龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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六十の丙 酈生の最期

 韓信は、酈生(れきせい)からの書簡(しょかん)を読んだ後、さっそく副将の張耳(ちょうじ)を呼んで、成皋(せいこう)へ撤収する段取りの打ち合わせに取りかかった。

 

 ところが、その相談中、誰かが大声をあげて割り込んできた。

「撤収など、不可! 不可!

 もし酈生(れきせい)の言葉を聞き入れたら、大元帥の生涯(しょうがい)最大の誤りとなりますぞ!

 

 私に、1つ計がございます。

 その計によって、手に(つば)を付けてからめとるように(せい)の70城を手に入れさせてみせましょう。

 その功績は、ことごとく韓信大元帥、あなたのものになるのです!」

 

 そんなことを言うのは、いったい誰だ?

 と思って目を向ければ、(えん)の賢士蒯徹(かいてつ)(あざな)文通であった。

 

 蒯徹(かいてつ)は、かつて(えん)王に仕えていた人物である。

 しかし、(えん)王の使者として来た時、韓信という人物に()れ込んでしまい、みずから願い出て韓信の下で働くようになった。

(第五十四回参照)

 

 あれからしばらくの時間が過ぎたが、蒯徹(かいてつ)の情熱は、色あせるどころか、むしろ日に日に高まっていった。

 韓信の下で働けば働くほど、韓信の偉大さが見えてくる。

 今や蒯徹(かいてつ)は、劉邦でもなく、項羽でもなく、韓信こそが中華最大の英雄だ! と信じて疑わぬ、強烈な韓信信奉者になっていたのだった。

 

 その蒯徹(かいてつ)に、韓信は怪訝(けげん)そうな目を向けた。

蒯徹(かいてつ)よ。軍を撤収させるな、とは、一体どういうことか?」

 

 蒯徹(かいてつ)が言う。

「大元帥は、数万の軍勢を(ひき)い、1年以上の時間をかけて戦いましたが、落とした城は、わずかに(ちょう)の50城あまりのみ。

 ところが今、(いち)儒者(じゅしゃ)に過ぎない酈生(れきせい)が、3寸の舌を振るい、一篇(いっぺん)の言葉のみで(せい)の70城を下してしまったのです。

 

 大元帥の威徳は、たった1人の儒学(じゅがく)小僧(こぞう)にも及ばなかった……

 世間(せけん)は、そう考えるでしょう。

 大元帥の面目(めんもく)は丸つぶれになります。

 軍を撤収させた後、大元帥は、一体どんな顔をして漢王様の前に出るおつもりですか。

 

 私の愚見(ぐけん)では、ここはむしろ、一気に(せい)に攻め込むべきです。

 今なら(せい)は軍備もしていないでしょう。

 この(すき)(じょう)じて軍勢を向かわせれば、(せい)は、積み上げた(かわら)のように崩壊します」

 

 韓信は、首を横に振った。

「何をバカなことを!

 酈生(れきせい)(せい)に行ったのは、何も私用で行ったわけではない。漢王様のご命令を(ほう)じてのことだ。

 

 もし兵を()げて(せい)に攻め込んだら、私が王の命令に(そむ)く形になるではないか。

 しかも、(せい)から見れば、これは裏切りだ。(せい)にいる酈生(れきせい)が、どんな目に()わされるか分からないぞ」

 

 蒯徹(かいてつ)が言う。

「はたして、そうでしょうか?

 漢王様は、はじめは大元帥に『(せい)()つべし』と(めい)じなさったのでしょう。

 その時、漢王様の意志は固まっていたはずです。

 

 それなのに、どうして今さら酈生(れきせい)を派遣し、(せい)王の説得などをさせたのです?

 これは必定(ひつじょう)酈生(れきせい)が大元帥の功績を奪い取ろうと画策(かくさく)し、言葉(たく)みに漢王様を動かしたのに違いありません。

 つまり、これは漢王様の本心ではないのですよ。

 

 それにもかかわらず、大元帥が軍を撤収させたら、どうなりますか?

