龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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五十五の下 さらば、范増

 

 

 しばらくして、随何(ずいか)虞子期(ぐしき)の前に現れた。

「準備が整いました。漢王の御前(ごぜん)に、ご案内いたします」

 

 ここまでずいぶん待たされたが、ようやく虞子期(ぐしき)は漢王劉邦に謁見(えっけん)を果たした。

 

 劉邦は、虞子期(ぐしき)の顔を見ると、愛想(あいそ)よく微笑(ほほえ)んだ。

「もう何年も前のことになるが……俺と項羽殿が(しん)討伐(とうばつ)に旅立つとき、懐王(かいおう)(義帝)が約束したんだ。

 『先に関中に入った方を王とする』ってな。

 

 結局、俺の方が早く関中に入って、(しん)を滅ぼした。

 となれば、俺こそ関中の王にならなきゃいけない。

 

 ところが、項羽殿は約束を破り、険阻(けんそ)なド田舎(いなか)(しょく)・漢に、俺を追いやってしまった。

 だから俺は、父母の住む故郷に戻りたい一心(いっしん)で、挙兵を決意したんだ。

 

 しかしまあ、今となってはもう、関中も手に入ったし、俺の望みは一通り(かな)っちゃったからな。

 これ以上、項羽殿と苦しい(いくさ)を続けて、人民の(いのち)を傷つけたくはないんだ。

 

 そういうわけで、使者を送って、和睦(わぼく)を願い出た。

 幸いにも項羽殿も和睦(わぼく)を受け入れてくださった。

 

 今後は、函谷関(かんこくかん)(関中の入口にある関門)の西側を漢、東側を()としよう。

 そして、おたがいに軍を引っ込めて、末永(すえなが)く平和に暮らそうじゃないか。

 

 貴公、どうか項羽殿に、このことを申し上げてほしい。

 劉邦が感謝して三度もお辞儀(じぎ)していたと、そう伝えてくれよ」

 

 虞子期(ぐしき)が言う。

「お伝えするまでもなく、すでに和睦(わぼく)了承(りょうしょう)しておられます。それゆえ、それがしを使者として(つか)わしなさったのです。

 

 覇王陛下は、漢王様と会見を行い、かつての(よしみ)を取り戻したいと考えておいでです。

 3日以内に漢王様みずから城を出て、覇王様の元へお越しください。

 そこで直接、講和いたしましょう。

 他意(たい)はございませんから、どうぞ、ご安心を」

 

 劉邦は、うなずいた。

「よし、分かった。

 こちらの家臣団と相談したうえで、必ず、そちらに(うかが)おう。

 ()の陣に戻ったら、項羽殿に、よく伝えてくれ」

 

 

   *

 

 

 話が終わると、虞子期(ぐしき)は、大急ぎで()陣に帰っていった。

 劉邦との交渉よりも、范増(はんぞう)のことで虞子期(ぐしき)の頭はいっぱいだったのだ。

 

 虞子期(ぐしき)は、項羽に会い、滎陽(けいよう)城で見てきたことを、ひとつひとつ報告した。

 滎陽(けいよう)で受けた、ぞんざいな扱い……

 張良や陳平(ちんぺい)の、奇妙な挙動……

 

 そして最後に、虞子期(ぐしき)は、滎陽(けいよう)で盗んできた怪文書を、項羽に差し出した。

 項羽は、怪文書を読むと、火を噴くような勢いで怒りはじめた。

 

范増(はんぞう)ッ! あの老匹夫(ひっぷ)め!

 なんでこんなことをするんだ! これは軽い罪じゃないぞ! 今すぐ拷問(ごうもん)して罪を正してやるっ!」

 

 

   *

 

 

 項羽の激怒は、すぐに范増(はんぞう)の耳にも伝わった。

 話を聞いたとたん、范増(はんぞう)は顔色を変えた。

「やられたっ……! 虞子期(ぐしき)め、まんまと敵の計略にハメられてきおったな!?」

 

 范増(はんぞう)は、慌てて項羽の前に駆けていき、地に拝伏した。

「覇王様!

 臣は、長く陛下にお仕えして、国のために肝胆(かんたん)を砕いてまいりました。どうして今さら裏切りなど考えましょうか!

