龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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五十六の下 滎陽城を脱出せよ

 

 

 項羽からの返書(へんしょ)は、すぐに滎陽(けいよう)城に届いた。

 項羽が降伏を受け入れる意思を示したことを受けて、張良と陳平(ちんぺい)は会議を行った。

 

 張良が言う。

「では、まず漢王様を城から逃がし、その後で紀信を身代(みが)わりとして行かせましょう」

 

 陳平(ちんぺい)は、首を振る。

「いやいや、項羽は心の(さわ)がしい人物です。

 少しでも遅くなれば、また城を攻めてくるでしょう。

 

 それに、城を包囲する()軍は、まだ引きあげたわけではない。

 漢王様を城から出すこと自体、難しいでしょう。

 

 私に、もうひとつ計があります。

 まず……」

 

 陳平(ちんぺい)は、ひそひそと張良に計略を語り……

 やがて2人は、うなずきかわして、動き出した。

 

 まず劉邦は、目立たない地味な衣服に着替えさせ、馬にまたがらせた。

 他の将兵も、逃げやすいよう軽装に統一してある。

 

 一方、周苛(しゅうか)樅公(しょうこう)という2人の大将には、

「ここに(とど)まって滎陽(けいよう)城を守れ」

 と(めい)じた。

 無論、これもまた、(いのち)を落とすことが前提の過酷な役割だった。

 

 そして、計の(かなめ)たる紀信。

 彼は袞龍(こんりょう)御衣(ぎょい)を着て、龍車(りゅうしゃ)の中に座る。

袞龍(こんりょう)御衣(ぎょい):龍の刺繍(ししゅう)を施した天子の衣服。

 龍車(りゅうしゃ):皇帝の乗る車)

 

 こうして、準備は万端(ばんたん)整えられた。

 

 

   *

 

 

 それから時間が過ぎ……黄昏(たそがれ)(どき)

 ()軍が、滎陽(けいよう)城の様子を、じっとうかがっていると……

 滎陽(けいよう)城の東門が、内側から大きく押し開かれた。

 

 と、そのとき。

 ()の将兵たちが、目を丸くした。

 城門の中から、思いもよらない者たちが姿を現したのだ。

 

 女性である。

 2000人あまりもの美女が行列を作り、続々と門から(あふ)れ出てきたのである。

 

 これこそ陳平(ちんぺい)の奇策であった。

 ()軍は、美女の行列に驚いて、項羽に報告した。

 項羽は、まさかこれが計略であるなどとは思いもよらず、大笑いした。

「劉邦は、昔から色ボケだったらしいからな。

 この土壇場(どたんば)に至っても、まだこんなに大勢の女を(むさぼ)り恋しがってるらしい。

 

 あんな奴に天下統一の大業(たいぎょう)が成しとげられるものか!

 范増(はんぞう)は心配しすぎだったんだ」

 

 

   *

 

 

 陳平(ちんぺい)の計略に従って、しゃなり、しゃなりと()り歩く2000人の美女。

 誰もが花の如く着飾(きかざ)り、()れったいくらいに、ゆるゆる、ゆるゆると進んでいく。

 

 ()の軍勢は、じっとしていられなくなった。

 ()の大将も、兵卒も、持ち場を離れて我先(われさき)にと滎陽(けいよう)城の東門前に集まり、お互い肩や背中を()り合わせながら美女行列を見物しはじめた。

 

 そのため、()軍の陣形はグズグズに崩れ、城の包囲は自然に解けてしまった。

 陳平(ちんぺい)は、この時を待っていたのだ。

 

 劉邦は、他の将兵たちと(とも)に、声を上げないように(ばい)を噛み、ひそかに西門から城外に出た。

 そして、西にある拠点、成皋(せいこう)を目指して、飛ぶが如くに駆けていったのだった。

 

 

   *

 

 

 そんなこととは露知(つゆし)らず、項羽は劉邦の到着を今か今かと待っていた。

 ところが、2(こう)(午後10時ごろ)の太鼓が聞こえても、まだ劉邦が到着しない。

 

「なにをチンタラやってんだ、あの男は!」

 項羽は、()れて、みずから陣の前に出てきた。

 

 この時、龍車(りゅうしゃ)はまだ、やっと滎陽(けいよう)の門から出終わったところだった。

 龍車(りゅうしゃ)のそばには天子の象徴たる黄鉞(こうえつ)と大旗が(かか)げられ、前後は多くの兵に守られている。

 

 劉邦は龍車(りゅうしゃ)の中で、ふんぞり返っているようだ。

 周囲に漢の赤旗が数多く立て並べられているのを見ても、実に堂々とした態度である。

 

 項羽は、にわかに目を怒らせた。

「なんだ、アレは!

 降伏するときは、自分から縛られて出てくるとか、とにかくもっと申し訳なさそうにするのが礼儀だろうが!

 

 俺の姿は見えてるだろうに、車から降りてひざまずこうともしないし……

 それどころか、ピクリとも動かないじゃないか。

 劉邦の野郎、酒の飲みすぎで死んでるんじゃないのか?

 でなけりゃ、木偶(でく)人形でも車に乗せてるのか?