 諸将は、大元帥を無能だとみなすでしょう。

 漢王様も、大元帥を(かろ)んじて、儒者(じゅしゃ)を重用するようになるに違いありません。

 

 そうなれば、たとえ()を破ったとしても、もはや大元帥に光が当たることはありませんぞ。

 大元帥! よくお考えください!」

 

 そこへ、副将の張耳(ちょうじ)も口を挟んだ。

蒯徹(かいてつ)の言うことには、()があると思います。

 大元帥は、国外における軍事の権限をすべて任されているはず。必ずしも王命にこだわる必要はないのではありませんか?」

 

「む……う……」

 韓信は、言葉につまった。

 

 もしこの時、劉邦から韓信へ撤退命令が直接出されていたら、韓信は、もちろんそれに従ったに違いない。

 だが、韓信の元へ届いていたのは、酈生(れきせい)からの事後報告と撤退要請のみ。形式上は、劉邦からの(せい)攻略命令が取り消されたわけではない。

 

 つまり韓信は、2つの矛盾した命令の板挟みになってしまったのだ。

 

 結局……

 韓信は、蒯徹(かいてつ)の進言に従うことにした。

 

 すなわち、撤収準備を中止し、張耳(ちょうじ)(とも)に人馬を整え、すぐさま(ちょう)国から(せい)へ向けて進発したのである。

 

 韓信の軍は、ほどなく北の黄河を渡り、(せい)との国境に接近した。

 (せい)の各郡県は大いに乱れ騒ぎ、人々は(いくさ)を恐れて逃走し、身を隠した。

 

 そして、漢軍迫るの報は、たちまち(せい)(みやこ)臨淄(りんし)へと伝えられた。

 

 

   *

 

 

 そのころ、(せい)王は、酈生(れきせい)と連日酒を飲み、遊び楽しんでいたのだが……

 

 ある日、(せい)王が飲み疲れて休んでいたところに、突然凶報(きょうほう)が飛び込んできた。

「韓信が大軍を(ひき)いて、(せい)の国境へ攻めて来ました!」

 

「な……なんだとッ!?」

 (せい)王は驚愕(きょうがく)し、慌てて諸将を招集した。

 

 その会議の場で、相国(しょうこく)田横(でんおう)が言った。

「韓信は、30万の軍勢を(ひき)いて遠征してきました。

 その勢いは、はなはだ盛んです。

 

 もし我らが城を出て戦おうとすれば、必ずや、韓信の計略に(おとしい)れられるでしょう。

 ここは城の堀を深くし、城壁を高くして、籠城(ろうじょう)するべきです。

 

 そのうえで早馬を飛ばして()に救援を求めれば、覇王様は、ほどなく来てくださるでしょう。

 そのとき我らが城から打って出て、漢軍を挟撃(きょうげき)すれば、韓信は必ず打ち破れます」

 

 (せい)王は、苦い顔で、うなずいた。

「うむ……(いくさ)の方針は、それで良いとして……

 もうひとつ問題がある。酈生(れきせい)を、どうするべきだろうか?」

 

 田横(でんおう)が言う。

「まさにそこが問題ですな。

 とりあえず、しばらくは酈生(れきせい)を殺さずにおきましょう。

 

 漢軍が城に到着するのを待ち、酈生(れきせい)にもう一度書簡(しょかん)を送らせるのです。

 それで韓信が兵を撤退させるようなら、元々の予定通り漢に降伏なさいませ。

 

 しかし、それでも韓信が退()かないようなら……

 酈生(れきせい)は、殺すしかありませんな」

 

 (せい)王が言う。

酈生(れきせい)の言葉を受け入れて漢に降伏したのに、韓信が大軍を(ひき)いて攻めてきた。

 これは、酈生(れきせい)が余を(あざむ)いたということではないか?

 

 余を油断させ、戦備を整えないように誘導し、不意を突いて韓信が攻めてくる……そういう(たくら)みだったのではないだろうか?

