龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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五十六の上 滎陽城を脱出せよ

 

 

 范増(はんぞう)が死んでからというもの、項羽は、人が変わったように深く悲しみ、日夜、泣き濡れていた。

范増(はんぞう)は、ずっと俺を助けてくれていた。

 范増(はんぞう)が俺に向けてくれていた思いは、本当の父親と少しも変わらないものだった。

 

 范増(はんぞう)が別れ(ぎわ)に言ったことを思いだしてみれば、彼に二心(ふたごころ)が無かったことは明らかだ。

 これは間違(まちが)いなく、張良とか陳平(ちんぺい)とかが(たくら)んだ反間(はんかん)の計だ。

 

 俺は、そんなことも見抜けないで、あんなに忠実に働いてくれた范増(はんぞう)(とが)め、大切な股肱(ここう)の臣を失ってしまった……

 俺は、なんてことをしてしまったんだ……!」

 

 項羽は大いに後悔し、ふと思い立って、鍾離昧(しょうりまい)を呼んだ。

 

 鍾離昧(しょうりまい)が現れると、項羽は、低くうなだれながら言った。

鍾離昧(しょうりまい)よ。お前も、つまらない(うわさ)を流されていたよな。

 疑って、すまなかった……これからも安心して俺に仕えてくれ」

 

 鍾離昧(しょうりまい)は地に頭をつけて礼をした。

「臣は、覇王陛下にお仕えして数年。

 不才の身ではありますが、陛下に対する忠誠心だけは動かざること泰山(たいざん)の如し、変わらざること金石(きんせき)の如しです。

 

 亜父(あふ)もまた、ひたすら国のために忠義を尽くす方でありました。

 どうして裏切りなどを考えましょうか。

 

 先日、虞子期(ぐしき)が持ち帰ってきた書簡(しょかん)は、敵が作った偽物に違いありません。

 覇王陛下、どうかこれからは、卑劣な奴らに(だま)されなさいますな」

 

「うん……そうだ。お前の言うとおりだ。気を付けるよ……」

 項羽は、ますます後悔した。

 

 だが、いつまでも落ち込んではいられない。

 目の前の滎陽(けいよう)城には劉邦がいる。范増(はんぞう)抜きで、これを打ち破らねばならないのだ。

 

 項羽は、范増(はんぞう)の後任の軍師として、叔父の項伯を任命し、大小の軍務をすべて管理させた。

 さらに、軍馬を整理して再編成し、あらためて滎陽(けいよう)へ押し寄せた。

 

 滎陽(けいよう)の四方を取り囲む()の大軍。

 今にも城を踏み破らんとする勢いで、すさまじい猛攻が始まった。

 

 

   *

 

 

 劉邦は、大いに恐れ、慌てて群臣を招集した。

「大変だあ! 項羽が、すごい勢いで攻めてきてる!

 もう、この城も、いつまで持つか分からないぞ!

 

 韓信も、まだ帰ってこない。

 あちこちの国から集まってきた諸侯の中に、項羽と戦えるほどの勇者もいない……

 みんな、なにか良い策はないのか!?」

 

 張良が答える。

「項羽が急に城攻めの勢いを増したのは、范増(はんぞう)の死によって、今まで以上に心が(そう)になっているからです。

 さらに先日、彭城(ほうじょう)から()陣へ、おびただしい量の兵糧(ひょうろう)が届けられた様子。

 当分、項羽は軍を退()こうとしないでしょう。

 

 気がかりなのは、()が川を()き止める策に出ることです。

 もし川を(ふさ)がれれば、水はこの城へ流れ込む……さすれば、どうしようもなくなります。

 項羽がそのことに気づく前に手を打たねばなりません」

 

 そこへ、陳平(ちんぺい)が進み出た。

「臣に、ひとつ計略がございます。

 この計略を実行すれば、必ずや、敵の包囲から漢王様をお救いできましょう。

 

 ただ、ひとつ問題が……

 漢王様のために(いのち)がけで計略を実行できる人材が、味方の大将の中に見当たらないのです」

 

 満座の諸将は、一斉にざわつき始めた。

陳平(ちんぺい)殿!

 どうして貴公は『漢軍に人無し』などと言うのか!

 

 我々は長く漢王様に仕えてきた。義の心は金石(きんせき)の如く固い!

 (いのち)塵芥(ちりあくた)よりも軽んじて、国のために忠義を尽くし、功名を一万代先まで伝えようと思っているのだ!

