龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

176 / 239
六十の丁 酈生の最期

 

 

 酈生(れきせい)の従者は、すぐに城外へ出て、韓信の陣を訪(おとず)れた。

 

 韓信は、酈生(れきせい)からの書簡(しょかん)を受け取り、開いてみた。

 その文面は……

 

『酈食其(れきいき)、頓首(とんしゅ)して韓元帥の麾下(きか)に再拝す。

 先日、大元帥は私に書簡(しょかん)をくださり、軍勢を成皋(せいこう)に帰還させると仰(おっしゃ)いました。

 斉(せい)王は、その書簡(しょかん)を得て甚(はなは)だ喜び、すぐに表文を著(あらわ)して、使者を漢王様の元へ送って降伏を申し出たのです。

 

 それにもかかわらず、今、大元帥は兵を率(ひき)いて斉(せい)を取らんと接近して参られました。

 これは、以前にくださった書簡(しょかん)と食い違う行動です。

 そのため、斉(せい)の君主も臣も、私が斉(せい)を騙(だま)したのだと考え、私を斬首して恨(うら)みを雪(そそ)がんとしております。

 

 私の死は、惜(お)しむほどのことではありません。

 しかし、漢王様の命令で使者が派遣され、斉(せい)からの表文もすでに送られたというのに、その決定を今さら覆(くつがえ)したために漢からの使者が誅殺(ちゅうさつ)される……

 そんな事態になれば、漢王様の命令は、今後、天下の人々に信用されなくなるでしょう。

 

 そうなっても、韓信大元帥は自分だけ心やすらかにしていられるのですか?

 私の命は、明日にも、今夜にも、失われようとしております。

 大元帥、どうか救いの手を差し伸べてくださいませ。

 

 食其(いき)、頓首(とんしゅ)し血の涙を流して拝す』

 

 韓信は、酈生(れきせい)の書簡(しょかん)を読み終えると、迷いに迷って心を決めかね、深く沈黙してしまった。

 

 と、そばにいた蒯徹(かいてつ)が、すかさず問う。

「大元帥、一体なにを考えておられるのですか」

 

 韓信は、苦しげな表情で、うめくように言った。

「酈生(れきせい)は、漢王様の命(めい)を受けて、斉(せい)王を降伏させに行ったのだ。

 もし私が軍を進めて斉(せい)を攻撃すれば、斉(せい)人は、必ず酈生(れきせい)を殺すだろう。

 そのうえ、この私も、王の命令に背(そむ)いた罪を免(まぬが)れることができなくなる……」

 

 蒯徹(かいてつ)が言う。

「漢王様は、大元帥に詔(みことのり)して斉(せい)討伐(とうばつ)に向かわせました。

 そして、軍を止めよという詔(みことのり)は、漢王様から届いていません。

 ならば、大元帥が斉(せい)を討(う)つことは、漢王様の元々の命令を遂行(すいこう)することに他ならないではありませんか。

 

 漢王様は、すでに大元帥を派遣しているのに、後から酈生(れきせい)をも遣(つか)わして斉(せい)王を説得させた……

 過失は漢王様にあります。大元帥には何の罪もありません。

 これ以上、迷いなさる必要がありましょうか」

 

 韓信は、めずらしく、たじろいだ。

「形の上では、たしかに汝の言う通りかもしれん。

 しかし、酈生(れきせい)を敵に殺させろというのか? 私の目の前で?

 私は、どうしても、それが……」

 

 蒯徹(かいてつ)が言う。

「一人の命(いのち)は惜(お)しむに足らず!

 そして一国を平定する功績は、今後二度と成しとげる機会がない!

 どちらが軽く、どちらが重いか? どちらが大きく、どちらが小さいか? 明々白々でありましょう?

