龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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五十八の上 韓信大失態

 

 

 成皋(せいこう)から脱出することに成功した劉邦は、昼夜を分かたず逃走し、中国北部、(ちょう)の国に向かった。

 (ちょう)には、韓信の別動隊が駐屯(ちゅうとん)している。

 劉邦は、韓信と合流して体勢を立て直すつもりなのである。

 

 劉邦は、(ちょう)の城から50里(約20km)手前まで来ると、そこで軍を止め、陣地を作らせた。

 そして劉邦自身は、数十騎の(とも)を連れて、韓信の陣へ近づいていった。

 

 これまで長期にわたって覇王項羽の脅威に(さら)され続けてきた劉邦は、

「やれやれ。韓信と合流すれば、やっと安心できるぞ……」

 と、胸をなでおろしていたのだが……

 

 ここで、思いもよらない出来事(できごと)が起きた。

 

 夜明けごろ、劉邦が韓信の陣に到着してみると……

 どうも様子がおかしい。韓信の陣の兵卒たちが、妙にやる気なくダラけている。

 部外者である劉邦たちが陣中へ踏み込んできたというのに、それを止める兵も、大将に知らせに行く兵も、いないのである。

 

 劉邦は、黙ったまま、陣の中を(すみ)から(すみ)まで一周した。

 大元帥韓信や、副将張耳(ちょうじ)の姿は、陣のどこにも見当たらない。

 昨夜、韓信と張耳(ちょうじ)は遅くまで酒を飲んでいたため、この時は、ぐっすり眠り込んでいたのだ。

 

 劉邦はそのまま陣の奥に行き、大元帥の帷幕(いばく)の中に入り込んだ。

 

 帷幕(いばく)の中に寝床が(しつら)えてあり、そこで、韓信が眠りこけている。

 寝床の脇には紅色(くれないいろ)の小さな卓があり、その上に、(にしき)袱紗(ふくさ)包みが無造作(むぞうさ)に置かれている。

 

 劉邦が、それを持ちあげ、開いてみると……

 袱紗(ふくさ)に包まれていた物は、なんと、大元帥の印章だった。

 

 劉邦は、大元帥の印章を持ったまま、帷幕(いばく)を出ようとした。

 

 韓信が目を覚ましたのは、このときだった。

「ん……? 誰かいるのか? 誰だ……?」

 

 韓信が寝惚(ねぼ)(まなこ)で見上げれば……

 帷幕(いばく)の中にいたのは、漢王劉邦その人。

 

「かっ、漢王様!?」

 韓信は驚き恐れ飛び起きて、寝床から転げ落ちるように拝伏した。

 

「漢王様がお()しとは(つゆ)しらず、お出迎(でむか)えもいたさぬ無礼、この罪万死(ばんし)(あたい)します!」

 

 劉邦は、大きく溜息をついた。

「あのなあ、韓信……

 俺は今、武装した兵士を引き連れて、陣の中を徘徊(はいかい)してきたんだぞ。

 それなのに、お前はグッスリ眠ったままで、目を覚ましもしなかった。

 

 俺が持ってる物を見てみろよ。これは大元帥の印章だ。こんな大事な物を、いとも簡単に持ち去ることができたんだぞ!

 部外者にこうまで好き勝手に動かれていながら、お前の部下は誰ひとり、報告ひとつお前に上げていない!

 

 『陣に来たのが漢の人間だから、兵士たちは気にしなかったんだ』とでも言いたいか?

 もし俺が敵の刺客だったら、『自分は漢の使者だ』と嘘をついて、お前が眠りこけてるところに入りこみ、お前の首を斬ってたところだぞ!

 寝床の横まで近づくことができたんだ。首を斬るくらい、荷物袋から物を取り出すよりも簡単だ!

 

 特に今は、敵国の(ちょう)を降伏させて、元敵兵を味方に引き入れたばかりだろ!

 いつ誰が敵になるか分からないって時に、こんな雑な管理をしてていいのか!