 

 これは張良や陳平(ちんぺい)仕掛(しか)けた反間(はんかん)の計でございます。

 陛下に臣のことを疑わせ、誅殺(ちゅうさつ)させようと(たくら)んでおるのです。

 こんなことに耳を貸してはなりませぬ!」

 

 だが、項羽は、言われれば言われるほど、ますます怒りを激しくする。

「黙れ! 無益な()(わけ)をして俺を(だま)すんじゃないっ!

 虞子期(ぐしき)は、俺が信頼してる男だぞ! その虞子期(ぐしき)が、事実をハッキリと見てきたんだ!

 間違(まちが)ってるわけがないだろッ!」

 

 范増(はんぞう)は、長く長く(なげ)いて、心の中に思った。

「項羽という男は、もともと疑い深く、いざというときに正しい決断ができない男だ。

 ああ……ついに、このときが来たか……」

 

 范増(はんぞう)は、たまらない(くや)しさ、ふがいなさ、情けなさに、(しわ)だらけの(こぶし)を固く握りしめた。

「さようでございますか……

 よろしい。天下の趨勢(すうせい)は、もはや決まった。

 ここから先は、覇王様みずから、心のままにおやりなさい。

 

 臣は、陛下にお仕えして数年……心と力を尽くして、しばしば功労を立てたつもりだ。

 願わくは、その功績に対する最後の(むく)いとして、骸骨(がいこつ)(たまわ)ることをお許しくだされ。(骸骨(がいこつ)(たまわ)る:辞職する)

 

 もはや、このうえ地位や名誉は求めませぬ。

 故郷に帰って老後を過ごすことさえできれば、それで十分。

 なにとぞ、覇王陛下の天地に渡る大恩(だいおん)を、お(めぐ)みくださいませ……」

 

 范増(はんぞう)目尻(めじり)から、一筋(ひとすじ)の涙が(つた)い落ちた。

 

 項羽は、ハッ……と顔を強張(こわば)らせた。

 脳裏に、ここまで范増(はんぞう)と過ごしてきた日々の記憶が、ありありと蘇ってきたのだ。

 幼い日に実父を失い、父と(した)った叔父も殺された項羽にとって、知恵者范増(はんぞう)は、まぎれもなく父のように敬愛する人――亜父(あふ)に他ならなかった。

 

 項羽は、しばらくジッと考え込み、やがて、ぽつり、と(つぶや)いた。

「……分かった。

 誰か、亜父(あふ)を故郷まで送ってやれ。

 さらばだ、范増(はんぞう)……」

 

 

   *

 

 

 かくして、旗挙(はたあ)げ直後から項羽を支え続けた老軍師范増(はんぞう)は、全ての役職を解任され、故郷への帰路についた。

 

 その道中、范増(はんぞう)は何度も、空を見上げて長嘆(ちょうたん)した。

「私は……心をからっぽにして()に仕えてきた。

 それが、よもや主君から、私心あることを疑われようとはな。

 私が解任されたことは問題ではない。心配なのは()の未来だ。この一件は、()国そのものにとっての不幸をもたらすに違いない……」

 

 范増(はんぞう)は、陰鬱(いんうつ)な気持ちを胸に抱えたまま、彭城(ほうじょう)まで戻ってきた。

 

 ここで、范増(はんぞう)の体に異変が起きた。

 鬱憤(うっぷん)()まりすぎたためであろうか……背中に大きな()腫瘍(しゅよう))ができて、()えがたい痛みを発しはじめたのである。

 

 症状は日に日に酷くなっていった。

 旅を続けるどころか、もう、立っていることすら、ままならない。

 痛みのせいで、睡眠も食事も、まともにとることができない。

 

 范増(はんぞう)は、従者たちに、こう(うった)えた。

「すまぬが、汝らに頼みたいことがある。

 

 臥牛山(がぎゅうざん)に、(よう)真人(しんじん)という仙人が住んでいる。

 昔、私が師として道を学んだお方だ。

 

 汝らは、(よう)真人(しんじん)(たず)ね、私の病状を伝えてくれ。

 あのお方なら、必ずや苦痛を取り除く霊的な処方を御存知(ごぞんじ)だろう」

 

 従者たちは贈り物として黄金や絹を用意し、すぐに臥牛山(がぎゅうざん)へ向かった。

 

 (よう)真人(しんじん)の住まいは、すぐに見つかった。

 従者たちが范増(はんぞう)の病状を伝えると、(よう)真人(しんじん)は、悲しげに首を振った。

 

范増(はんぞう)か……

 確かに彼は、かつて私のもとで道を学んでおった。

 

 范増(はんぞう)が山を去るとき、私は彼に言ったのだ。

 『汝は、いつも謀略や計略を好む。だからこそ、良い主君を選んで仕えねばならないぞ』とな。

 

 それが、どうだ?