 

 韓信大元帥ともあろうお方が、なにを小さな女児のように些細(ささい)なことでウジウジしておられるのですか!」

 

 韓信は――

 韓信は、青ざめた顔で、しかし、うなずいてしまった。

「……そうだ。御辺(ごへん)の言うことには一理ある」

 

 韓信は、すぐに返書を書き、酈生(れきせい)の従者を呼んだ。

「帰って酈生(れきせい)に会ったら、私の言葉を伝えよ。

 

 『酈生(れきせい)よ。

 貴公は、斉(せい)に行くのであれば、まずその前に趙(ちょう)に来て、この私に漢王様の詔(みことのり)を伝え、しばらく軍を動かさないように要請すべきであった。

 その後で斉(せい)に行き、斉(せい)王を降伏させることに成功したら、改めて使者を送って私に連絡し、軍を収めて成皋(せいこう)に帰るよう言うべきであった。

 

 だが、貴公は今回の行動を深く隠し、私には何も知らせず、ひそかに斉(せい)を口説(くど)き、私の功績を奪おうとした。

 

 今、斉(せい)王が降伏を申し出たとは言っても、それは本心ではない。

 私の大軍が趙(ちょう)にあることを恐れたためである。

 今日は降伏したとしても、遠くない将来、きっとまた漢に背(そむ)くだろう。

 

 そのとき再び兵を出発させて遠征したなら、その費用は、どれほど莫大なものになるか分からない。

 となれば、今のうちに一気に斉(せい)を滅ぼして、後の患(うれ)いを取りのぞいたほうがよい。

 

 たとえ酈生(れきせい)の命(いのち)を損(そこ)なったとしても、私が斉(せい)一国を平定することができれば、いつか論功行賞を行う時、酈生(れきせい)の子孫はみんな列候に封(ほう)じられるだろう。

 どうか、今日のことで私を恨(うら)まないでいただきたい』

 

 ……分かったな。そう酈生(れきせい)に申せよ」

 

 

   *

 

 

 従者は、韓信からの書簡(しょかん)を受け取り、大急ぎで城内に戻ってきた。

 

 酈生(れきせい)は、従者から報告を受け……絶叫した。

「股潜(またくぐ)り男めェッ!

 私を売りおったなァッ!」

 

 この話は、すぐに斉(せい)王の耳にも伝わった。

 斉(せい)王は、大いに怒って言った。

「儒学(じゅがく)小僧(こぞう)が、信義を守ることもできぬとは!

 よくもはるばる斉(せい)まで来て、余を騙(だま)し侮(あなど)ってくれたな!」

 

 斉(せい)王は、左右の臣に命(めい)じて、大きな鑊(かく)(中華鍋)を用意させ、その中で大量の油を煮えたぎらせた。

 そして酈生(れきせい)を縛り、その頭に布をかぶせて包み、鑊(かく)の中に放り込んで、煮(に)殺してしまったのだった。

 

 この残虐な処刑に、城中の人々は声をそろえて嘆き、酈生(れきせい)の死を惜(お)しんだという……

 

 

   *

 

 

 酈生(れきせい)が殺された。

 その情報は、城外の韓信にも伝わった。

 

 韓信は、いつにない激しさで怒り、諸軍に下知(げち)して言った。

「それぞれ死力を尽くして、目の前の城を踏み破れ!」

 

 そして韓信は、みずから先陣に立ち、斉(せい)の都(みやこ)臨淄(りんし)城へと攻めかかっていった。

 まるで、重くのしかかる罪の意識から、必死に逃れようとするかのように……

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

■次回予告■

 

 酈生(れきせい)の死を皮切りにして幕を開けた漢斉(せい)決戦。勢い当たるべからざる漢。斉(せい)が窮地に追い込まれたそのとき、覇王配下の援軍が風の如く駆けつけた。

 精鋭どもを率(ひき)いるは、楚(そ)軍きっての名将、驍勇(ぎょうゆう)の龍沮(りゅうしょ)。力をもっては当たりがたき強敵に、韓信の奇策が今また走る。

 

 次回「龍虎戦記」第六十一回

 『嚢沙(のうさ)の計、韓信龍沮(りゅうしょ)を斬る』

 

 乞(こ)う、ご期待!




●注釈
 韓信は、これまで何度となく『股(また)潜(くぐ)り男』と呼ばれてきた。これは、「西漢通俗演義」や「通俗漢楚軍談」で『胯夫(こふ)(胯(また)の男)』と表現されているのを筆者が意訳したものである。
 これまで韓信を『胯夫(こふ)』と呼んだのは、項羽や章邯(しょうかん)など、楚(そ)陣営の人物に限られていた。漢の側の人物が韓信を『胯夫(こふ)』と呼んだのは、今回の酈生(れきせい)が初めてである。酈生(れきせい)がどれほど強烈な怒りを覚えていたかが、この言葉選びからも感じられるように思う。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。