龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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六十の甲 酈生の最期

 

 

 項羽と劉邦が、中国中央部で一進一退の攻防を続けていた頃……

 

 北部においては、大元帥韓信が趙(ちょう)に兵を駐屯させ、斉(せい)国攻略を睨(にら)んで静かに戦備を整えていた。

 

 本来であれば、もう、とっくに斉(せい)へ進発しているはずの時期である。

 ここまで斉(せい)侵攻を遅らせていたのは、中国中央部の情勢が安定していなかったためだ。

 

 項羽が大軍を率(ひき)いて滎陽(けいよう)・成皋(せいこう)へ接近したことを受け、韓信は、万一の時に劉邦救援に向かえるよう、軍を待機させていたのである。

 

 一方、斉(せい)国の方は、間近(まぢか)で不気味に沈黙し続ける韓信に、大きな圧力を感じていた。

 韓信が、すぐにも大軍で攻めてくる……そんな噂が斉(せい)に広がる。

 噂は、斉(せい)王田広(でんこう)の耳にも届いた。

 

 斉(せい)王田広(でんこう)は、まだかなり若い。

 正確な年齢は記録されていないが、おそらくは二十代。ひょっとすると二十歳(はたち)にも満たないかもしれない。そのくらいの年頃だ。

 この若き斉(せい)王が、稀代(きたい)の戦上手(いくさじょうず)と名高い韓信の圧迫を受けて、猛烈な不安に駆られていたのも、無理のない話である。

 

 王の不安は、斉(せい)の民(たみ)も伝わっていく。

 今、斉国(せいこく)中(じゅう)に、ななめならぬ動揺が広がりつつあった。

 

 

   *

 

 

 そうした斉(せい)国内の状況は、遠く滎陽(けいよう)にいる酈生(れきせい)(酈食其(れきいき))の元にも伝わっていた。

 

 酈生(れきせい)は考えた。

「斉(せい)王は、これほど驚き恐れている……

 となれば、今、私が行って利害を説(と)けば、斉(せい)を降伏させられるのではないか?

 

 斉(せい)は70以上の城を持つ大国だ。

 その斉(せい)を、軍を動かさずに降伏させられたなら、私の功績は、小さからぬものになるぞ」

 

 そこで酈生(れきせい)は、劉邦に謁見(えっけん)して言った。

「燕(えん)と趙(ちょう)は平定できましたが、斉(せい)は、いまだに服従しておりません。

 

 斉(せい)王の田(でん)氏一族は強大ですし、そこに項羽が外から支援もしております。

 こちらが数万の軍勢を派遣しても、破るには、かなりの年月を要するでしょう。

 

 そこで……

 漢王様のお許しをいただけるなら、臣が斉(せい)に行き、この3寸の舌を動かして利害を説(と)き、斉(せい)王を漢に降伏させてきましょう。

 

 これいわゆる『弓矢を張ることを労せずして、よく人の兵を屈する』……

 弓の弦を張る苦労もなしに、よその軍隊を屈服させる、というやつです。

 これこそ、数ある謀(はかりごと)の中でも、上等のものと言えるのではありますまいか」

 

 劉邦は、深く喜んだ。

「斉(せい)を口説(くど)いて漢に帰服させられたなら、漢も斉(せい)も戦禍(せんか)を免(まぬが)れることができる。

 一国の人民すべてが幸福になるし、100代先まで受け継がれる利益をもたらすぞ。

 

 幸(さいわ)い、まだ韓信は軍を動かしていない。

 今のうちに早く行って、斉(せい)を説得してきてくれ」

 

 

   *

 

 

 酈生(れきせい)は、ただちに従者を連れて滎陽(けいよう)を出発し、斉(せい)の国にやってきた。

 

 酈生(れきせい)は、斉(せい)の王宮に来ると、門番に告(つ)げた。

「漢の使者酈食其(れきいき)、利害を説(と)いて一国の生命を救うために参った。

 斉(せい)王に謁見(えっけん)を求める」

 

