龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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五十六の中 滎陽城を脱出せよ

 

 

 翌日。

 張良と陳平(ちんぺい)は、紀信を連れて、劉邦の前にやってきた。

 

「漢王様。

 この紀信将軍が、漢王様の身代(みが)わりとして()に投降し、漢王様が逃げる時間を(かせ)いでくれます」

 

 劉邦は、顔色を変えて叫んだ。

身代(みが)わりだって!?

 こっそり滎陽(けいよう)から逃げ出す策だとは聞いてたが、身代(みが)わりを置いていくなんて話は聞いてないぞ!

 

 ダメだ、ダメだっ!

 この劉邦は、まだ天下統一の大業(たいぎょう)を成しとげていない。

 部下の将兵たちに、髪の毛1本分、柄杓(ひしゃく)1杯分の恩恵さえ与えてやれていないんだ。

 

 いくら紀信が俺のかわりに死にに行くと言ってくれたからって、『やったぜ! 後はよろしくな!』なんて言えるかよ!

 他人に損をさせて自分だけ得をする、そういうのは仁義を知ってる人間のやることじゃねえ!」

 

 これに反論したのは、当の紀信本人だった。

「今は緊急事態です。

 もし、この計略を用いなかったら、滎陽(けいよう)城は、たちまち破られてしまうでしょう。

 城内の物は宝玉も石ころも区別なく焼き払われて、この私も殺される……しかも、私が死んだとしても、漢王様をお守りする役に立つわけでもない。

 

 どうせ近いうちに失う(いのち)

 ならば、君臣ともに犬死(いぬじに)するより、漢王様だけでも生きのびるほうが良いではありませんか。

 それに、この窮地(きゅうち)から漢王様が脱出なされば、私の美名は泰山(たいざん)のように末永(すえなが)く世界に残り続けますよ。

 

 私は、自分の(いのち)鴻毛(こうもう)(おおとり)の羽毛)よりも(かろ)んじております!

 漢王様! どうか私のことは心配なさらないでください!」

 

 だが、そう言われて納得できる劉邦ではない。

 劉邦は、なおも躊躇(ためら)って決断できなかった。

 

 すると、紀信は突然、剣を抜きはなって叫んだ。

「漢王様! さては、臣が嘘をついていると考えておられますな!?

 ならば、今ここで自分の首を()ね、すべて本心であると証明してみせましょう!」

 

 紀信は、剣を自分の首に当てた。

 劉邦は、慌てて紀信に飛びかかり、紀信を抱きしめて泣いた。

「よせ! やめてくれ!

 紀信、お前の気持ちは、よく分かった!

 

 お前の忠誠心は、天上の太陽まで届くに違いないよ。

 千年先まで語り継がれるに違いないよ!」

 

 そして劉邦は、涙にまみれた顔で(たず)ねた。

「なあ紀信。お前に、親父さんや、お(ふくろ)さんは、いるのかい?」

 

 紀信が答える。

「老母が1人おります」

 

 劉邦が言う。

「じゃあ、それは今から俺の母さんだ。

 心を込めて、大切にお世話するからな!

 紀信、妻は?」

 

「います」

 

「その人は、今から俺の妹だ。不自由しないように必ず養うからな!

 子供は、どうだ?」

 

「1人だけ。まだ幼いのですが」

 

 劉邦は『幼い』と聞いて、また涙ぐんだ。

「そうか、そうか……

 その子は俺の子だ。立派に育ててみせるからな。

 

 紀信よう……お前が一生をかけて家族のためにするのと同じことを、必ず、この劉邦が責任もってやりとげるよ。

 後のことは何も心配いらないぞ。な、紀信……」

 

 紀信は、つられて涙を浮かべ、その場に(ひざまず)いて、地面に頭を(こす)りつけた。

「臣は、良い死に場所を得ました」

 

 

   *

 

 

 張良と陳平(ちんぺい)は、すぐに降参を申し出る文書を作り、使者に持たせて()陣に送った。

 

 使者は、()陣にやってくると、()の大将に申し出た。

滎陽(けいよう)城は、長期に渡って包囲されてきました。

 もはや城内に強兵はおらず、城外に救援してくれる味方もありません。

 そのため、漢王は、もう耐えきれないと判断しました。

 

 いまさら関中の地を覇王陛下に差し出して許しを()うことさえ、おこがましいと恥じいる気持ちです。

 すぐに覇王陛下に降伏したく思います。どうか、(いのち)だけは、お助けいただけないでしょうか?」

 

 使者が、へりくだった口上とともに書簡(しょかん)を差し出す。

()の大将は、すぐに項羽に書簡(しょかん)を届けた。

 

 項羽が書簡(しょかん)を開いてみると、その文面は、こうであった。

『漢王劉邦、頓首(とんしゅ)して書を覇王()()陛下の(もと)(たてまつ)る。

 

