龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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五十八の下 韓信大失態

 

 

 老儒者(じゅしゃ)酈生(れきせい)が提案した計略を、軍師張良は、9つの理由をあげて酷評(こくひょう)した。

 それを恥じた酈生(れきせい)は、劉邦の前に顔を出さなくなってしまった。

 

 張良は後悔した。

「しまった……あれは酈生(れきせい)の提案した計略だったのか。

 そうと知っていれば、あれほど手酷(てひど)くは批判しなかったものを」

 

 そこで張良は、酈生(れきせい)の家を(たず)ねていった。

酈生(れきせい)、先日は失礼をいたしました。

 あの計略が先生の提案なさったものとは知らず、この張良、ただ国家のためを思って、(はばか)りもなく私見を開陳(かいちん)してしまったのです。

 先生、どうか私を嫌わないでくださいませ。

 

 ただ、物事を論じるときには、まず時勢(じせい)の強弱をよく観察せねばなりません。

 これまでに、漢は()の半分を奪い取りました。

 しかし、項羽は将兵ともに(さか)んで、今なお強力です。

 六国の王を(ほう)じて自立させることなど、できましょうか?

 

 確かに先生の(おっしゃ)るとおり、漢王様には成湯(せいとう)や武王と同じ徳がございます。

 しかし、まだまだ異なる点もある……それを先生は見落としていらっしゃったのです」

 

 酈生(れきせい)は、すっかり気落ちしきっていた顔に、どうにか笑みを浮かべた。

「いや、嫌うなど、とんでもない……

 なにもかも張良先生の(おっしゃ)るとおりです。(つつし)んで貴公の教えを(うけたまわ)ります」

 

 こうして、張良と酈生(れきせい)は、また元通りの関係に戻ることができたのだった。

 

 

   *

 

 

 その数日後。

 今度は酈生(れきせい)が張良を(たず)ねた。

「張良先生、聞いてくだされ。ちと面白い情報を手に入れました。

 項羽は、滎陽(けいよう)城を占領しましたが、敖倉(ごうそう)は守りもおかずに放置しておるようなのです」

 

 張良は、目を丸くした。

「ほう、敖倉(ごうそう)ですか」

 

 敖倉(ごうそう)というのは、滎陽(けいよう)の少し北に位置する、一大食糧倉庫群のことである。

 

 かつて(しん)の始皇帝は、中国を統一した後、未来に起こるであろう戦乱に備えて十分な物資を(たくわ)えておくことを計画した。

 そのために敖山(ごうざん)という山に建設されたのが、敖倉(ごうそう)である。

 

 敖倉(ごうそう)はちょうど黄河の分岐点に位置しており、中国各地から水路で運ばれてきた食糧を保管しておく役割を(にな)った。

 ここに()め込まれた食糧は、水路や陸路で、さらに西にある(みやこ)咸陽(かんよう)などへ運ばれていく。

 

 敖倉(ごうそう)には、今も莫大(ばくだい)な食糧が備蓄(びちく)されている。

 敖倉(ごうそう)を占領して、その食糧を手に入れれば、戦況は一気に漢へ(かたむ)くだろう。

 それほどの重要拠点を、項羽は、ろくに守ってもいないというのだ。

 

 酈生(れきせい)が提案する。

「これは滎陽(けいよう)を取り戻す好機ではあるまいか。張良先生は、どう思われますか?」

 

 張良は、うなずいた。

「すばらしい策です。(れき)先生、すぐに漢王様に奏上なさいませ」

 

 

   *

 

 

 酈生(れきせい)は、張良と連れ立って、劉邦に謁見(えっけん)した。

(いにしえ)より、王者は(たみ)を最も大切にし、(たみ)は食糧を最も大切にしてきました。

 しかるに、敖倉(ごうそう)には天下の食糧が運輸され、貯蔵されること極めて多量でございます。

 

 ところが項羽は、滎陽(けいよう)を占領したにもかかわらず、すぐ近くにある敖倉(ごうそう)は、ほとんど守りも置かずに放置しております。

 しかも今、項羽は(おも)だった将兵を引き連れて、東方に移動してしまいました。

 

 これは天の助けでございます。

 漢王様、すぐに軍を進めて、再び滎陽(けいよう)を取り戻し、敖倉(ごうそう)の食糧を回収してくださいませ。

 

 そのうえで、要害(ようがい)成皋(せいこう)に立てこもり、太公山脈を貫く山越えの道、太行陘(たいこうけい)蜚狐陘(ひこけい)を封鎖し、黄河沿岸にある白馬(はくば)の港を守るのです。

 こうして交通の要衝(ようしょう)を押さえ、諸侯の動きを制すれば、天下を手にすることができましょう」

 

 劉邦は、少し考えてから、張良に顔を向けた。

「張良先生、どう思う?」

 

 張良が微笑(ほほえ)む。

「はなはだ確論(根拠のあるしっかりした論)と思います。

 すぐに軍を動かしなさいませ」

 

 劉邦は喜んだ。

「よしっ! そんじゃ、いっちょやるか!」

 