 たとえ(かなえ)で煮殺されようとも、白刃を首筋に振り下ろされようとも、怖いことなどあるものか!」

 

 陳平(ちんぺい)は、これを笑い飛ばした。

「いやいや、そういう難しさとは、また別の話なのだ。

 私には深い計略があるのだよ。諸君の知ったことではない」

 

 劉邦が口を挟む。

「一体どんな計略なんだ?」

 

 陳平(ちんぺい)は、劉邦の耳元に寄って、ひそひそと何かをささやいた。

 劉邦は、ぱっと顔を明るくして手を叩いた。

「おお! すごくいい計略だ!」

 

 そこで劉邦は、張良に向かい、

陳平(ちんぺい)と相談して、うまく計略を進めてくれ」

 と(めい)じて、その日の評議は、ひとまず打ち切りとした。

 

 

   *

 

 

 張良は、帰宅してから、すぐに思案を巡らせはじめた。

 

 陳平(ちんぺい)は「人材がいない」と言っていたが、ある意味では確かにその通りだった。

 この計略を実行するには、どうしても1人、不可欠の人材がいる。しかし、その選出が、実に繊細で難しい。

 

 張良は、どうやって諸将の心を(ふる)い立たせ、陳平(ちんぺい)の計略に従わせるか、一晩かけて考え抜き……

「よし。この手でいこう」

 と決断した。

 

 その翌日。

 張良は盛大な酒宴を(もう)け、漢軍の大将という大将を、のきなみ招待した。

 

 大将たちは、呼ばれるままに酒宴にやってきた。

 型どおりの礼が終わり、来客側と主人側に分かれて座る。

 

 そこで張良は、酒宴場の奥に、一幅(いっぷく)掛軸(かけじく)を掛けた。

 

 諸将は、掛軸(かけじく)の絵を見て、首をかしげる。

 あれは一体なんの場面を描いたものだろう?

 絵の中に1両の馬車があり、その後ろから、重武装の兵士が数十騎で追ってきているようである。

 

 馬車の中には、座っている人間が1人。

 馬車のそばには林があり、その木陰(こかげ)に、人が1人、隠れている。

 

 諸将は、張良に(たず)ねた。

「張良先生、これは、何を描いた絵なのですか?」

 

 張良は、静かに語りだした。

「今から300年も昔のこと。

 (せい)頃公(けいこう)という君主がおりました……」

 

 

   *

 

 

 頃公(けいこう)の時代、(せい)(しん)の間に(いくさ)が起きた。

 両軍は激しくぶつかりあって死闘を繰り広げた。

 はじめのうちは互角だったが、徐々に(しん)軍の方に形勢が傾きだし、とうとう(せい)軍は粉砕されてしまった。

 

 (せい)軍の将兵たちが、四方八方へ逃げ散っていく。

 (せい)頃公(けいこう)も、馬車で必死の逃走をはじめた。

 護衛の軍勢とも、はぐれてしまい、(とも)といえば御者を務める田夫(でんぷ)(農夫)たった1人だけ。

 

 後ろからは(しん)の大軍が追ってくる。

 もう、どうにもならない……と諦めかけたそのとき、田夫が言った。

 

「事態は一刻を争います。

 大王様は車から降りて、林のなかに隠れてくださいませ。

 おそれながら、この私が大王様の御衣(みころも)を着て、車の中に座り、身代(みが)わりとなりましょう」

 

 頃公(けいこう)は、首を横に振った。

「いかん!

 それでは、私が難を逃れたとしても、汝は確実に殺されてしまうではないか」

 

 田父は、にっこりと笑った。

「主君から俸禄(ほうろく)をいただく者は、主君のために死ぬものです。

 私1人が死んだとて、大きな林の木の葉1枚が減る程度(ていど)のこと。

 しかし大王様が亡くなれば、それは天下万民が父母を失うに等しいのです」

 

 そうこうする間に、追手は、すぐそばにまで迫ってきた。

 田夫(でんぷ)は、急いで頃公(けいこう)を馬車から引き出し、林の中へ隠れさせた。

 そして自分は、頃公(けいこう)と服を交換して、馬車のなかに座った。

 

 しばらくすると、(しん)の兵200騎あまりが追いついてきて、馬車のまわりを取り囲んだ。

 田夫(でんぷ)は、(しん)兵の手で馬車から引きずり出され、連行されていった。

 

 (しん)の大将郤献子(げきけんし)郤克(げきこく))は、田夫(でんぷ)を一目見て、顔色を変えた。

「こいつは頃公(けいこう)ではないぞ! 偽物だ! 殺してしまえ!」

 

 このとき、田夫(でんぷ)は堂々と言った。

頃公(けいこう)身代(みが)わりとして死ぬなら本望(ほんもう)です。

 しかし、ひとつだけ申し上げます。

 

 もしここで私を殺したら、どうなると思いますか?