 門番は、酈生(れきせい)の到来を斉(せい)王に報告した。

 

 斉(せい)王は、

「酈食其(れきいき)か……よし、会ってみよう」

 と、酈生(れきせい)を宮殿に招き入れた。

 

 ところが、ここで酈生(れきせい)は、思いもよらぬ行動にでた。

 宮殿の門の中央を通って中に入り、ゆったりとした堂々たる歩みで斉(せい)王の前に姿を現したのである。

 

 これを見た斉(せい)王は激怒した。

「貴様ッ!

 なんと甚(はなは)だしい無礼だ!」

 

 斉(せい)王が突然怒りはじめたのには、理由がある。

 実は、酈生(れきせい)がとった行動は、当時の中国における礼儀作法を完全に無視した、傍若無人のふるまいだったのだ。

 

 さきほど酈生(れきせい)は、宮殿の門の中央を通過した。

 しかし、伝統的な礼儀作法では、門の中央を通ってよいのは君主のみ。

 客人は、門の隅(すみ)を通過し、閾(しきい)も踏まないようにするのが常識とされている。

 

 さらに酈生(れきせい)は、堂々とした態度でゆっくり歩いて斉(せい)王の前に出た。

 本来、王や皇帝の前では、臣下や客人は趨(すう)をせねばならない。

 趨(すう)とは、小さな歩幅で、チョコチョコと小走りに進むことを言う。この歩み方が、相手への敬意を示す動作なのだ。

 

 酈生(れきせい)は儒者(じゅしゃ)、つまり礼儀作法の専門家である。

 その酈生(れきせい)が、こうした基本的な作法を知らないはずがない。

 

 つまり、酈生(れきせい)は何もかも分かったうえで、わざと作法を無視しているのだ。

 これはもう、斉(せい)王に対して「お前を王とは認めない」と宣言しているに等しい。

 斉(せい)王が激怒したのも、当然のことであった。

 

 斉(せい)王は、酈生(れきせい)に向かって怒鳴(どな)りつけた。

「いやしくも一国の王たる余に向かい、対等の作法で応じるとは何事(なにごと)か!

 我が斉(せい)には1尺・1寸ほどの兵も無い、とでも思っているのか!?」

 

 しかし酈生(れきせい)は、涼しい顔で語りはじめた。

「我が主(あるじ)漢王は、武装した軍勢100万人を擁(よう)し、武威を内外に振るっておられます。

 また、大元帥韓信は、大軍を趙(ちょう)に駐屯させて、蓆(むしろ)を巻き取るかのように各国を平定しておるところです。

 

 今や斉(せい)の民(たみ)は、あたかも釜(かま)の中で泳ぎ遊ぶ魚の如し。明日にも今夜にも滅ぼされかねない危機的状況にあります。

 いや、民(たみ)のみではない。

 斉(せい)王様ご自身もまた、長く王位を保つことは、できますまい。

 

 私がここに来たのは、まず第1に、万民の命(いのち)を救うため。

 そして第2に、斉(せい)王様が貴(とうと)い王位を失わずに済むようにするためです。

 

 すなわち、これは斉(せい)国の盟主たるべき上国(じょうこく)、漢から与えられた使命。

 こちらから斉(せい)王様に何かを求めに来たのではありません。

 となれば、屈従(くつじゅう)の礼をとってまで謁見(えっけん)を求める必要がありましょうか?

