韓信は、酈生からの書簡を読んだ後、さっそく副将の張耳を呼んで、成皋へ撤収する段取りの打ち合わせに取りかかった。
ところが、その相談中、誰かが大声をあげて割り込んできた。
「撤収など、不可! 不可!
もし酈生の言葉を聞き入れたら、大元帥の生涯最大の誤りとなりますぞ!
私に、1つ計がございます。
その計によって、手に唾を付けてからめとるように斉の70城を手に入れさせてみせましょう。
その功績は、ことごとく韓信大元帥、あなたのものになるのです!」
そんなことを言うのは、いったい誰だ?
と思って目を向ければ、燕の賢士蒯徹、字文通であった。
蒯徹は、かつて燕王に仕えていた人物である。
しかし、燕王の使者として来た時、韓信という人物に惚れ込んでしまい、みずから願い出て韓信の下で働くようになった。
(第五十四回参照)
あれからしばらくの時間が過ぎたが、蒯徹の情熱は、色あせるどころか、むしろ日に日に高まっていった。
韓信の下で働けば働くほど、韓信の偉大さが見えてくる。
今や蒯徹は、劉邦でもなく、項羽でもなく、韓信こそが中華最大の英雄だ! と信じて疑わぬ、強烈な韓信信奉者になっていたのだった。
その蒯徹に、韓信は怪訝そうな目を向けた。
「蒯徹よ。軍を撤収させるな、とは、一体どういうことか?」
蒯徹が言う。
「大元帥は、数万の軍勢を率い、1年以上の時間をかけて戦いましたが、落とした城は、わずかに趙の50城あまりのみ。
ところが今、一儒者に過ぎない酈生が、3寸の舌を振るい、一篇の言葉のみで斉の70城を下してしまったのです。
大元帥の威徳は、たった1人の儒学小僧にも及ばなかった……
世間は、そう考えるでしょう。
大元帥の面目は丸つぶれになります。
軍を撤収させた後、大元帥は、一体どんな顔をして漢王様の前に出るおつもりですか。
私の愚見では、ここはむしろ、一気に斉に攻め込むべきです。
今なら斉は軍備もしていないでしょう。
この隙に乗じて軍勢を向かわせれば、斉は、積み上げた瓦のように崩壊します」
韓信は、首を横に振った。
「何をバカなことを!
酈生が斉に行ったのは、何も私用で行ったわけではない。漢王様のご命令を奉じてのことだ。
もし兵を挙げて斉に攻め込んだら、私が王の命令に背く形になるではないか。
しかも、斉から見れば、これは裏切りだ。斉にいる酈生が、どんな目に遭わされるか分からないぞ」
蒯徹が言う。
「はたして、そうでしょうか?
漢王様は、はじめは大元帥に『斉を討つべし』と命じなさったのでしょう。
その時、漢王様の意志は固まっていたはずです。
それなのに、どうして今さら酈生を派遣し、斉王の説得などをさせたのです?
これは必定、酈生が大元帥の功績を奪い取ろうと画策し、言葉巧みに漢王様を動かしたのに違いありません。
つまり、これは漢王様の本心ではないのですよ。
それにもかかわらず、大元帥が軍を撤収させたら、どうなりますか?
諸将は、大元帥を無能だとみなすでしょう。
漢王様も、大元帥を軽んじて、儒者を重用するようになるに違いありません。
そうなれば、たとえ楚を破ったとしても、もはや大元帥に光が当たることはありませんぞ。
大元帥! よくお考えください!」
そこへ、副将の張耳も口を挟んだ。
「蒯徹の言うことには、理があると思います。
大元帥は、国外における軍事の権限をすべて任されているはず。必ずしも王命にこだわる必要はないのではありませんか?」
「む……う……」
韓信は、言葉につまった。
もしこの時、劉邦から韓信へ撤退命令が直接出されていたら、韓信は、もちろんそれに従ったに違いない。
だが、韓信の元へ届いていたのは、酈生からの事後報告と撤退要請のみ。形式上は、劉邦からの斉攻略命令が取り消されたわけではない。
つまり韓信は、2つの矛盾した命令の板挟みになってしまったのだ。
結局……
韓信は、蒯徹の進言に従うことにした。
すなわち、撤収準備を中止し、張耳と共に人馬を整え、すぐさま趙国から斉へ向けて進発したのである。
韓信の軍は、ほどなく北の黄河を渡り、斉との国境に接近した。
斉の各郡県は大いに乱れ騒ぎ、人々は戦を恐れて逃走し、身を隠した。
そして、漢軍迫るの報は、たちまち斉の都臨淄へと伝えられた。
*
そのころ、斉王は、酈生と連日酒を飲み、遊び楽しんでいたのだが……
ある日、斉王が飲み疲れて休んでいたところに、突然凶報が飛び込んできた。
「韓信が大軍を率いて、斉の国境へ攻めて来ました!」
「な……なんだとッ!?」
斉王は驚愕し、慌てて諸将を招集した。
その会議の場で、相国田横が言った。
「韓信は、30万の軍勢を率いて遠征してきました。
その勢いは、はなはだ盛んです。
もし我らが城を出て戦おうとすれば、必ずや、韓信の計略に陥れられるでしょう。
ここは城の堀を深くし、城壁を高くして、籠城するべきです。
そのうえで早馬を飛ばして楚に救援を求めれば、覇王様は、ほどなく来てくださるでしょう。
そのとき我らが城から打って出て、漢軍を挟撃すれば、韓信は必ず打ち破れます」
斉王は、苦い顔で、うなずいた。
「うむ……戦の方針は、それで良いとして……
もうひとつ問題がある。酈生を、どうするべきだろうか?」
田横が言う。
「まさにそこが問題ですな。
とりあえず、しばらくは酈生を殺さずにおきましょう。
漢軍が城に到着するのを待ち、酈生にもう一度書簡を送らせるのです。
それで韓信が兵を撤退させるようなら、元々の予定通り漢に降伏なさいませ。
しかし、それでも韓信が退かないようなら……
酈生は、殺すしかありませんな」
斉王が言う。
「酈生の言葉を受け入れて漢に降伏したのに、韓信が大軍を率いて攻めてきた。
これは、酈生が余を欺いたということではないか?
