捕らえられた漢将樅公は、項羽の前に引き出された。
項羽は、樅公を見て言った。
「汝、大した武勇もない匹夫の分際で、よくここまで俺たち天兵に抵抗を続けたもんだな。
もし、お前が俺に降参するというなら、このまま滎陽の太守に封じてやってもいいぞ。
どうだ? その気はあるか?」
樅公が言う。
「それがしは、力尽き、進退窮まり、城を破られ、捕虜となった。
かくなるうえは、ただ死ぬのみ!
降参など、する理由はない!
覇王陛下にお願いする。
それがしに死を賜わり、臣としての節度を全うさせたまえ!」
「むむ」
項羽は、うなった。
項羽は、こういう忠義の豪傑が好きである。
かつては鴻門の会において、劉邦のため宴に乱入した樊噲。
先日は、劉邦の身代わりとして命を捨てた紀信。
そして今は、時間稼ぎのために勝てるはずもない戦に身を投じた樅公。
こういう男を見ると、無性に手下へ加えたくなってくるのだ。
項羽は、季布を呼んだ。
「おい季布、この樅公を説得してみろ」
命じられれば、やってみるしかない。
季布は、樅公に向かって言った。
「大丈夫たるもの、功績を立て、業績をあげ、千年先まで豪傑として美名を伝えることこそ本望だろう。
このまま死を甘受すれば、貴公の名は、世に聞こえることなく終わる。
それを惜しいとは思わないか?
貴公、降参を決心したまえ」
樅公は、にやり、と笑った。
「生きる時まっすぐに生きていれば、死ぬ時は安らかに死んでいける。
それがしは、ただ自分の心に恥じることが無いように生きたいのだ。
それがしは、力を振り絞り、心を尽くして城を守った。
楚軍の勢いが盛んなために、結局、城は破られてしまったが、それは、それがしの気が弛み衰えたせいではない。
単純に力およばず、支えきれなくなったのだ。
貴公、これ以上、言葉を費やして、それがしを降参させようとしないでくれ。
それがしは、たとえ今日、楚に降ったとしても、いつか必ず楚に背くぞ。
忠義に二心無し!
それがしの心は、万金をもってしても変えられぬ!」
ここまでキッパリと言い切られては、もう何も言えない。
しかたなく、季布は、引き下がって項羽に報告した。
「樅公は、鉄や石のように固い決心で、首を伸ばして処刑の刀が振り下ろされるのを待っております。
『たとえ今日降ったとしても、明日また背くぞ』とまで言い切りました。
もはや彼が降伏しないことは明らかです……覇王陛下、もうこれ以上は、強くお求めにならないほうがよいと思います」
項羽は、気分を害した様子で、吐き捨てた。
「降伏しないのなら、罪を許してやるわけには、いかん。
さっさと引き出して斬ってしまえ」
その命令通り、樅公は兵たちによって陣外に引き出されていった。
そして樅公は、少しも動揺することなく、毅然とした態度で斬られ、死んだ。
楚軍の将兵たちは、樅公の見事な死にざまを見て、
「まことに比類なき忠臣かな」
と、口々に嘆き、その死を惜しんだのだった。
*
一方そのころ。
滎陽から逃げ出した周苛を、楚将龍沮は、馬に鞭を入れて追い続けていた。
追いつ追われつしながら、龍沮と周苛は、大きな林にやってきた。
そこで、周苛は不意に馬を止め、刀を握る手を横に伸ばして構え、龍沮の前に立ちはだかった。
周苛が止まったのを見ると、龍沮もまた足を止め、大音をあげて呼びかけた。
「周苛よ! 俺の言葉を聞け!
漢王劉邦は、逃げ去ってしまって行方も分からない!
滎陽城はすでに破られ、妻子も捕虜となった!
この状況で、なぜ汝は、我ら天兵に抗い続けるのか!
そんな愚かな行為を続けることはあるまい! はやく降参せよ!」
これを聞いた周苛は、大いに龍沮を罵った。
「臣は忠に死し、子は孝に死すべし!
漢王様から任されていた滎陽城を破られてしまって、私は極めて恥ずかしく思っている!