 こんな調子で天下を取れるとでも思うのかよ!」

 

 正論であった。

 韓信は、一言も()(わけ)できず、羞恥(しゅうち)で顔を真っ赤に染めて、ますます身を小さくした。

 

 そこへ、副将張耳(ちょうじ)が、騒ぎを聞いて駆けつけてきた。

 張耳(ちょうじ)は、劉邦の姿を見るなり叩頭(こうとう)(地面に頭を叩きつける土下座(どげざ))して謝罪した。

 

 劉邦が、張耳(ちょうじ)に向かって言う。

張耳(ちょうじ)、お前も無罪ってわけにはいかねえぞ!

 お前は副将なんだから、総大将の軍務をしっかり補佐して、身を(つつし)み、昼も夜も警戒を厳重にして、敵に内情を探られないようにするのが仕事だろ。

 

 それなのに、この陣のありさまは、どういうことだ?

 警戒は緩いし、防御は穴だらけだし、陣の中に部外者が入り込んで走り回ってるってのに、注意する者もいない!

 まるで子供の遊びじゃねえか!

 

 軍法に照らし合わせれば、韓信は即刻罷免(ひめん)張耳(ちょうじ)は首を()ねて見せしめにしなきゃいけないところだ。

 ただ、お前たち2人には、今までの多大な功労がある。

 特に今は、天下に変事がたくさん起きていて、有能な大将や兵士を用いていかなきゃいけない時だ。

 

 だから、とりあえず処刑だけは勘弁しといてやる。

 だが、もしまた今回みたいなていたらくを見せたら、次は絶対に許さねえからな!

 ひとまず大元帥の印章は没収だ!」

 

 こう叱られて、韓信と張耳(ちょうじ)は、二度も三度も叩頭(こうとう)して謝罪した。

 しかし劉邦の怒りは収まらず……

 結局劉邦は、大元帥の印章を持ったまま、自分の陣への帰路についてしまった。

 

 韓信と張耳(ちょうじ)が、慌てて劉邦の後を追う。

 劉邦の馬の後に徒歩で従い、劉邦の陣まで行って、そこでさらに謝罪を繰り返した。

 だが、それでも劉邦は、2人を許そうとしなかった。

 

 

   *

 

 

 劉邦は、自分の陣に戻ると、臣たちを集めて言った。

「韓信と張耳(ちょうじ)の軍は、紀律が無いし、兵はダラけきっている。

 俺は軍の中に入り込み、韓信が寝ているそばまで行って大元帥の印章を奪ったが、そこにたどり着くまで、誰も侵入者の存在を韓信に知らせようとしなかったんだ。

 

 こんなに気が緩んでいるのを、敵に利用されたらどうする?

 こんな調子じゃあ、韓信と張耳(ちょうじ)を、総大将として用い続けるわけにはいかない。

 誰か他に才能のある人を選んで、後任の大元帥にしようと思うが、(みんな)は、どう思う?」

 

 すると、張良と陳平(ちんぺい)が、すぐさま劉邦のそばへ進み出た。

 

 陳平(ちんぺい)が、劉邦の耳元で、ささやく。

「大変よろしくありません。

 味方の諸将の中に、韓信と同等の才能を持つ者は、1人もおりません」

 

 さらに、張良も言う。

「今回のことは、確かに失態ではありますが、小さな出来事です。

 小を理由にして大を捨てるのは、得策ではありませんよ」

 

 劉邦は、顔をしかめた。

「そうは言うけどさあ……」

 さすがに今回ばかりは、劉邦も簡単に納得できないようだった。

 

 そこで張良は語り始めた。

「昔、(えい)の国に苟変(こうへん)という大将がおりました。

 あるとき苟変(こうへん)が、百姓の家から(にわとり)の卵を2つ盗んで食べたため、(えい)公((えい)の君主)は大いに怒り、苟変(こうへん)を用いなくなりました。

 

 そのとき、孔子の孫の子思(しし)が、(えい)公を(いさ)めて言いました。

『聖人が人材を用いるやり方は、材木を用いるのに似ています。

 その要点は、長所を使い、短所は捨てること。

 

