漢の大将紀信は、劉邦を滎陽城から脱出させるため、身代わりとなった。
項羽は、紀信を焼き殺すと、季布・龍沮を呼んだ。
「お前ら、1万の精兵を率いて、劉邦の後を追え!
奴を捕まえてこい!」
「はっ!」
季布と龍沮は、すぐさま兵を連れて駆け出していった。
*
季布と龍沮は、そこから丸2日以上、少しも休まずに劉邦を追い続けた。
しかし、走っても走っても、劉邦の姿が見えてこない。
手下の人馬も、すでに疲労困憊の様子である。
しかたなく、季布と龍沮は、鄭村という所で足を止め、軍に休息をとらせた。
しばらくすると、先行していた哨戒部隊が戻ってきた。
「報告いたします!
漢王劉邦は、成皋城に逃げ込んでいました。
さらに、英布・彭越の救援部隊が到着し、行く手を塞いでいるようです」
季布は、沈痛な面持ちで首を振った。
「劉邦が成皋に入ってしまったうえ、救援の軍も到着したからには、我らだけで進んでも、打ち破ることはできないだろう。
ここは、ひとまず滎陽に引き返し、覇王様の軍勢と合流するしかあるまい。
そのうえで、遠征を切り上げて彭城に戻るか、前進して成皋に攻め込むか、覇王様の指示を仰ごう」
龍沮も、
「それしかないな」
と同意して、2人は共に引き返していった。
*
滎陽に戻ってきた季布と龍沮は、事の次第を報告した。
項羽は、腕を組んで、うなる。
「ううん……
今、彭城には守備の軍勢がいない。いつまでも彭城を空にしておくのは危険だ。
といって、今から成皋を攻めたとしても、すぐには攻略できないだろう。
……しかたない。
とりあえず、目の前の滎陽城だけ攻略してから、彭城へ帰ろう。
劉邦を捕まえるのは、彭城で軍馬を整え直してからだ」
項羽は、すぐに命令を下した。
「5日以内に滎陽城を攻め落とせ!」
楚軍は、四方から滎陽城に押し寄せた。
南門には季布。
西門には龍沮。
北門には鍾離昧。
そして東門には、項羽みずから攻撃をしかける。
銅鑼や太鼓を大きく打ち鳴らし、火砲、火矢、雲梯(攻城用の梯子車)を、おびただしく用意して、一斉に打ちかかる。
これに応戦したのは、時間稼ぎのために滎陽に残った漢の大将、周苛と樅公である。
周苛・樅公は、昼夜を問わず城内を駆け回り、軍勢を励ました。
漢の兵たちは、城壁上から灰瓶を投げ、丸太を投げ、大石を投げ、武器になるものは何でも使って必死に城を守り続けた。
この粘り強い抵抗は、楚軍を大いに手こずらせた。
期限の5日が過ぎても、まだ滎陽城は持ちこたえていたのである。
*
このとき。
滎陽城内で、ある男が怪しげな動きを見せ始めた。
男の名は魏豹。
かつて西魏王の位にあったが、漢から離反し、韓信によって討伐されてしまった、あの魏豹である。
捕らえられた魏豹は危うく死罪になりかけたが、劉邦の温情により、庶人に落とすだけで許された。
その後、魏豹は滎陽城内に住み暮らしていたのだった。
(第五十三回参照)
この魏豹が、ある日、滎陽守将の周苛・樅公の前に姿を現した。
魏豹が、周苛・樅公に言う。
「漢王は、すでに城を捨てて逃げてしまった。
城は孤立し、外に救援の兵もない。
こんな状況で、どうして貴公らは降参もせず、戦い続けておられるのか?
わざわざ自分から苦しみを引き延ばしているようなものじゃないか。
このうえ戦い続けても、漢の国に何か利益があるわけではあるまい。
早く城門を開いて降伏すべきではないか? あまり長く抵抗を続けると、覇王様の心証を害することになる。
降伏後に命を保つことが難しくなりますぞ」
いったい何の用かと思えば、魏豹は降伏を勧めにきたのである。
周苛と樅公は大激怒した。
「魏豹!
裏切り者の小人め!
死を恐れる匹夫!
犬畜生にも劣るクズが!
役にも立たない唇を動かして、我が軍の心を惑わすんじゃない!
漢王様は、我らを信じて、この城を任せてくださったのだ!
それは、我々が節度を知った忠臣だと知っておられるからだ!
城の守りを任されてから何日も経っていないというのに、富貴を貪るために門を開いて投降などしたら、どうなると思う?
上は主君の命に背き、下は人民の声望を失ってしまう。
忠義を知り、国に報いようとする者に、そんなマネができると思うのか!
たとえこの体が微塵に砕かれたとしても、我が志は鉄や石のように固い!
