龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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六十の乙 酈生の最期

 

 

 酈生(れきせい)は、わざと無礼なふるまいをして(せい)王を挑発したうえで、(せい)王が抱えていた不安を、見事に指摘してみせた。

 いつ韓信が攻めてくるか分からない……この緊迫した状況で、一体どう動くべきか。(せい)王は苦悩し続けていたのである。

 

 そんな(せい)王の胸中を見透(みす)かしたかのように、酈生(れきせい)は優しく微笑(ほほえ)んだ。

 

(せい)王様、どうか御心(みこころ)を苦しめなさいますな。

 こういう時は、まず天下の流れを観察し、その後に、どの勢力が(おこ)るか、あるいは滅びるかを予測するのが大切です。

 (せい)王様は、これから天下がどう流れるかを知っておられますか?」

 

 (せい)王は、首を横に振った。

「知らぬ」

 

 酈生(れきせい)が言う。

「なるほど。天下の流れを御存知(ごぞんじ)ないのであれば、私のことを無礼者と(おっしゃ)ったのも当然の(ことわり)でございますね。

 

 今、天下の趨勢(すうせい)を論ずるならば、まず()は強いように見えるが、その実は弱い。

 漢は弱いように見えるが、その実は強い。

 

 現在の国境を見れば、漢はすでに天下の7割から8割を得ていて、()は、わずかに2割か3割を()めるのみでございます。

 にもかかわらず、項羽は、いまだに残虐・暴虐の行いをほしいままにしていて、徳を修めるということを知りません。

 

 一方、漢王劉邦は、義帝のために()を発し、義帝を追悼(ついとう)するために縞素(こうそ)(白い喪服(もふく))を身に着け、仁義の兵を起こしました。

 天下に恩を(ほどこ)しているため、どこへ行っても、服従しない者はおりません。

 その判断の明らかなることは太陽や月に等しく、その徳の豊かなことは(いにしえ)堯帝(ぎょうてい)舜帝(しゅんてい)と同等です。

 

 さらに今、敖倉(ごうそう)の莫大な穀物を手に入れて兵糧(ひょうろう)は万全。

 成皋(せいこう)の険しい道を(ふさ)ぎ、蜚狐陘(ひこけい)を遮断し、太行陘(たいこうけい)を閉ざし、白馬の港を守り、諸侯の動きを完全に制御しております。

 

 そのうえで人民を安心させる政策を行いながら、虎のように眼光(がんこう)鋭く天下取りの時を狙っているのです。

 

 以上のことを考えれば、天下を取るのは、まさしく漢であって、決して()ではないと私は予想します。

 

 もし(せい)王様が今すぐに(ほこ)を倒し、(かぶと)を下ろし、城を開いて投降なされば、(せい)国すべての人民が塗炭(とたん)の苦しみから(まぬが)れます。

 これこそ1万代先の未来にまで繋がる遠大な策というものでしょう。

 

 私がここに来たのは、漢のためにあらず。

 もっぱら(せい)のためです。

 (せい)王様、このことを、つらつらとお考えくださいませ」

 

 (せい)王は、酈生(れきせい)の話を聞き終えると、心から感服して、席を立ち、謝罪した。

「なるほど、よく分かった。

 先生が来たのは、本当に(せい)国のためだったのだな。

 

 余の目が(くも)っていたために、先生の行いを無礼だと言ってしまった。

 この罪を許してくだされば(さいわ)いだ。

 先生の教えに従い、今から漢に帰服しようと思うが、どうすればよいか?」

 

 酈生(れきせい)が言う。

「それならば、まず降伏の表文を(したた)め、使者を送って漢王様に意志を伝えなさいませ。

 

 私は、しばらく(せい)滞留(たいりゅう)しておきましょう。

 いずれ漢王様が(せい)に来られるでしょうから、そのとき、私が(せい)王様を漢王様の御前(ごぜん)へご案内いたします」

 

 と、そのとき。

 田横(でんおう)という男が、横から話に割り込んできた。

(せい)王様!

 軽々しく行動なさってはいけません!

 

 今、韓信は大軍を(ちょう)に駐屯させています。

 もし韓信が不意に攻めてきたら、どうやって防げばよいというのですか」

 

 この田横(でんおう)は、(せい)田広(でんこう)の叔父にあたる人物である。

 そもそも田広(でんこう)が王位につけたのは田横(でんおう)に立てられたおかげであった。

 その田横(でんおう)は、今、(せい)相国(しょうこく)宰相(さいしょう))の地位にある。

 

 王の叔父であり、擁立(ようりつ)者であり、そして相国(しょうこく)でもある……

 これだけの条件がそろえば、必然的に、(せい)の政治は田横(でんおう)の手で左右されるようになる。

 事実上の(せい)の支配者とさえ呼べるほどの影響力を持つ人物、それが相国(しょうこく)田横(でんおう)なのだ。

 

 その田横(でんおう)が、異議を唱えてきた。

 酈生(れきせい)としては、ここで言い負けてはいられない。

 

 酈生(れきせい)は、即座に言い返した。

「ご心配には及びません。

 私は、私的に(せい)へ来たわけではない。 漢王様のご命令を(ほう)じて来たのです。

 その決定に、韓信が逆らえるはずがありましょうか」

 

 ここで(せい)王が言う。

「道理ではあるが、すぐ近くに軍勢が置かれている現状は、我々としては不安だ。

 そこで(れき)先生、韓信に書簡(しょかん)を送り、兵を後退させてもらえないだろうか?

