老儒者酈生が提案した計略を、軍師張良は、9つの理由をあげて酷評した。
それを恥じた酈生は、劉邦の前に顔を出さなくなってしまった。
張良は後悔した。
「しまった……あれは酈生の提案した計略だったのか。
そうと知っていれば、あれほど手酷くは批判しなかったものを」
そこで張良は、酈生の家を訪ねていった。
「酈生、先日は失礼をいたしました。
あの計略が先生の提案なさったものとは知らず、この張良、ただ国家のためを思って、憚りもなく私見を開陳してしまったのです。
先生、どうか私を嫌わないでくださいませ。
ただ、物事を論じるときには、まず時勢の強弱をよく観察せねばなりません。
これまでに、漢は楚の半分を奪い取りました。
しかし、項羽は将兵ともに盛んで、今なお強力です。
六国の王を封じて自立させることなど、できましょうか?
確かに先生の仰るとおり、漢王様には成湯や武王と同じ徳がございます。
しかし、まだまだ異なる点もある……それを先生は見落としていらっしゃったのです」
酈生は、すっかり気落ちしきっていた顔に、どうにか笑みを浮かべた。
「いや、嫌うなど、とんでもない……
なにもかも張良先生の仰るとおりです。謹んで貴公の教えを承ります」
こうして、張良と酈生は、また元通りの関係に戻ることができたのだった。
*
その数日後。
今度は酈生が張良を訪ねた。
「張良先生、聞いてくだされ。ちと面白い情報を手に入れました。
項羽は、滎陽城を占領しましたが、敖倉は守りもおかずに放置しておるようなのです」
張良は、目を丸くした。
「ほう、敖倉ですか」
敖倉というのは、滎陽の少し北に位置する、一大食糧倉庫群のことである。
かつて秦の始皇帝は、中国を統一した後、未来に起こるであろう戦乱に備えて十分な物資を貯えておくことを計画した。
そのために敖山という山に建設されたのが、敖倉である。
敖倉はちょうど黄河の分岐点に位置しており、中国各地から水路で運ばれてきた食糧を保管しておく役割を担った。
ここに貯め込まれた食糧は、水路や陸路で、さらに西にある都咸陽などへ運ばれていく。
敖倉には、今も莫大な食糧が備蓄されている。
敖倉を占領して、その食糧を手に入れれば、戦況は一気に漢へ傾くだろう。
それほどの重要拠点を、項羽は、ろくに守ってもいないというのだ。
酈生が提案する。
「これは滎陽を取り戻す好機ではあるまいか。張良先生は、どう思われますか?」
張良は、うなずいた。
「すばらしい策です。酈先生、すぐに漢王様に奏上なさいませ」
*
酈生は、張良と連れ立って、劉邦に謁見した。
「古より、王者は民を最も大切にし、民は食糧を最も大切にしてきました。
しかるに、敖倉には天下の食糧が運輸され、貯蔵されること極めて多量でございます。
ところが項羽は、滎陽を占領したにもかかわらず、すぐ近くにある敖倉は、ほとんど守りも置かずに放置しております。
しかも今、項羽は主だった将兵を引き連れて、東方に移動してしまいました。
これは天の助けでございます。
漢王様、すぐに軍を進めて、再び滎陽を取り戻し、敖倉の食糧を回収してくださいませ。
そのうえで、要害の成皋に立てこもり、太公山脈を貫く山越えの道、太行陘・蜚狐陘を封鎖し、黄河沿岸にある白馬の港を守るのです。
こうして交通の要衝を押さえ、諸侯の動きを制すれば、天下を手にすることができましょう」
劉邦は、少し考えてから、張良に顔を向けた。
「張良先生、どう思う?」
張良が微笑む。
「はなはだ確論(根拠のあるしっかりした論)と思います。
すぐに軍を動かしなさいませ」