 余は、腐れ儒者(じゅしゃ)(だま)されてしまったのだ」

 

 (せい)王の言葉を、田横(でんおう)は肯定も否定もしなかった。

「韓信が来たと言っても、まだ真相はハッキリしておりません。

 とにかく、漢軍が城の前まで来るのを待って、酈生(れきせい)の挙動を見てみましょう」

 

 そこから、さらに色々な対策を協議していると……

 突然、城の中が、ざわざわと騒がしくなりはじめた。

 

 その直後、報告が飛び込んできた。

「韓信が、この城から30里(12km)離れたところに陣を取りました!

 おびただしい数の旗幟(きし)を立て並べ、太鼓や銅鑼(どら)を大いに震わせております。

 軍勢の隊列は極めて整然としており、その刃の()(さき)には立ち向かうこともできない、というほどの迫力です!」

 

 (せい)王は、大急ぎで酈生(れきせい)を呼び出した。

(れき)先生、貴公は、漢軍を成皋(せいこう)に撤収させるため、韓信に書簡(しょかん)を送ったはずだったな。

 だが、今、この城の前に韓信が大軍を押し出して攻めてきているぞ!

 

 一体これは何事(なにごと)か!

 (れき)先生が余を(だま)して戦備を行わないように仕向(しむ)け、無防備になっているところを韓信に攻めさせようと(たくら)んだのであろう!?」

 

 酈生(れきせい)怒気(どき)(はら)んで言い返す。

「違います!

 私は、確かに漢王様の命令で、ここに来たのです!

 それなのに、韓信が約束を破って攻め寄せてきた……彼は、ただ私を売ったというだけではない。主君たる漢王様をも裏切ったのです!」

 

 (せい)王が言う。

「しかし、現実に韓信は攻めて来ているのだぞ。

 たとえ(れき)先生が余を(あざむ)いたのでなかったとしても、こちらとしては疑わないわけにはいかない。

 

 そこで、先生には、韓信にもう一度書簡(しょかん)を送っていただきたい。

 韓信に、軍を退()くように言うのだ。

 

 もしそれで韓信が撤退すれば、(れき)先生が余を(だま)したのでないと信じよう。

 だが、もし韓信が撤退しなければ……その時は、()()()()()()するしかないな」

 

 酈生(れきせい)が言う。

書簡(しょかん)だけでは言葉を尽くして説得することができません。

 私が、(せい)王様の使者と(とも)に漢軍の陣に行き、事細(ことこま)かく()き示せば、韓信は必ず退(しりぞ)き去るでしょう」

 

 酈生(れきせい)は、そう言い切ると、答えも聞かずに立ち上がって退出しようとした。

 だがそのとき、(せい)の兵が、サッと酈生(れきせい)の前に立ち(ふさ)がった。

 

 (せい)王が、笑って言う。

「仮に(れき)先生自身が行って()くとしよう。

 韓信がその言葉を聞き入れて兵を撤退させたなら、先生がここへ戻ってくることもあるだろう。

 

 しかし、韓信が撤退しなかったら、先生は、二度と我が前に戻って()まい。

 それでは、まるで虎を山に放すようなものだ。

 

 ここから去ることは許さぬ。

 先生には、人質となっていてもらう」

 

 酈生(れきせい)は痛恨の(なげ)き声をあげ、心の中で思った。

(せい)王は、完全に私を疑っている……

 ああ、死生(しせい)存亡(そんぼう)の運命は、今ここで決まってしまった……」

 

 酈生(れきせい)は、一縷(いちる)の望みをかけて書簡(しょかん)(したた)め、従者を呼んだ。

「汝は、この書簡(しょかん)を持って行き、韓信大元帥に会え。

 そこで、今から言うことを、よくよく(うった)えてほしい。

 

 『私は漢王様の(めい)を受けて、(せい)王を漢の側に招き入れた。

 大元帥は、どうしてすぐに兵を後退させてくれないのですか。

 

 私1人の(いのち)()しむに()らないものだが、主君の(めい)は重いものだとは思いませんか』

 ……とな」

 

 

(つづく)

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