 臣劉邦は、陛下から王に(ほう)ぜられて、漢中の守りにつきました。

 漢中に行ってからというもの、あの国の水や風土に馴染(なじ)むことができず、東方に帰って故郷に住みたいと思うようになりました。

 

 思いがけず人民も従ってくれたので、つい、臣はその気になってしまい、頭がおかしくなって暴れ、とうとう関中を攻め取ってしまいました。

 

 しかし、そのあと睢水(すいすい)で敗北し、もう、(きも)を失うほどに怖くなりました。

 もうこれ以上、臣は何も望みません。

 今はただ、滎陽(けいよう)(こも)って、ひたすら生きのびたいと願うばかりです。

 

 今、韓信が北部諸国で東征(とうせい)を続けておりますが、あれは韓信自身が発案したことです。

 臣は韓信を止めようと思い、呼び戻しているのですが、韓信が言うことを聞かないのです。

 ですから、あれは臣劉邦の罪ではありません。

 

 覇王陛下は今、大軍で滎陽(けいよう)城を攻めておられます。あと少しで城を破りなさるでしょう。

 陛下の威武のもとで断罪の斧鉞(ふえつ)に首を()ねられることを、もはや臣は避けることができません。

 

 当方の文武群臣が対応を議論したところ、自分自身を(うし)()に縛って覇王陛下の前に降伏し、(いのち)だけはお助けいただけるよう嘆願(たんがん)するしかない、という結論に達しました。

 

 覇王様、もし、以前に交わした懐王(かいおう)との約束や、かつての友好の情を思っていただけるなら、これまでの臣の(あやま)ちを許してくださいませ。

 そして、再び陛下にお仕えする機会をくださいませ。

 

 覇王陛下、ただ臣を(あわ)れみたまえ! 不宣(ふせん)

 

 項羽は、書簡(しょかん)を読み終わると、劉邦からの使者を呼んだ。

「それで、劉邦は、いつ城を出て降伏してくるんだ?」

 

 使者が答える。

「今晩、必ず参ります」

 

「よし。いいだろう」

 項羽は、降伏を受け入れる返書(へんしょ)を調え、使者に持ち帰らせた。

 

 一見、劉邦を許したかのようだが……使者が帰ると、項羽は、すぐに諸大将を呼び集めた。

「劉邦から、今晩、城を出て降伏するという申し出があった。

 だが……いまさら許してやるものか!

 

 汝らは、帷幕(いばく)の中に精鋭の兵を伏せておき、奴が俺に謁見(えっけん)するとき、一気に飛び出して、劉邦を微塵(みじん)に斬り砕いてしまえ。

 今までの(うら)みを、ここで晴らすんだ!」

 

 季布、鍾離昧(しょうりまい)などの()将は、すぐに用意に取りかかり、劉邦を待ちかまえた。

 

 

(つづく)




●注釈
 紀信のセリフにある『私は、自分の(いのち)鴻毛(こうもう)(おおとり)の羽毛)よりも(かろ)んじております』という言い回しは、「史記」の著者として有名な司馬遷(しばせん)の、「報任少卿書」に類似の表現がある。
 「報任少卿書」は、任安((あざな)は少卿)という人物から送られてきた手紙への返信文書である。その中で司馬遷(しばせん)は、なぜ自分が腐刑を受け入れてまで生き延びたのかを説明している。
 漢の武帝の時代、李陵という武官が異民族を相手に激戦を繰り広げ、最後には異民族に降伏してしまうという事件が起きた。武帝は李陵を糾弾したが、司馬遷(しばせん)は李陵を弁護した。そのため司馬遷(しばせん)は武帝の勘気に触れ、投獄されてしまった。
 司馬遷(しばせん)は腐刑に処せられることになった。腐刑は宮刑ともいい、男を強制的に去勢して宦官(かんがん)にする刑罰である。肉体的な危険や苦痛はもちろんのこと、社会的にも大変な屈辱だとされていた。以上をふまえたうえで、司馬遷(しばせん)は、こう主張した。
『人もとより一死有り。死、あるいは泰山より重く、あるいは鴻毛(こうもう)より軽し。(よう)(おもむ)くところ異なればなり』
 人間には、それぞれ一度の死がある。死は泰山より重い事もあれば、羽毛より軽いこともある。それは命を何に用いるかという目的が異なるからである。
 名誉を守るために自死を選ぶことは簡単だ。しかし司馬遷(しばせん)が投獄された時点で、「史記」は未完成の草稿段階だった。もしそのまま死んでしまったら、司馬遷(しばせん)の文章は失われ、後世に残ることはないだろう。だから屈辱の極みたる腐刑を受け入れてでも生きのびたのだ……という趣旨である。
 このように、司馬遷(しばせん)は名誉よりも命を重んじる意図でこの表現を用いている。一方、本編では逆に、命を投げ捨ててでも主君のために働く勇敢さを示すために用いられている。
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