 

 おい、誰か、ちょっと見てこい!」

 

 項羽の(めい)に従い、部下たちが火把(かは)松明(たいまつ))を持って龍車(りゅうしゃ)に近づいていく。

 車を照らして呼びかけるが、車内からは何の返事もない。

 

 項羽の部下たちは、眉をひそめた。

「漢王劉邦! なぜ(しゃべ)らないのだ?」

 

 すると、車の中から、思いもよらない返事が返ってきた。

「我は漢王にあらず!

 漢の大将、紀信なり!

 主君の身代(みが)わりとなるべく、ここに来た!

 

 漢王様は、すでに滎陽(けいよう)を脱出し、今ごろは200里(約80km)も向こうにおられるだろう。

 

 やがて漢王様は、韓信大元帥、九江王英布、彭越(ほうえつ)、その他もろもろの諸侯と合流し、一気に彭城(ほうじょう)を攻め落とすだろう。

 そして項羽の一族を()()りにし、兵を集めて()雌雄(しゆう)を決するのだ。

 

 書簡(しょかん)を送って降参の意を示したのは、すべて(いつわ)りの計略である!」

 

 ()の将兵は、顔面蒼白となり、項羽に事態を報告した。

「く、車の中にいるのは劉邦ではありません!

 漢の臣の紀信です!」

 

 項羽は、話を聞いて仰天(ぎょうてん)した。

 もちろん、いつものように怒った。

 だが、すぐに感嘆(かんたん)して言った。

 

「劉邦みたいに逃げるのは簡単だが、紀信のように主君の身代(みが)わりとなるのは難しいことだ。

 誰にでもできることじゃない……その紀信って男は、(まこと)の忠臣だな。

 

 俺も、今まで何百人もの文武の将士と出会ってきたが、紀信みたいな忠義者は他に1人もいなかったぞ」

 

 項羽は、()将の季布を呼んだ。

「俺は、あの紀信という男の忠義が好きになった。

 季布よ、彼を説得して、()で働くようにさせろ」

 

 そこで季布は、紀信の乗る車の前にやってきて、大声で呼びかけた。

「紀信よ!

 劉邦を脱出させるため、身代(みが)わりとなって来るとは、貴公は立派な忠臣だ!

 

 覇王様は、貴公の(こころざし)を愛し、(あわ)れみ、誅殺(ちゅうさつ)するのを忍びなく思っておられる。

 それどころか、貴公に重く爵位(しゃくい)俸禄(ほうろく)を与えようと、おっしゃっている。

 

 これは覇王様の温情だ。

 車から降りて、投降せよ!

 この機会を無駄になさるな!」

 

 しかし、紀信は、おとなしく投降するどころか、車の中から大声で(ののし)った。

「汝らは、無知な沐猴(もっこう)(猿)だな!

 礼儀も知らないし、バカげた妄想ばかりしている!

 

 大丈夫(立派な男)たるもの、一度主君に仕えたら、忠義を尽くして、二度と他の主君には鞍替(くらが)えしないものだ!

 たとえ俺の首が地に落ちるとしても、俺の魂は天に満ち、金属や岩石のように残り続ける!

 

 生きては漢の臣となり、死しては漢のために鬼となり、烈々(れつれつ)たる(こころざし)を貫くのだ!

 どうして汝の妄言に(まど)わされようか!」

 

 紀信の言葉は、そのまま項羽に伝えられた。

 紀信を心変(こころが)わりさせるのは不可能……

 そうと知った項羽は、部下に(めい)じた。

 

「あの車の周りに(しば)を積み、火をつけて焼き殺してしまえ」

 

 命令は、すぐに実行された。

 火に包まれた車の中で、紀信は……少しも逃げようとしなかった。

 

 むしろ紀信は、ひたすら項羽を(ののし)り続けた。猛火に体を焼かれながら。その(いのち)が果てる瞬間まで……

 

 やがて、炎は収まって……

 完全に灰燼(かいじん)と化した車だけが残された。

 紀信の肉体だったものは、あの灰の中に混ざり込み、もう、どこへ行ったか分からない。

 

 後に、この話を伝え聞いた人々は、ひとり残らず涙して、(そで)()らしたという。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

■次回予告■

 

 かろうじて難を逃れ、成皋(せいこう)に逃げ込んだ劉邦。一方、足止めのため居残った周苛(しゅうか)樅公(しょうこう)は、()の大軍を相手に必死の防戦へ身を投じる。

 落ちぬ城に苛立(いらだ)つ項羽。覇王の怒気が滎陽(けいよう)を焼き、魔手はついに成皋(せいこう)へと伸びる。一難去ってまた一難、逃走に逃走を重ねる劉邦。ああ安息の地よ、いずこに在りや?

 

 次回「龍虎戦記」第五十七回

 『果てなき逃走』

 

 ()う、ご期待!




●注釈
 美女行列の場面で紀信が(かか)げていた『黄鉞(こうえつ)』は、読んで字の如く黄色い(まさかり)のこと。(まさかり)は罪人を処罰する道具であることから、天子の権力の象徴とされている。特に黄鉞(こうえつ)は、天子が自ら軍を動かす時に(かか)げられた。
 たとえば「史記・周本紀」には、周の武王が(いん)紂王(ちゅうおう)に決戦(牧野(ぼくや)の戦い)を挑む時、左手に黄鉞(こうえつ)、右手に白旄(はくぼう)旄牛(ヤク)の尾の毛で飾った旗印)を握って戦いの決意を述べる姿が描かれている。
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