 そうすれば、これが(せい)(だま)す策ではないと、我らも確信できる」

 

 酈生(れきせい)は、うなずいた。

「なるほど、もっともなことですな。

 では、さっそく韓信に書簡(しょかん)を送りましょう」

 

 というわけで、酈生(れきせい)は、すぐに書簡(しょかん)(したた)め、従者を(せい)の使者と一緒に(ちょう)へ送った。

 

 

   *

 

 

 ところ変わって(ちょう)の国、漢軍の陣。

 

 長期にわたって(ちょう)に駐屯したおかげで、漢軍は兵も馬も気力十分。

 韓信は、いよいよ近日中に(せい)へ攻めかかろうと考え、諸将を集めて軍議を進めていた。

 

 そんなある日。

 韓信の元に、こんな報告が来た。

(れき)大夫(たいふ)の使者が、書簡(しょかん)を送って参りました」

 

酈生(れきせい)から? 何の用だろうか」

 韓信は、帷幕(いばく)の中に、酈生(れきせい)からの使者を呼び入れた。

 

 酈生(れきせい)の使者が言う。

「今、(れき)大夫(たいふ)(せい)に滞在しております。

 漢王様のご命令で(せい)に行き、(せい)王に利害を説いたのです。

 

 その甲斐(かい)あって、(せい)王は、漢に降伏する意思を固めました。

 すでに滎陽(けいよう)の漢王様の元へは、別に使者が送られ、降伏の表文が献上されております。

 

 (せい)にある70以上の城は、ことごとく漢に所属することになりました。

 詳しくは、ここに(れき)大夫(たいふ)からの書簡(しょかん)がございます。

 大元帥、どうぞお読みくださいませ」

 

 韓信は書簡(しょかん)を受けとり、開いてみた。

 その文章に(いわ)く……

 

『漢の大夫(たいふ)酈食其(れきいき)頓首(とんしゅ)して書を韓元帥の麾下(きか)(たてまつ)る。

 

 私は漢王様のご命令を(ほう)じて、(せい)への使者となりました。

 その結果、(せい)は兵器を収め、戦争をやめ、心を漢に(ゆだ)ねて服従し、天命に従って王化(王者の徳で世を良くすること)を受け入れました。

 

 これによって、何の騒動も起こすことなく、(せい)の七十余城を下すことができました。

 三軍は汗を流して戦う苦労を(まぬが)れ、(せい)国の人民の(いのち)も救われます。

 これはすべて、漢王様の聖なる徳と明らかなる知恵、そして韓信大元帥の武威と徳の賜物(たまもの)であります。

 

 ここに書簡(しょかん)をお送りし、以上のことをお伝えいたします。

 このような事情ですから、大元帥は干戈(かんか)(盾と(ほこ))を収め、軍勢を成皋(せいこう)凱旋(がいせん)させて、軍を休養させてくださいませ。

 

 その後で、全軍を()げて()討伐(とうばつ)すれば、六国は影のように漢に従い、天下統一の大業が成しとげられることでしょう。

 さすれば、大元帥の功績は、(かなえ)や祭器に刻まれるに違いありません。

 決して私自身が大きな功績を(むさぼ)ろうとしているわけではないことを、どうかご承知おきください。

 

 食其(いき)、再拝』

 

 韓信は、書簡(しょかん)を読んで大いに喜び、使者に向かって言った。

「さすがは酈生(れきせい)だ。弁舌で(せい)を降伏させるとはな。

 では、私はすぐに軍を撤収させて成皋(せいこう)へ帰り、漢王様と合流して()討伐(とうばつ)しよう。

 

 汝は、(せい)に帰って、いま私が言ったことを(せい)王に奏上せよ。

 そして、『漢の兵が徐州(()(みやこ)彭城(ほうじょう)周辺の地域)に到着したと聞いたら、(せい)からも兵を派遣していただきたい。ともに助け合って()を破りましょう』と(せい)王に申し上げよ」

 

 韓信は、すぐに返書を書いて使者に(あず)けた。

 

 使者は急いで(せい)に帰り、韓信の言ったことを酈生(れきせい)に伝えた。

 酈生(れきせい)は韓信からの返書を読み、その内容を(せい)王にも報告した。

 

 (せい)王は限りなく喜んだ。

 

 それからというもの、(せい)王は、連日酈生(れきせい)を酒に誘うようになった。

 なにしろ、酈生(れきせい)は根っからの酒好きだ。

 (せい)王と酈生(れきせい)は、一緒に一日中酒を飲み、高らかに歌って楽しんだ。

 

 (せい)王は、すっかり安心しきっていた。

 そのため、(いくさ)に対する備えを、まったくしていなかったのである。

 

 

(つづく)

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