず随何(ずいか)に向かって言う。

随何(ずいか)よ、しばらく退出していろ。

 よく議論してから返答する」

 

 すかさず随何(ずいか)が口を挟む。

「覇王陛下、どうぞ(みずか)御心(みこころ)をお決めなさいませ。

 他人の言葉に(まど)わされてはいけません。陛下の左右の人々は、陛下のためではなく、自分の都合で物を申している可能性がございます。

 

 韓信は、すでに北方諸国の平定を完了して、近いうちに帰還してくる予定です。

 このまま長期戦にもつれこめば、兵糧(ひょうろう)(とぼ)しくなり、兵卒も疲れてくる……そこへ韓信が大軍を(ひき)いて到着したら、どうなると思われますか?

 

 外の韓信に呼応し、滎陽(けいよう)城の内からも漢軍が打って出て、()軍を挟撃(きょうげき)するでしょう。

 さすれば、たとえ覇王陛下といえども防ぎきれるものではありません。

 

 その時が来てから和睦(わぼく)を求めなさっても、漢王は、決して同意しないでしょう。

 加えて、天下の人々も、覇王様を好き勝手に笑い(はずかし)めるに違いありません。

 

 臣は、今でこそ漢に仕えておりますが、元々は()の臣でした。

 それゆえに、今日は覇王様のために、誠意をもって胸の内にある言葉を吐露(とろ)したのです。

 

 覇王陛下は、罪人を斬るための斧鉞(ふえつ)(おの)(まさかり))をお持ちです。

 その斧鉞(ふえつ)を前にして、どうして覇王様を(あざむ)(たぶら)かすことなどできましょうか。臣の言葉は、すべて真実でございます。

 

 どうか、お早く決断なさって、後悔することのないようになさいませ」

 

 この言葉を、項羽は大いに喜んだ。

随何(ずいか)よ、よく言ってくれた。

 お前の言うとおりだ。俺は覇王だ。部下の言うことなど関係ない、俺自身の意志で決断しなければいけない。

 

 よし! 俺の気持ちは決まったぞ。

 随何(ずいか)、お前は滎陽(けいよう)に帰って、劉邦に俺の気持ちを伝えておけ。

 あとで、こちらからも使者を送る。和睦(わぼく)の話を進めようじゃないか」

 

 

   *

 

 

 随何(ずいか)は、すぐに()陣から立ち去り、滎陽(けいよう)城に戻ってきた。

 

 随何(ずいか)は、()陣で起きたことを、劉邦に(くわ)しく報告した。

 范増(はんぞう)和睦(わぼく)を止め、城攻めを続行するよう項羽に(すす)めたこと。

 そこで随何(ずいか)が弁舌を振るい、項羽の心を動かしたこと。

 そして、近いうちに講和のための使者が来るであろうこと。

 

 随何(ずいか)は、最後に、こう付け加えた。

「今こそ好機と思います。

 すみやかに陳平(ちんぺい)殿に(めい)じて、范増(はんぞう)たちを(おとしい)れる計略を動かしなさいませ」

 

「よしっ!」

 というわけで、劉邦は、すぐに陳平(ちんぺい)()し寄せた。

陳平(ちんぺい)、上手くいったぞ! 項羽が、もうすぐ和睦(わぼく)の使者を送ってくるそうだ。

 この後、どういう計略を用いればいい?」

 

 陳平(ちんぺい)は、劉邦のそばに近寄って、ヒソヒソと、ささやいた。

「この如く、この如く……」

 

 劉邦は、手のひらを叩いて喜んだ。

「すげえぞ! この計略が上手くいったら、范増(はんぞう)は、もうおしまいだ!」

 

 そこから、陳平(ちんぺい)は使者の到着に(そな)え、いそいそと動き始めた……

 

 

   *

 

 

 一方そのころ、()陣では、項羽が虞子期(ぐしき)(項羽の妻の弟)を呼んで、こう(めい)じていた。

虞子期(ぐしき)、お前には滎陽(けいよう)城への使者になってもらう。

 劉邦に会ったら、『3日以内に必ず城を出て、俺のところに会いに来い。そこで以前のように友好関係を結ぼう』と伝えろ。

 それから、ついでに漢軍の様子を、しっかり(うかが)ってくるんだぞ」

 

