しばらくして、随何が虞子期の前に現れた。
「準備が整いました。漢王の御前に、ご案内いたします」
ここまでずいぶん待たされたが、ようやく虞子期は漢王劉邦に謁見を果たした。
劉邦は、虞子期の顔を見ると、愛想よく微笑んだ。
「もう何年も前のことになるが……俺と項羽殿が秦討伐に旅立つとき、懐王(義帝)が約束したんだ。
『先に関中に入った方を王とする』ってな。
結局、俺の方が早く関中に入って、秦を滅ぼした。
となれば、俺こそ関中の王にならなきゃいけない。
ところが、項羽殿は約束を破り、険阻なド田舎の蜀・漢に、俺を追いやってしまった。
だから俺は、父母の住む故郷に戻りたい一心で、挙兵を決意したんだ。
しかしまあ、今となってはもう、関中も手に入ったし、俺の望みは一通り叶っちゃったからな。
これ以上、項羽殿と苦しい戦を続けて、人民の命を傷つけたくはないんだ。
そういうわけで、使者を送って、和睦を願い出た。
幸いにも項羽殿も和睦を受け入れてくださった。
今後は、函谷関(関中の入口にある関門)の西側を漢、東側を楚としよう。
そして、おたがいに軍を引っ込めて、末永く平和に暮らそうじゃないか。
貴公、どうか項羽殿に、このことを申し上げてほしい。
劉邦が感謝して三度もお辞儀していたと、そう伝えてくれよ」
虞子期が言う。
「お伝えするまでもなく、すでに和睦を了承しておられます。それゆえ、それがしを使者として遣わしなさったのです。
覇王陛下は、漢王様と会見を行い、かつての好を取り戻したいと考えておいでです。
3日以内に漢王様みずから城を出て、覇王様の元へお越しください。
そこで直接、講和いたしましょう。
他意はございませんから、どうぞ、ご安心を」
劉邦は、うなずいた。
「よし、分かった。
こちらの家臣団と相談したうえで、必ず、そちらに伺おう。
楚の陣に戻ったら、項羽殿に、よく伝えてくれ」
*
話が終わると、虞子期は、大急ぎで楚陣に帰っていった。
劉邦との交渉よりも、范増のことで虞子期の頭はいっぱいだったのだ。
虞子期は、項羽に会い、滎陽城で見てきたことを、ひとつひとつ報告した。
滎陽で受けた、ぞんざいな扱い……
張良や陳平の、奇妙な挙動……
そして最後に、虞子期は、滎陽で盗んできた怪文書を、項羽に差し出した。
項羽は、怪文書を読むと、火を噴くような勢いで怒りはじめた。
「范増ッ! あの老匹夫め!
なんでこんなことをするんだ! これは軽い罪じゃないぞ! 今すぐ拷問して罪を正してやるっ!」
*
項羽の激怒は、すぐに范増の耳にも伝わった。
話を聞いたとたん、范増は顔色を変えた。
「やられたっ……! 虞子期め、まんまと敵の計略にハメられてきおったな!?」
范増は、慌てて項羽の前に駆けていき、地に拝伏した。
「覇王様!
臣は、長く陛下にお仕えして、国のために肝胆を砕いてまいりました。どうして今さら裏切りなど考えましょうか!
これは張良や陳平が仕掛けた反間の計でございます。
陛下に臣のことを疑わせ、誅殺させようと企んでおるのです。
こんなことに耳を貸してはなりませぬ!」
だが、項羽は、言われれば言われるほど、ますます怒りを激しくする。
「黙れ! 無益な言い訳をして俺を騙すんじゃないっ!
虞子期は、俺が信頼してる男だぞ! その虞子期が、事実をハッキリと見てきたんだ!