このうえ貴様ら逆賊に屈したなら、私の面目は丸つぶれ。恥ずかしくて天地の間に立つこともできなくなるわ!」
周苛は、刀を振り上げ、まっしぐらに龍沮へ斬りかかった。
対する龍沮は激怒し、槍をひねって迎えうつ。
馬を交え、刃を戦わせること20合あまり。
周苛もよく戦ったが、相手が悪い。龍沮といえば、項羽からの信任も厚い、楚軍指折りの強豪である。
戦えば戦うほど周苛は劣勢に追い込まれていく。
とうとう周苛は、馬を反転させて逃げ出した。
だが、これが良くなかった。周苛が林に逃げ込むと、鎧の袖が大木の枝に引っ掛かってしまったのだ。
周苛が、枝を外そうと、もがいているところへ、龍沮が馬で駆け寄ってくる。
龍沮は、槍を突き出しながら叫ぶ。
「もし兜を脱いで気持ちよく降参するなら、一命は助けてやる!」
周苛は耳を貸さず、手にした刀で木の枝を切り落とし、再び馬を走らせ逃げ出した。
しかし、もはや何をしても手遅れだった。
このとき、楚の大軍が、すでに林の周囲を取り囲んでいたのである。
楚軍の包囲の緊密なことは、あたかも鋼鉄の桶のよう。
周苛は、それでも諦めず、左に挑みかかり、右に刀を突き出し、どうにか包囲を突破しようとあがいた。
だが、まったく道を切りひらくことができない。
結局……
周苛はどうすることもできぬまま、楚軍に捕らえられてしまったのだった。
*
龍沮は、捕らえた周苛を連れて帰還し、覇王項羽の前に周苛を引き出した。
項羽は、周苛に向かって言う。
「お前の相棒の樅公は、すでに楚に降参したぞ。
周苛よ、汝も気持ちよく俺に帰服するなら、万戸候(1万戸を治める領主)に封じてやろう」
周苛は、これを鼻で笑った。
「樅公、紀信、そしてこの私。我らは皆、漢に仕える人間だ。
暴虐の楚に降伏して、生を貪ることなど、あるはずがない!
嘘を言うのは、よすんだな。
汝のような沐猴(猿)に、この周苛将軍を騙すことは、できないぞ!」
項羽は顔面を火のように赤くして激怒した。
「このッ……! どいつもこいつもォッ!
おい! 誰か、特大の鑊(中華鍋)を持ってこい!
油を沸かして、この周苛を煮殺してしまえッ!」
周苛は、縛られたまま煮えた油に放り込まれ、無残な最期を遂げた。
かくして滎陽は、完全に項羽の手に落ちたのだった。
*
楚の大軍は、そのまま滎陽城に入った。
項羽は怒っていた。
紀信、樅公、周苛と、3人の漢将に続けて振られたことが、項羽を普段以上にイラだたせていた。
そのため項羽は、滎陽に入るや、とんでもないことを言いだした。
「滎陽にいる連中を、軍人も、住民も、1人残らず屠り殺せ!」
項羽の叔父の項伯は、これを大慌てで諌めた。
「いけません!
覇王陛下が争っておられる相手は、あくまで漢王劉邦です。民衆に罪はありません。
百姓人民は、陛下にとって赤子のようなもの。
もし滎陽の住民を皆殺しになどしたら、天下の心は陛下から離れていってしまいます。
殺すよりも、むしろ民衆に親切にふるまい、安心させてやりなさいませ。
そして、しばらく滎陽で休息してから、今度は劉邦のいる成皋に攻めかかりましょう。
成皋を取ってしまえば、劉邦は居場所も帰る場所も失って、ついには降参してくるでしょう。
その後で兵を斉国に派遣して、韓信が率いている別動隊を叩き潰す。
そうすれば、斉は楚の羽翼となり、楚を孤立から防いでくれます。
こうすれば、天下の平定も、なしとげられるでしょう」
項羽は、叔父項伯の言葉を受け入れて、少し気持ちを静めた。
そこから項羽は、しばらく滎陽に駐屯し、成皋攻撃に向けて、人馬の再整理にとりかかったのだった。
(つづく)