 話は聞いているぞ。良い主君を選ぶどころか、天命を持たぬ仮初(かりそめ)の君主を助け、(まこと)の君主を滅ぼそうとし、人民に残虐な害を及ぼす手助けをしてしまいおった。

 

 だから、ついに天罰を受けて、重病に(おか)されてしまったのだ。

 これは范増(はんぞう)が自分自身で招いた(わざわい)だ。人の手では、どうにもできぬ。

 それに、もし私が范増(はんぞう)を救ったら、私まで天に逆らうことになってしまう」

 

 結局、(よう)真人(しんじん)は贈り物を突き返し、従者たちを山から追い払ってしまった。

 

 従者たちは、山から戻ってきて、范増(はんぞう)(よう)真人(しんじん)の言葉を伝えた。

 范増(はんぞう)は、苦痛に震えながらそれを聞き、最後に一声(ひとこえ)

 

「ああ――」

 

 と叫んで、地に倒れた。

 そしてもう、二度と目を開くことはなかった。

 

 時に、大漢の三年丁酉(ていゆう)、夏四月。

 行年(ぎょうねん)71歳であった――

 

 

   *

 

 

 従者たちは、()陣へ戻り、范増(はんぞう)の死を項羽に伝えた。

 

 項羽は、泣いた。

 声をあげて、大いに……泣いた。

 

 項羽は、すぐに人を彭城(ほうじょう)へ派遣し、手厚く礼を尽くして葬儀を行うように(めい)じた。

 自分の中に同居する、いくつものちぐはぐな感情……それをすりあわせることもできぬまま、項羽は(おのれ)の衝動に、ただ振り回されつづけていたのである。

 

 

   *

 

 

 一方、滎陽(けいよう)城の劉邦は、数日遅れて范増(はんぞう)の死を耳にし、飛び上がって喜んだ。

「やったあ! 俺の胸の中の病気が、いっぺんに治っちゃったぞ!」

 

 劉邦は、范増(はんぞう)謀殺(ぼうさつ)を主導した陳平(ちんぺい)に、重く恩賞を与えた。

 そして、項羽の侵攻に(そな)え、ますます密に城の守りを固めたのだった。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

■次回予告■

 

 亜父(あふ)()くした覇王項羽は行き場のない怒り悲しみに駆り立てられて、かつてない猛攻を滎陽(けいよう)に加える。

 もうこれ以上は守り切れぬ、と滎陽(けいよう)脱出を提案する陳平(ちんぺい)。ただでは逃げられぬ窮地の中で、張良は奇策の(にな)い手を見出(みいだ)す。漢軍大将、名は紀信。彼が演ずる一世一代の大舞台、その顛末(てんまつ)を、とくと御覧(ごろう)じろ。

 

 次回「龍虎戦記」第五十六回

 『滎陽(けいよう)城を脱出せよ』

 

 ()う、ご期待!




●注釈
 漢初期までの中国では、(しん)が制定した暦法、顓頊暦(せんぎょくれき)が継続して用いられていた。
 これは月の運行を基準とした太陰暦(たいいんれき)に、太陽の運航に基づく閏月(うるうづき)を組み合わせたもので、新年が10月から開始されるという特徴がある。つまり、高祖2年9月の次が高祖3年10月、高祖3年12月の次が高祖3年1月……というふうに繋がるわけである。この暦法を漢がそのまま受け継いだ理由は、「史記・張丞相列伝」によれば、『劉邦が覇上(はじょう)に入ったのがちょうど10月だったから』なのだそうだ。
 今回の冒頭が「大漢(高祖)3年11月」であるのに対して、范増(はんぞう)の死が「大漢3年4月」となっており、日付が逆行しているように見えるが、実際は上記のように11月より4月の方が後なのだ。
 また、西暦とは日付に若干のズレがあり、たとえば高祖3年11月は西暦の紀元前205年12月後半から204年1月前半に相当する。さらに、西暦の中でもユリウス暦とグレゴリオ暦ではまた若干ズレる。以上のように、中国歴と西暦は単純に対応させることができず、なにかとややこしい。
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