間違ってるわけがないだろッ!」
范増は、長く長く嘆いて、心の中に思った。
「項羽という男は、もともと疑い深く、いざというときに正しい決断ができない男だ。
ああ……ついに、このときが来たか……」
范増は、たまらない悔しさ、ふがいなさ、情けなさに、皺だらけの拳を固く握りしめた。
「さようでございますか……
よろしい。天下の趨勢は、もはや決まった。
ここから先は、覇王様みずから、心のままにおやりなさい。
臣は、陛下にお仕えして数年……心と力を尽くして、しばしば功労を立てたつもりだ。
願わくは、その功績に対する最後の報いとして、骸骨を賜ることをお許しくだされ。(骸骨を賜る:辞職する)
もはや、このうえ地位や名誉は求めませぬ。
故郷に帰って老後を過ごすことさえできれば、それで十分。
なにとぞ、覇王陛下の天地に渡る大恩を、お恵みくださいませ……」
范増の目尻から、一筋の涙が伝い落ちた。
項羽は、ハッ……と顔を強張らせた。
脳裏に、ここまで范増と過ごしてきた日々の記憶が、ありありと蘇ってきたのだ。
幼い日に実父を失い、父と慕った叔父も殺された項羽にとって、知恵者范増は、まぎれもなく父のように敬愛する人――亜父に他ならなかった。
項羽は、しばらくジッと考え込み、やがて、ぽつり、と呟いた。
「……分かった。
誰か、亜父を故郷まで送ってやれ。
さらばだ、范増……」
*
かくして、旗挙げ直後から項羽を支え続けた老軍師范増は、全ての役職を解任され、故郷への帰路についた。
その道中、范増は何度も、空を見上げて長嘆した。
「私は……心をからっぽにして楚に仕えてきた。
それが、よもや主君から、私心あることを疑われようとはな。
私が解任されたことは問題ではない。心配なのは楚の未来だ。この一件は、楚国そのものにとっての不幸をもたらすに違いない……」
范増は、陰鬱な気持ちを胸に抱えたまま、彭城まで戻ってきた。
ここで、范増の体に異変が起きた。
鬱憤が溜まりすぎたためであろうか……背中に大きな疽(腫瘍)ができて、堪えがたい痛みを発しはじめたのである。
症状は日に日に酷くなっていった。
旅を続けるどころか、もう、立っていることすら、ままならない。
痛みのせいで、睡眠も食事も、まともにとることができない。
范増は、従者たちに、こう訴えた。
「すまぬが、汝らに頼みたいことがある。
臥牛山に、楊真人という仙人が住んでいる。
昔、私が師として道を学んだお方だ。
汝らは、楊真人を訪ね、私の病状を伝えてくれ。
あのお方なら、必ずや苦痛を取り除く霊的な処方を御存知だろう」
従者たちは贈り物として黄金や絹を用意し、すぐに臥牛山へ向かった。
楊真人の住まいは、すぐに見つかった。
従者たちが范増の病状を伝えると、楊真人は、悲しげに首を振った。
「范増か……
確かに彼は、かつて私のもとで道を学んでおった。
范増が山を去るとき、私は彼に言ったのだ。
『汝は、いつも謀略や計略を好む。だからこそ、良い主君を選んで仕えねばならないぞ』とな。
それが、どうだ?
話は聞いているぞ。良い主君を選ぶどころか、天命を持たぬ仮初の君主を助け、真の君主を滅ぼそうとし、人民に残虐な害を及ぼす手助けをしてしまいおった。
だから、ついに天罰を受けて、重病に冒されてしまったのだ。
これは范増が自分自身で招いた禍だ。人の手では、どうにもできぬ。
それに、もし私が范増を救ったら、私まで天に逆らうことになってしまう」
結局、楊真人は贈り物を突き返し、従者たちを山から追い払ってしまった。
従者たちは、山から戻ってきて、范増に楊真人の言葉を伝えた。
范増は、苦痛に震えながらそれを聞き、最後に一声、
「ああ――」
と叫んで、地に倒れた。
そしてもう、二度と目を開くことはなかった。
時に、大漢の三年丁酉、夏四月。
行年71歳であった――
*
従者たちは、楚陣へ戻り、范増の死を項羽に伝えた。
項羽は、泣いた。
声をあげて、大いに……泣いた。
項羽は、すぐに人を彭城へ派遣し、手厚く礼を尽くして葬儀を行うように命じた。
自分の中に同居する、いくつものちぐはぐな感情……それをすりあわせることもできぬまま、項羽は己の衝動に、ただ振り回されつづけていたのである。
*
一方、滎陽城の劉邦は、数日遅れて范増の死を耳にし、飛び上がって喜んだ。
「やったあ! 俺の胸の中の病気が、いっぺんに治っちゃったぞ!」
劉邦は、范増謀殺を主導した陳平に、重く恩賞を与えた。
そして、項羽の侵攻に備え、ますます密に城の守りを固めたのだった。
(つづく)
■次回予告■
亜父を亡くした覇王項羽は行き場のない怒り悲しみに駆り立てられて、かつてない猛攻を滎陽に加える。
もうこれ以上は守り切れぬ、と滎陽脱出を提案する陳平。ただでは逃げられぬ窮地の中で、張良は奇策の担い手を見出す。漢軍大将、名は紀信。彼が演ずる一世一代の大舞台、その顛末を、とくと御覧じろ。
次回「龍虎戦記」第五十六回
『滎陽城を脱出せよ』
乞う、ご期待!