 主君のために身を投げ出した者が、無残(むざん)に殺された……そんな前例を作ってしまえば、ここから先の未来、主君のために(いのち)をかける者は、二度と現れないでしょう。

 

 自分の(いのち)()しんで言っているのではありません。

 ただ世の中のためを思って言っているのです。

 なにとぞ、このことを考慮してくださいませ」

 

 郤献子(げきけんし)は、田夫(でんぷ)の言葉を聞いて、感嘆(かんたん)した。

「汝は、身分こそ(いや)しい田夫(でんぷ)かもしれないが、その(こころざし)(とうと)ぶべきものだ。

 

 臣が死を恐れずに働き、それによって主君が難を逃れる……それはまさに臣の果たすべき忠義だ。

 汝のような人物を殺すのは縁起(えんぎ)が悪いな」

 

 そして、ついに郤献子(げきけんし)は、田夫(でんぷ)を許し、解放したのだった。

 

 

   *

 

 

 張良は、話を語り終えると、言った。

「……という逸話(いつわ)を描いたのが、この絵なのです。

 

 この窮地(きゅうち)から逃げのびた頃公(けいこう)は、その後、反撃に転じて(しん)を滅ぼし、覇業(はぎょう)を成しとげました。

 そのため、この田夫(でんぷ)も、青史(せいし)(歴史)に不朽の名を残し、1万代の未来まで伝えられています。

 

 今、漢王様は敵に囲まれ、いつ何時(なんどき)滅ぼされるか分からない危機の中にあります。

 (いにしえ)田夫(でんぷ)のような、義を重んじ(ちゅう)(とうと)ぶ人が現れなければ、漢王様は、きっと()(ぞく)どもに滅ぼされるでしょう。

 

 その時は、我々も、みんな捕虜にされてしまう。

 それを悲しく思い、この掛軸(かけじく)()けたのです」

 

 張良の話を聞くと、大将たちは、奮然(ふんぜん)として立ち上がった。

「父に苦難があれば、子が身代(みが)わりになるべし!

 主君に苦難があれば、臣が身代(みが)わりとなるべし!

 

 (いにしえ)の時代には、田夫(でんぷ)でさえ忠義の心を知っていた。

 まして、我らは長く漢王様に仕えて、重い爵位(しゃくい)俸禄(ほうろく)をいただいてきた!

 どうして田夫(でんぷ)に負けていられようか!

 

 張良先生!

 我々を漢王様の身代(みが)わりに使ってください!

 漢王様のため、(いのち)を捨てて滎陽(けいよう)脱出という困難を実現してみせましょう!」

 

 張良は、にっこりと微笑(ほほえ)んだ。

「諸君にこれほどの忠義があるのなら、漢王様の運命にも光が見えてまいりました。

 

 しかし……

 これは忠義だけでは、どうにもなりません。

 漢王様に顔や体格が似た人物でなければ、()軍を(だま)すことは、できません。

 

 諸君の顔を見回してみると、漢王様に似ているのは……紀信将軍。あなただけのようです」

 

 紀信は、漢の大将の1人である。

 張良から名指(なざ)しされて、紀信は(おど)り上がった。

「おお! 望むところだ!

 熱湯に飛び込むことも、烈火の中に踏み込むことも、何を恐れることがありましょうか!」

 

 紀信の言葉を聞いて、張良と陳平(ちんぺい)は、大いに喜んだ。

 

 

(つづく)




●注釈
 田夫(でんぷ)(せい)頃公(けいこう)の身代わりとなった逸話が語られた。ほぼ同様の話が史書にも記されているのだが、「通俗漢楚軍談」「西漢通俗演義」と「史記」などの史書とでは、登場する人物名に食い違いがある。
 「史記・(せい)太公世家・(せい)頃公(けいこう)」では、登場人物は以下の通り。
(せい)の君主:頃公(けいこう)
 身代わりとなった人物:護衛の逢丑父(ほうちゅうほ)
 (しん)の君主:景公。
 (しん)の将軍:郤克(げきこく)
 ところが「軍談」「演義」では、こうなっている。
(せい)の君主:景公。
 身代わりとなった人物:田夫(でんぷ)
 (しん)の将軍:献子(けんし)
 (せい)の君主が、敵国(しん)の君主と同じ『景公』とされている。取り違えたのだろうか。あるいは(せい)にも別の時代に景公という君主がいるから、そちらと間違えたのかもしれない。本編に登場した無名の田夫(でんぷ)は、史書では逢丑父(ほうちゅうほ)という護衛の臣。献子(けんし)というのは郤克(げきこく)諡号(しごう)(没後に贈られる号)で、こちらは呼び名こそ違えど同一人物である。
 判断に悩むところだったが、君主の名は単純な誤りと考えて「史記」に合わせて差し替えた。一方、身代わりとなった人物が田夫(でんぷ)とされているのは意図的な脚色とみなし、「軍談」「演義」の記述に従うことにした。
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