 かくして、劉邦は即時に全軍を整え、滎陽(けいよう)へ向けて出発したのだった。

 

 

   *

 

 

 さて、そのころ。

 漢の大将王陵は、()(みやこ)彭城(ほうじょう)に対し、10日あまりに渡って攻撃を続けていた。

 

 そんなある日。

 王陵のもとへ、こんな報告が飛び込んできた。

「覇王項羽が、成皋(せいこう)攻めを中断して、彭城(ほうじょう)に引き返してきました」

 

 もともと、王陵が彭城(ほうじょう)を攻めたのは、()軍の後方を撹乱(かくらん)し、項羽を成皋(せいこう)から引き離すためだった。

 その目的を達した今、彭城(ほうじょう)に留まっている理由はなくなった。

 

 王陵は、すぐに軍を撤収させ、北の間道を通って、ひそかに滎陽(けいよう)方面へと戻っていった。

 

 

   *

 

 

 そうとは知らない項羽は、本拠地彭城(ほうじょう)を救援するため、()を日に継いで帰ってきた。

 しかし、彭城(ほうじょう)に到着してみれば、王陵はすでに撤退してしまった後。

 

 いささか釈然(しゃくぜん)としないものはあるが、彭城(ほうじょう)が無事であったことは喜ばしい。

 項羽は城内に入って一族を安心させ、滎陽(けいよう)攻撃や彭城(ほうじょう)防衛で疲れた将兵を(ねぎら)うために酒宴(しゅえん)を開いた。

 

 ところが、その(うたげ)最中(さなか)、またしても項羽をイラだたせる報告が飛び込んできた。

「漢の大将彭越(ほうえつ)が、(りょう)国の17城を攻め落とし、外黄(がいこう)に駐屯いたしました!

 

 外黄(がいこう)の住民は彭越(ほうえつ)の支配下にあり、付近の郡県も先を争って彭越(ほうえつ)に投降しております。

 (りょう)国の混乱は、並々ならない規模に拡大しております!」

 

 項羽は激怒した。

「クソッ、また彭越(ほうえつ)か!

 このあいだも、もう少しで劉邦を倒せるところだったのに、あいつが糧道(りょうどう)(ふさ)いだせいで、引き返すハメになったんだ!

 俺はそのことを痛いくらいに(うら)んでいたが、彭越(ほうえつ)の野郎、今度は梁《りょう》をメチャクチャにしやがった。

 

 それにしても腹が立つのは、外黄(がいこう)の連中だ!

 城を守りもせず、簡単に降伏しやがって!

 

 劉邦の手下の紀信、周苛(しゅうか)樅公(しょうこう)は、あんなに固く義を貫いて城を守り、不屈の精神で、自分の死さえ受け入れていたのに!

 あんなふうに節度を守る忠義の大将が、どうして俺のところには1人もいないんだ!

 

 すぐに軍を向けて、外黄(がいこう)を取り戻すぞ!

 そして、外黄(がいこう)の人間は大将も住民も1人残らず(ほふ)り殺して、この(うら)みを(そそ)いでやるっ!」

 

 これを聞くと、項羽の叔父の項伯や、大将の鍾離昧(しょうりまい)などは、慌てて(いさ)めた。

彭越(ほうえつ)などは、一介(いっかい)の武勇の将に過ぎません。どうして大きな仕事を為しとげることなど、できましょうか。

 

 陛下は、長期の遠征(えんせい)から戻られたばかりで、その聖なるお体に疲労を抱えておられるでしょう。

 陛下は、しばらく休息して気力を養われるのが、ようございます。

 

 ここは、龍沮(りゅうしょ)(めい)じて、陛下の代わりに彭越(ほうえつ)討伐(とうばつ)させなさいませ」

 

 だが項羽は、この諌言(かんげん)を一蹴した。

「いいや!

 彭越(ほうえつ)(りょう)を乱しているってだけじゃない。

 英布は漢に味方して反乱し、韓信は(せい)を攻めて危機に(おちい)らせている。

 (せい)王の田広(でんこう)は、(くし)の歯を()くように次々と救援を求める早馬を送ってきているんだ。

 

 龍沮(りゅうしょ)は、(せい)の救援に向かわせる!

 彭越(ほうえつ)を滅ぼすのは俺の仕事だ!」

 

 かくして項羽は、翌日、三軍を(ひき)いて(りょう)国へと進発していったのだった。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

■次回予告■

 

 怒りに燃えて軍を進める覇王項羽。一転して危機に(おちい)った彭越(ほうえつ)は、三十六計逃げるに()かずとばかりに逃走を決断する。

 だが気にかかるのは外黄(がいこう)(たみ)。覇王が城に入ってくれば皆殺しは避けられぬ。人々が不安に駆られる中、年端も行かぬ少年が名乗りを上げた。今はまだ何の力もない1人の子供。彼の勇気と正義の心が、暴走する覇王に立ち向かう。

 

 次回「龍虎戦記」第五十九回

 『外黄の童子、覇王に説く』

 

 ()う、ご期待!

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