 虞子期(ぐしき)は、すぐに滎陽(けいよう)城へ向かった。

 ところが、劉邦の宮殿の門番が、こんなことを言う。

「漢王は、昨夜、大いに酒を過ごしてしまったため、今日はまだ起きておられません」

 

「なんだそれは……」

 と虞子期(ぐしき)が眉をひそめていると……

 

 虞子期(ぐしき)の前へ、2人の人物が現れた。

 軍師張良と、謀士(ぼうし)陳平(ちんぺい)。いずれも漢の重鎮(じゅうちん)である。

 

「ご使者、ようこそお()しを。

 歓迎の(うたげ)を用意してあります。さあ、こちらへ……」

 

 張良と陳平(ちんぺい)は、虞子期(ぐしき)を立派な楼閣(ろうかく)に案内していった。

 

 楼閣(ろうかく)の中に整えられていた(うたげ)というのが、これまた、目を見張るほどに豪勢なものであった。

 食卓には、黄金の(さかずき)や宝玉の(わん)がズラリと並べられ、美酒、佳肴(かこう)、山海の珍味は数え切れぬほどである。

 

 陳平(ちんぺい)が、虞子期(ぐしき)に酒を(すす)め、ニコニコと愛想(あいそ)よくふるまいながら、こんなことを言う。

范増(はんぞう)亜父(あふ)は、お元気でいらっしゃいますか?」

 

 虞子期(ぐしき)は、眉をひそめた。

「は? はあ……まあ、お元気だが」

 

 陳平(ちんぺい)が、さらに妙なことを()いてくる。

「それはなによりです。それで范増(はんぞう)殿は、一体どのようなご用件で貴公を送ってこられたのです?」

 

 どうも話が噛み合わない。

 虞子期(ぐしき)苛立(いらだ)って、やや声を荒げた。

「貴公は何を言っているんだ?

 私は范増(はんぞう)の使者ではない。覇王項羽様の使者だ」

 

 と。

 そのとたん、張良と陳平(ちんぺい)が顔色を変えた。

「なにっ……項羽の使者だと?

 亜父(あふ)の使者ではなかったのか」

 

 張良は急に席を立ち、左右の部下たちを呼んだ。

「汝ら、()の使者を客室へ案内して、丁寧に、もてなしなさい」

 

 そう言い捨てると、張良と陳平(ちんぺい)は、2人そろって去って行ってしまった。

 張良の部下たちは、命令通りに虞子期(ぐしき)を立たせ、楼閣(ろうかく)から連れ出していく。

 

 あらためて虞子期(ぐしき)が案内された先は、ある小さな(やかた)だった。

 

 中に入ってみると……これは(ひど)い!

 さっきまでの(ぜい)を尽くした(うたげ)が嘘のよう。

 (うつわ)や皿は欠けやヒビ割れだらけで、完全な物が1つもない。

 給仕の者は、たった2人。

 食べ物は、みすぼらしい粗食(そしょく)

 酒に至っては、まるで村醪(そんろう)……田舎(いなか)の農村で自家用に醸造(じょうぞう)する安物の濁酒(どぶろく)同然なのだ。

 

 張良と陳平(ちんぺい)はと言えば、あれっきり、虞子期(ぐしき)の前に顔を出そうとすらしない。

 あんまりといえばあんまりな扱いである。

 虞子期(ぐしき)は、もう、腹が立つやら、唖然(あぜん)とするやら……

 

 そうこうするうちに、外から人がやってきて、

「漢王が、今お目覚めになりました」

 と告げた。

 

 虞子期(ぐしき)は、正式の使者である。もてなしは(ひど)かったが、そんなことで機嫌(きげん)(そこ)ねて役目を放り出すわけにもいかない。

 虞子期(ぐしき)は、胸の中に不満をかかえながらも、衣服を整え、(やかた)を出て、劉邦の宮殿へ足を運んだ。

 

 

   *

 

 

 虞子期(ぐしき)が宮殿を(おとず)れると、随何(ずいか)が出迎えに現れた。

「申し訳ありませんが、漢王は、まだ目を覚ましたばかりで、顔も洗っていないありさま。

 身支度(みじたく)が整うまで、こちらの部屋でお待ちください」

 

