項梁は、もともと騒がしい性格である。
なかなか城が落とせないことに苛立って、陣内でしきりに怒声を発するようになった。
これを諌めた者が一人いる。
執戟郎の韓信である。
漂母から食べ物を恵んでもらったり、ならず者の股の下をくぐったり、と、格好のつかない逸話がいくつもある韓信だが、意外にも、総大将に諌言する姿は毅然としたものだった。
「我が大軍が城の前に陣を敷いてから、かなりの時間が経ちました。
おそらく秦軍は、こちらの気が緩んだ隙を見て、ひそかに夜襲を仕掛けてくるでしょう。
しっかりと用心しておかねば、秦軍を討つどころか、かえってこちらが災いに遭います。
今は城攻めの頻度を減らし、そのぶん敵を防ぐ準備に注力するべきです。
将軍、よくご検討ください」
これに項梁は激怒した。
「わしは会稽で挙兵してから向かうところ敵無しだった! たかがこれしきの小城を攻め落とすのに、難しいことがあるものか!
章邯は数回の戦いで人馬の大半を討ち取られて、わしの名を聞いただけでも肝を冷やし気絶するほどに怖がっている。どうして城を出て我が陣を攻撃してくるようなことがあろうか。
貴様のような役に立たぬ下っ端が、理由もなく計略に口を挟んで人の心を惑わしおって! さっさと出ていけ!」
と痛罵して、韓信を陣屋から追い出してしまった。
これを見ていた卿子冠軍の宋義が、あわてて諌めた。
「戦いに勝って将が驕り、兵がだらけた軍は必ず敗れます。
まさに今、味方の軍勢は滞陣が長びいたために気が緩み、だらけはじめております。
一方、秦の兵は、敵に囲まれて城中に籠ってはいますが、その分、人馬の英気を養ってもいます。
特に章邯は秦の名将。巧みに兵を動かす男です。
韓信の進言は一理あります。どうかお捨てなさいますな」
ところが、項梁は部下の意見に耳を貸すどころか、ますます頑なになってしまった。
「章邯ふぜいに、大した仕事ができるものか」
などと放言して、当てつけのように酒を飲み、楽しみはじめたのである。
総大将のこういう姿を見れば、手下の兵も怠けだす。みな心が荒み、敵襲への用心さえ、ろくにやらなくなっていった。
*
これすべて章邯が仕掛けた罠であった。
緩兵の計――城に籠ってじっと耐えながら、敵の心が驕り緩むのを待っていたのだ。
「頃合いだな」
と判断した章邯は、ある夜、精兵を選りすぐって集合させた。
兵たちの口には枚を噛ませた。
枚とは、細く短い木の棒のこと。これを噛んでおくことで、うっかり声をあげてしまう事故を防ぐのだ。
馬や牛に噛ませて嘶きを抑えるのにも使うが、兵がそれを噛むのは……無論、音もなく忍び寄って奇襲をしかけるためである。
章邯の奇襲部隊は、二手に分かれて忍びやかに城を抜け出した。
足早に近づき、物陰から楚の陣を窺い見れば、燃え尽きかけた篝火は光も乏しく、将も兵も眠り込んでしまって出歩く人影ひとつない。
奇襲部隊は、
「いくぞ!」
と合図の鉄砲を炸裂させ、銅鑼と鼓を乱打しながら、一斉に楚陣へ突入した。
これに驚いたのは楚軍である。
陣中は闇雲に駆け回る者たちでごった返して、槍はどこだ、刀はどこだと、上へ下への大騒ぎになった。
肝心の総大将項梁はといえば、泥酔し、ろくに立つことさえできないありさま。
周囲の者たちが助け起こして、どうにか轅門(陣屋の門)まで出てきたものの、馬に乗るのにもモタついている。
そこへ、秦の大将の孫勝という者が迫り寄った。
「あっ……!?」
と声をあげる間すらなく、項梁は一刀のもとに斬り殺されてしまった。
そうとは知らぬ宋義、英布ら楚の大将は、大混乱の中を駆け回り、必死に声をからした。
「敵は小勢だ! 騒ぐんじゃない!」
だが、大軍であればこそ、一度秩序が失われたら取り返しがつかない。
味方同士で転んで踏まれ、踏んでは転び、右往左往するばかりで討たれた者の数も分からず、ついに態勢を立て直せぬまま、楚兵は陣屋を捨てて我先にと逃げだした。
その背に秦兵は襲いかかり、勝ちの勢いに乗って殺しまくった。
そして……夜が明けた。
この一戦は秦の逆転勝利で幕を下ろした。
大戦果をあげた章邯は、より堅固な拠点を求めて定陶を出、外黄を経由して陳留に至り、そこで改めて陣を敷いた。
かくして秦軍は、これまで以上に勢いづいてしまったのだった。
*
項梁敗れる!
その一報を聞いた沛公劉邦は、大急ぎで救援に向かった。
だが、時すでに遅し。
楚の敗軍は散り散りになってしまっていて、もう、どこへ行ったかも分からない。
劉邦の力では、いまさらどうすることもできなかった。
逃げ落ちてきた宋義らとどうにか合流した劉邦は、ひとまず、項羽の待つ雍丘へと退いた。
項羽に対面し、武信君項梁が討たれたことを告げると……
項羽は、悲痛に慟哭して、地に崩れ落ちた。
「ガキの頃に父を亡くした俺は、叔父に養ってもらったから人間になれたんだ。兵法を習って、天下の大義のために働こうと思い立ち、まだ何もなしとげていないってのに、こんな道の途中でお別れだなんて……
俺の心は砕けてしまった! 俺は、俺はこれからどうすればいいんだよ!」
飾らず衒わぬ素直な吐露が、時として、どんな美麗な詩文よりも深く強く胸を打つ。
血気盛んな青年の、ひたすらまっすぐな思慕の情に、その場の誰もが涙した。
そこへ、進み出たのは范増だった。
「国のために我が身を捨てるのは、臣下の大いなる道に殉じる立派な行いだ。
武信君の命数はここまでであった……とはいっても、楚の大業はすでに成っておる。
項羽将軍。武信君の志を、君が継ぐのだ!
天下から集まり付き従う者はすでに50万以上。この大軍を導き、秦を滅ぼし楚を復興し、やがて武信君を追封(死者に名誉の爵位を贈ること)して廟を立て、その霊を手厚く祀ったならば、その時こそ君の大業は完成する。
ほら、どうして女子供のように泣き悲しんでおられる? 立つのだよ、項羽将軍」
項羽は、拳を握り固め、涙を拭いて立ちあがった。
「ありがとう、先生。俺は……先生の教えに従います!」
項羽は兵を引きつれて定陶に向かった。
そこでしばし、宋義、沛公劉邦とともに駐屯し、武信君項梁の亡骸を葬った。
そして、進軍を開始した。
章邯の待つ陳留へ向かって。
項羽の目は、炎のように燃えていた。
(つづく)
■次回予告■
叔父の仇討ちに意気燃やす項羽は、章邯を追って趙へと向かう。
だが大将軍に任命された宋義が、不穏な動きを見せはじめる。無意味としか思えぬ長滞陣。刻々迫る趙の滅亡。着々と進行する陰謀に対して、青年項羽の下した決断とは?
次回「龍虎戦記」第八回
『大将軍項羽』
乞う、ご期待!