お前みたいな奴を生かしておいたら、後で大きな害をなすに違いない!」
周苛は、いきなり魏豹の髻を掴んで引き倒した。
すると、阿吽の呼吸で樅公が剣を抜き、ただ一太刀で魏豹の首を刎ねてしまった。
周苛と樅公は、魏豹の首を城門に架けて晒し、城内の漢軍に向かって叫んだ。
「魏豹は、敵に内通しようと企んでいたため、このとおり斬首した!
汝らは、心と力を尽くして城を守れ!
もし二心を抱いたら、魏豹のようにしてやるぞ!」
すると、兵士たちの方も、声をそろえて叫び返した。
「周苛・樅公両将軍と共に、死力を振り絞って防ぎ守るぞ!」
*
魏豹の一件によって、ますます漢軍の士気は高まった。
楚軍の攻撃は激しさを増していたが、漢軍は周苛・樅公の指揮のもと、城壁を高く補修し、これまで以上の懸命さで守りを固めたのである。
楚の将兵は、さすがに辟易しはじめた。
「いつまで攻めてもキリがない。
もう、滎陽城攻めは中止したほうがいいんじゃないか……?」
こんな気構えでは、落とせる城も落とせなくなる。
それから10日が経過したが、滎陽城は、まだ破られていなかった。
困り果てた項羽は、叔父項伯と大将鍾離昧を呼んだ。
「ここまで力を尽くして攻めたが、滎陽の漢軍は、気力が弱る気配もない。
汝ら、どう思う? なにか計はないのか」
項伯が言う。
「城を攻める時は、兵の1人1人が全力を尽くさなければ、うまくいかないものです。
逆に、もし1人でも命を捨てて城に飛び込み、要所要所の櫓に放火すれば、残る軍勢は、そこから城に雪崩れこみ、たちまち城を踏み破れるのです。
そこで……
決死隊を突入させ、強引に城を破ってしまってはいかがでしょう?
これ以上、攻略に時間をかけたら、劉邦が諸侯と連携して引き返してくるかもしれません。
そうなれば、もはや滎陽を取ることは不可能になります」
「よし……やるか」
項羽は覚悟を決め、全軍に命を下した。
「今日で滎陽を落とすぞ!」
楚軍は、かつてない猛攻を滎陽城に加えた。
兵という兵が守りを捨てて突進。雲梯を押し出し、城壁を乗り越えようとする。
それに呼応して、城中の漢軍は、石や灰瓶を吹雪のように投げつけた。
この激しい抵抗を浴びて、楚軍の兵士たちは、ひるんで後退しはじめた。
が、ここで項羽の怒声が飛んだ。
「退くな!
退く者は、全員、斬り殺せ!」
楚の大将たちが、この命令を忠実に実行したから、兵士たちはたまらない。
前進すれば敵に殺され、後退すれば味方に殺される。ならば、少しでも生き残る可能性がある方……前に向かって進むしかない。
楚の兵士は、しかたなく前進を続けた。
当然、被害はどんどん増えていく。石に当たり、木に打たれ、バタバタと楚兵が死んでいく。
項羽は、損害が増えるのも構わず、さらに怒鳴りつけた。
「進めっ! ただ一揉みに攻めのぼれ!」
楚軍は、狂ったように、ひたすら城へ攻め込んだ。
この圧力を、さすがの漢軍も支えきれなくなりはじめ……
ついに、楚軍のある一隊が、城壁上に登り切ることに成功した。
「いかんっ」
漢軍守将の周苛・樅公は、すぐさまその場に駆け付け、刀を抜いた。
城壁上に侵入した楚兵を斬り捨て、敵の侵入を防ごうとする2将。
だが、そのとき、楚の大将龍沮までもが、雲梯づたいに城壁上へ駆け登った。
龍沮といえば楚軍きっての猛者である。そこらの兵士とは腕が違う。
龍沮は、右手に槍を掲げ、腰には宝刀をぶら下げ、一躍城内に飛び込んで、手当たり次第に漢兵を薙ぎ倒しはじめた。
龍沮が開いた突破口から、楚軍の一団が、城の中へ雪崩れ込む。
一度こうなれば、もう防ぐことは不可能である。
楚軍は、たちまち城壁を占拠し、漢将樅公を捕縛した。
「樅公! ……くそっ」
周苛は、樅公が捕らえられる姿を見ると、いったん逃げて城壁から降り、そこでまた楚軍を相手に剣を振るった。
しかし、そのとき。
東門の方からも、楚将の季布・鍾離昧が、放火しつつ城内に飛び込んできた。
多勢に無勢。とても周苛だけで防ぎきれるものではない。
とうとう周苛は、西門から城外に出て逃走しはじめた。
それを見た楚将龍沮は、戟を振り回し、
「敵将を追え!」
と、馬を鞭打ち、飛ぶが如くに追走した。
(つづく)