劉邦は喜んだ。
「よしっ! そんじゃ、いっちょやるか!」
かくして、劉邦は即時に全軍を整え、滎陽へ向けて出発したのだった。
*
さて、そのころ。
漢の大将王陵は、楚の都彭城に対し、10日あまりに渡って攻撃を続けていた。
そんなある日。
王陵のもとへ、こんな報告が飛び込んできた。
「覇王項羽が、成皋攻めを中断して、彭城に引き返してきました」
もともと、王陵が彭城を攻めたのは、楚軍の後方を撹乱し、項羽を成皋から引き離すためだった。
その目的を達した今、彭城に留まっている理由はなくなった。
王陵は、すぐに軍を撤収させ、北の間道を通って、ひそかに滎陽方面へと戻っていった。
*
そうとは知らない項羽は、本拠地彭城を救援するため、夜を日に継いで帰ってきた。
しかし、彭城に到着してみれば、王陵はすでに撤退してしまった後。
いささか釈然としないものはあるが、彭城が無事であったことは喜ばしい。
項羽は城内に入って一族を安心させ、滎陽攻撃や彭城防衛で疲れた将兵を労うために酒宴を開いた。
ところが、その宴の最中、またしても項羽をイラだたせる報告が飛び込んできた。
「漢の大将彭越が、梁国の17城を攻め落とし、外黄に駐屯いたしました!
外黄の住民は彭越の支配下にあり、付近の郡県も先を争って彭越に投降しております。
梁国の混乱は、並々ならない規模に拡大しております!」
項羽は激怒した。
「クソッ、また彭越か!
このあいだも、もう少しで劉邦を倒せるところだったのに、あいつが糧道を塞いだせいで、引き返すハメになったんだ!
俺はそのことを痛いくらいに恨んでいたが、彭越の野郎、今度は梁《りょう》をメチャクチャにしやがった。
それにしても腹が立つのは、外黄の連中だ!
城を守りもせず、簡単に降伏しやがって!
劉邦の手下の紀信、周苛、樅公は、あんなに固く義を貫いて城を守り、不屈の精神で、自分の死さえ受け入れていたのに!
あんなふうに節度を守る忠義の大将が、どうして俺のところには1人もいないんだ!
すぐに軍を向けて、外黄を取り戻すぞ!
そして、外黄の人間は大将も住民も1人残らず屠り殺して、この恨みを雪いでやるっ!」
これを聞くと、項羽の叔父の項伯や、大将の鍾離昧などは、慌てて諌めた。
「彭越などは、一介の武勇の将に過ぎません。どうして大きな仕事を為しとげることなど、できましょうか。
陛下は、長期の遠征から戻られたばかりで、その聖なるお体に疲労を抱えておられるでしょう。
陛下は、しばらく休息して気力を養われるのが、ようございます。
ここは、龍沮に命じて、陛下の代わりに彭越を討伐させなさいませ」
だが項羽は、この諌言を一蹴した。
「いいや!
彭越が梁を乱しているってだけじゃない。
英布は漢に味方して反乱し、韓信は斉を攻めて危機に陥らせている。
斉王の田広は、櫛の歯を挽くように次々と救援を求める早馬を送ってきているんだ。
龍沮は、斉の救援に向かわせる!
彭越を滅ぼすのは俺の仕事だ!」
かくして項羽は、翌日、三軍を率いて梁国へと進発していったのだった。
(つづく)
■次回予告■
怒りに燃えて軍を進める覇王項羽。一転して危機に陥った彭越は、三十六計逃げるに如かずとばかりに逃走を決断する。
だが気にかかるのは外黄の民。覇王が城に入ってくれば皆殺しは避けられぬ。人々が不安に駆られる中、年端も行かぬ少年が名乗りを上げた。今はまだ何の力もない1人の子供。彼の勇気と正義の心が、暴走する覇王に立ち向かう。
次回「龍虎戦記」第五十九回
『外黄の童子、覇王に説く』
乞う、ご期待!