 

 斉(せい)王様が、別に斉(せい)国を保たなくてもよいとお考えなら、どうぞ、すみやかに私を殺して、正しい礼儀のありかたを世に示しなされ。

 しかし、もし人民を救って永(なが)く社稷(しゃしょく)を保ちたいなら、私の言葉に従う以外の道はありません」

 

 斉(せい)王が言う。

「我が斉(せい)国は広さ数千里。

 西に魏(ぎ)・趙(ちょう)があり、東は海に接し、南は楚(そ)や淮水(わいすい)地方の勢力に隔(へだ)てられ、北は燕(えん)国境の軍を鎮圧(ちんあつ)している。

 

 国は富(と)み、兵は強く、文臣は内を治め、武将は外を制して、余は座りながら安心して戦(いくさ)の勝敗を眺(なが)めていられる立場だ。

 その余が、明日にも今夜にも危機に陥(おちい)るとは、どういうことだ?」

 

 酈生(れきせい)は、あきれたように嘆(なげ)いてみせた。

「斉(せい)王様、どうして私を騙(だま)そうとなさるのです?

 斉(せい)王様と覇王項羽を比べたら、どちらが武勇で優(まさ)っていると思われますか。

 

 その項羽ですら、せっかく手に入れた関中を守りきることができませんでした。

 項羽は漢に対抗できず、周辺の5国は次々と楚(そ)に背(そむ)いてしまい、結局、項羽は関中全域を失うハメになりました。

 

 斉(せい)は、わずかに千里の土地を保持しているのみ。

 項羽よりはるかに小さな領土しか持たぬ斉(せい)が、漢の侵攻を防げるというのですか?

 これが大いなる誤(あやま)りでなくて、なんだというのです?」

 

 斉(せい)王は、沈黙してしまった。

 斉(せい)国が危(あや)うい状況に置かれていることは、言われるまでもなく、斉(せい)王自身が一番よく知っている。

 その苦悩を、酈生(れきせい)は痛いほど的確に突いてきたのだった。

 

 

(つづく)




●注釈
 酈生(れきせい)が破った2つの礼儀作法の出典を紹介する。
 『門の中央を通過してはならない』という作法は、「礼記(らいき)・玉藻(ぎょくそう)」に記述がある。「礼記(らいき)」は儒教の最も基本的な経典の一つで、礼儀作法に関する多種多様な文書を集積したものである。極めて詳細で複雑怪奇な礼儀作法の具体例が『このようなときは、こうせよ』というような形式で無数に羅列されており、その一節に以下のような内容がある。
『賓客が入る時は門の中央を通らず、閾(しきい)も踏まない。公的な用事ならば闑(げつ)(門の中央に立てた棒)よりも西側から入り、私的な用事ならば闑(げつ)の東側から入る』
 このように、門の中央を通ってはならないことが明記されている。
 もうひとつの、小さな歩幅でチョコチョコと小走りに進む趨(すう)という歩き方については、それが王の前での作法だとする直接的な記述は、同時代の書籍には見当たらない。ただ、「史記・蕭(しょう)相国(しょうこく)世家」には、以下のようなエピソードが収録されている。
 楚漢戦争が終結した後、その論功行賞において、蕭何(しょうか)は功績第一とされた。そのため蕭何(しょうか)は、『帯剣(たいけん)履(り)上殿(じょうでん)』と『入朝(にゅうちょう)不趨(ふすう)』の特権を賜(たまわ)った。
 『帯剣(たいけん)履(り)上殿(じょうでん)』とは、剣を帯(お)び靴を履(は)いたまま宮殿に上がってよい、ということ。そして『入朝(にゅうちょう)不趨(ふすう)』とは、朝廷に入るときに趨(すう)をしなくてよい、ということである。
 『入朝(にゅうちょう)不趨(ふすう)』が特別に認められたという事実から、逆に、通常ならば趨(すう)をしなければならないのだ、という背景が読み取れる。
 この『帯剣(たいけん)履(り)上殿(じょうでん)(剣(けん)履(り)上殿(じょうでん))』と『入朝(にゅうちょう)不趨(ふすう)』は、後世、功績の大きな臣に対してしばしば与えられるようになった。たとえば「三国志」で有名な曹操や司馬懿(しばい)も、これらの特権を皇帝から与えられている。
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