余を油断させ、戦備を整えないように誘導し、不意を突いて韓信が攻めてくる……そういう企みだったのではないだろうか?
余は、腐れ儒者に騙されてしまったのだ」
斉王の言葉を、田横は肯定も否定もしなかった。
「韓信が来たと言っても、まだ真相はハッキリしておりません。
とにかく、漢軍が城の前まで来るのを待って、酈生の挙動を見てみましょう」
そこから、さらに色々な対策を協議していると……
突然、城の中が、ざわざわと騒がしくなりはじめた。
その直後、報告が飛び込んできた。
「韓信が、この城から30里(12km)離れたところに陣を取りました!
おびただしい数の旗幟を立て並べ、太鼓や銅鑼を大いに震わせております。
軍勢の隊列は極めて整然としており、その刃の切っ先には立ち向かうこともできない、というほどの迫力です!」
斉王は、大急ぎで酈生を呼び出した。
「酈先生、貴公は、漢軍を成皋に撤収させるため、韓信に書簡を送ったはずだったな。
だが、今、この城の前に韓信が大軍を押し出して攻めてきているぞ!
一体これは何事か!
酈先生が余を騙して戦備を行わないように仕向け、無防備になっているところを韓信に攻めさせようと企んだのであろう!?」
酈生は怒気を孕んで言い返す。
「違います!
私は、確かに漢王様の命令で、ここに来たのです!
それなのに、韓信が約束を破って攻め寄せてきた……彼は、ただ私を売ったというだけではない。主君たる漢王様をも裏切ったのです!」
斉王が言う。
「しかし、現実に韓信は攻めて来ているのだぞ。
たとえ酈先生が余を欺いたのでなかったとしても、こちらとしては疑わないわけにはいかない。
そこで、先生には、韓信にもう一度書簡を送っていただきたい。
韓信に、軍を退くように言うのだ。
もしそれで韓信が撤退すれば、酈先生が余を騙したのでないと信じよう。
だが、もし韓信が撤退しなければ……その時は、また別に議論するしかないな」
酈生が言う。
「書簡だけでは言葉を尽くして説得することができません。
私が、斉王様の使者と共に漢軍の陣に行き、事細かく説き示せば、韓信は必ず退き去るでしょう」
酈生は、そう言い切ると、答えも聞かずに立ち上がって退出しようとした。
だがそのとき、斉の兵が、サッと酈生の前に立ち塞がった。
斉王が、笑って言う。
「仮に酈先生自身が行って説くとしよう。
韓信がその言葉を聞き入れて兵を撤退させたなら、先生がここへ戻ってくることもあるだろう。
しかし、韓信が撤退しなかったら、先生は、二度と我が前に戻って来まい。
それでは、まるで虎を山に放すようなものだ。
ここから去ることは許さぬ。
先生には、人質となっていてもらう」
酈生は痛恨の嘆き声をあげ、心の中で思った。
「斉王は、完全に私を疑っている……
ああ、死生存亡の運命は、今ここで決まってしまった……」
酈生は、一縷の望みをかけて書簡を認め、従者を呼んだ。
「汝は、この書簡を持って行き、韓信大元帥に会え。
そこで、今から言うことを、よくよく訴えてほしい。
『私は漢王様の命を受けて、斉王を漢の側に招き入れた。
大元帥は、どうしてすぐに兵を後退させてくれないのですか。
私1人の命は惜しむに足らないものだが、主君の命は重いものだとは思いませんか』
……とな」
(つづく)