 杞梓(きし)連抱(れんぽう)にして数尺の(きゅう)有るも良工(りょうこう)()てず……

 (センダン)(キササゲ)(なん)(かか)えもある材木は、たとえ()ちた部分が数尺あっても、腕のいい職人なら捨てません。

 ()ちた所だけ切って捨て、残った良い部分を使うのです。

 

 今は戦国の世であり、君主の爪や牙となる臣を選んで用いなければならない時です。

 そんなときに、たった2つの卵を理由にして、国を守る盾や城となるべき将を捨てるのですか?

 このことが隣国に伝われば、必ずや大いなる災いを呼ぶことになるでしょう』

 

 (えい)公は、子思(しし)の言葉を受け入れて、それからは苟変(こうへん)を重く用いるようになったのです。

 

 韓信は、確かに今回、失態を演じました。

 ですが、これまでの日々における抜群の功績を、無視してよいものでしょうか?」

 

 劉邦は、張良の話を聞いて、考え込んだ。

 しばらくして、劉邦は、韓信と張耳(ちょうじ)を呼び出した。

 

「韓信よ。

 俺は滎陽(けいよう)成皋(せいこう)()軍に包囲されて、もう少しで潰されるところだった。

 なのに、なぜお前は援軍を送ってくれなかったんだ?」

 

 韓信が答える。

(えん)は、漢に帰服したものの、情勢がまだ不安定。

 (せい)は、いまだ攻略できておりません。

 ここで私が兵を動かせば、おそらく両国で乱が発生するでしょう。

 

 また、滎陽(けいよう)が囲まれたという話は伝わっていましたが、その情報が真実かどうかは未確認の状態でした。

 そのため、軽々しく兵を動かすわけには、いかなかったのです」

 

 劉邦がさらに問う。

(ちょう)はすでに破ったのに、いまだに(せい)は攻略できていない。

 これは、なぜだ?」

 

 韓信が答える。

「兵卒を長く働かせ続けると、疲労します。

 大将に長く陣を守らせ続けると、(なま)けだします。

 国が長く包囲されると、物資が消耗していきます。

 敵に長く抵抗されると、軍は困窮してしまいます。

 

 臣は数万の軍勢を統率して、繰り返し戦って勝利を()てきました。

 西の()から東の(せい)まで、往来すること数千里。

 もし人馬を休息させずに軽々しく(せい)を攻めれば、疲れ果てたところを敵に狙われ、大敗するだろうことは疑う余地もありません。

 

 それゆえに、しばらく(ちょう)に駐屯し、あえて全軍の規律を緩めて(くつろ)がせ、鋭気を養うことにしたのです。

 そして十分に鋭気を養い、そろそろ(せい)討伐(とうばつ)に向かおうと考えていたところに、ちょうど漢王様が、いらっしゃいました。

 

 臣は、数日後には(せい)へ出発しようと思います。

 ()以外の六国の平定を完了してきます。

 

 漢王様は、兵を修武(滎陽(けいよう)成皋(せいこう)の北にある土地)に駐屯させ、そこを拠点にして成皋(せいこう)を奪還してくださいませ。

 臣は、(せい)を討伐した後、すぐに漢王様に合流します。

 その時こそ、()()ち天下を統一する時です」

 

 劉邦は、韓信の言葉に納得し、大元帥の印章を再び韓信の手に預けた。

 張耳(ちょうじ)も罪を許されたうえ、(ちょう)王に(ほう)ぜられて、(ちょう)国の守りを任された。

 

 そして劉邦は、韓信の進言に従い、修武へ移っていったのだった。

 

 

(つづく)




●注釈
 『杞梓(きし)連抱(れんぽう)にして数尺の(きゅう)有るも良工(りょうこう)()てず』の逸話は、「孔叢子(くぞうし)・居衛」「資治通鑑(しじつがん)・周紀一」などに収録されている。その内容は、ほぼ本編で張良が語った通りである。
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