 そう言って、随何(ずいか)は、ある閉め切った部屋に虞子期(ぐしき)を案内した。

 

 部屋の机には、数千巻にも及ぶ書類が、うずたかく積まれている。

 また、両隅(りょうすみ)には、衝立(ついたて)(うつわ)、皿の(たぐい)が無数に(そな)えてある。

 つまり、書庫のような、倉庫のような、そんな部屋である。

 

 随何(ずいか)は、案内が済むなりサッと立ち去ってしまい、部屋には、虞子期(ぐしき)1人が取り残された。

 もう、メチャクチャである。仮にも王の使者たる客人を、こんな倉庫のような場所に放り込んで、ほったらかしにするなど……常識ハズレもいいところだ。

 

 腹立たしい限りだが、考えようによっては好都合でもある。

 今なら、何をしても見咎(みとが)められることはないのだ。

 漢の内情を(さぐる)には絶好の機会である。

 

 虞子期(ぐしき)は、部屋に積まれていた書類を、ひとつひとつ開いて読み始めた。

 どうやら、ここに保管されているのは、各地から届いた手紙らしい。

 

 その中に1つ、奇妙な書簡(しょかん)があった。

 というのも、差出人の名前がどこにも書かれていないのである。

 

 虞子期(ぐしき)は、不審(ふしん)に思って、その書簡(しょかん)(ひも)といてみた。

 すると、その文面は……

 

『項羽は、彭城(ほうじょう)の守備を捨て、兵を(ひき)いて遠征してきました。

 その兵力は、総数20万にも届かぬ程度。

 人民の心をつかむことができず、天命にも(そむ)いてしまった項羽は、しだいに勢力を弱めております。

 

 漢王様は、決して項羽に降伏するべきではありません。

 とにかく早急に、韓信を滎陽(けいよう)城へ呼び戻してくださいませ。

 韓信が項羽を攻撃したときを狙って、()()()()が、鍾離昧(しょうりまい)たちと一緒に内応いたします。

 さすれば、近日中に()が崩壊することは必定(ひつじょう)でございます。

 

 お送りいただいた黄金は、あえて拝領(はいりょう)いたしません。

 そのかわり、()を破った後で()領を分割し、私を故郷の領主として(ほう)じていただきたい。

 そうして子孫百代に渡るまで(さか)えること、それこそが臣の望むところ。

 なにとぞ、お聞き入れくださいますよう、お願い申し上げます。

 

 署名、あえて(そな)えず』

 

 虞子期(ぐしき)愕然(がくぜん)とした。

「こっ……これは! まぎれもなく范増(はんぞう)書簡(しょかん)だ!

 そういえば最近、『范増(はんぞう)が漢と内通して()を滅ぼそうとしている』などという(うわさ)が立っていたな。

 あんなもの、根も葉もない虚言(きょげん)だと思っていたのだが……

 

 考えてみれば、今日の張良・陳平(ちんぺい)の言動は、あまりにも不自然すぎた。

 そこへきて、この書簡(しょかん)……

 もはや疑う余地(よち)はない。范増内通の(うわさ)は、本当だったのだ!」

 

 虞子期(ぐしき)は、慎重に周囲の様子をうかがった。

 部屋には他に誰もいない……

 

 虞子期(ぐしき)は、すばやく書簡(しょかん)を盗むと、(そで)の中へ隠した。

 

 

   *

 

 

 ……が。

 虞子期(ぐしき)の行動は、一から十まで、すべて見張(みは)られていた。

 部屋の壁に小さな(のぞ)き穴があり、その向こうから、張良と陳平(ちんぺい)の目が光っていたのである。

 

 虞子期(ぐしき)が読んだ書簡(しょかん)は、もちろん張良・陳平(ちんぺい)が用意した(にせ)手紙。

 さきほどの怪しげな言動(げんどう)も、虞子期(ぐしき)を書庫に1人きりで残したことも、虞子期(ぐしき)(にせ)手紙を読ませるための策。

 

「ふふ……これで計略は成就(じょうじゅ)した」

 張良と陳平(ちんぺい)は、会心の笑みを浮かべ、喜びあったのだった。

 

 

(つづく)

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