龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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六十の丁 酈生の最期

 

 

 酈生(れきせい)の従者は、すぐに城外へ出て、韓信の陣を(おとず)れた。

 

 韓信は、酈生(れきせい)からの書簡(しょかん)を受け取り、開いてみた。

 その文面は……

 

酈食其(れきいき)頓首(とんしゅ)して韓元帥の麾下(きか)に再拝す。

 先日、大元帥は私に書簡(しょかん)をくださり、軍勢を成皋(せいこう)に帰還させると(おっしゃ)いました。

 (せい)王は、その書簡(しょかん)を得て(はなは)だ喜び、すぐに表文を(あらわ)して、使者を漢王様の元へ送って降伏を申し出たのです。

 

 それにもかかわらず、今、大元帥は兵を(ひき)いて(せい)を取らんと接近して参られました。

 これは、以前にくださった書簡(しょかん)と食い違う行動です。

 そのため、(せい)の君主も臣も、私が(せい)(だま)したのだと考え、私を斬首して(うら)みを(そそ)がんとしております。

 

 私の死は、()しむほどのことではありません。

 しかし、漢王様の命令で使者が派遣され、(せい)からの表文もすでに送られたというのに、その決定を今さら(くつがえ)したために漢からの使者が誅殺(ちゅうさつ)される……

 そんな事態になれば、漢王様の命令は、今後、天下の人々に信用されなくなるでしょう。

 

 そうなっても、韓信大元帥は自分だけ心やすらかにしていられるのですか?

 私の命は、明日にも、今夜にも、失われようとしております。

 大元帥、どうか救いの手を差し伸べてくださいませ。

 

 食其(いき)頓首(とんしゅ)し血の涙を流して拝す』

 

 韓信は、酈生(れきせい)書簡(しょかん)を読み終えると、迷いに迷って心を決めかね、深く沈黙してしまった。

 

 と、そばにいた蒯徹(かいてつ)が、すかさず問う。

「大元帥、一体なにを考えておられるのですか」

 

 韓信は、苦しげな表情で、うめくように言った。

酈生(れきせい)は、漢王様の(めい)を受けて、(せい)王を降伏させに行ったのだ。

 もし私が軍を進めて(せい)を攻撃すれば、(せい)人は、必ず酈生(れきせい)を殺すだろう。

 そのうえ、この私も、王の命令に(そむ)いた罪を(まぬが)れることができなくなる……」

 

 蒯徹(かいてつ)が言う。

「漢王様は、大元帥に(みことのり)して(せい)討伐(とうばつ)に向かわせました。

 そして、軍を止めよという(みことのり)は、漢王様から届いていません。

 ならば、大元帥が(せい)()つことは、漢王様の元々の命令を遂行(すいこう)することに他ならないではありませんか。

 

 漢王様は、すでに大元帥を派遣しているのに、後から酈生(れきせい)をも(つか)わして(せい)王を説得させた……

 過失は漢王様にあります。大元帥には何の罪もありません。

 これ以上、迷いなさる必要がありましょうか」

 

 韓信は、めずらしく、たじろいだ。

「形の上では、たしかに汝の言う通りかもしれん。

 しかし、酈生(れきせい)を敵に殺させろというのか? 私の目の前で?

 私は、どうしても、それが……」

 

 蒯徹(かいてつ)が言う。

「一人の(いのち)()しむに足らず!

 そして一国を平定する功績は、今後二度と成しとげる機会がない!

 どちらが軽く、どちらが重いか? どちらが大きく、どちらが小さいか? 明々白々でありましょう?

 

 韓信大元帥ともあろうお方が、なにを小さな女児のように些細(ささい)なことでウジウジしておられるのですか!」

 

 韓信は――

 韓信は、青ざめた顔で、しかし、うなずいてしまった。

「……そうだ。御辺(ごへん)の言うことには一理ある」

 

 韓信は、すぐに返書を書き、酈生(れきせい)の従者を呼んだ。

「帰って酈生(れきせい)に会ったら、私の言葉を伝えよ。

 

 『酈生(れきせい)よ。

 貴公は、(せい)に行くのであれば、まずその前に(ちょう)に来て、この私に漢王様の(みことのり)を伝え、しばらく軍を動かさないように要請すべきであった。

 その後で(せい)に行き、(せい)王を降伏させることに成功したら、改めて使者を送って私に連絡し、軍を収めて成皋(せいこう)に帰るよう言うべきであった。

 

 だが、貴公は今回の行動を深く隠し、私には何も知らせず、ひそかに(せい)口説(くど)き、私の功績を奪おうとした。

 

 今、(せい)王が降伏を申し出たとは言っても、それは本心ではない。

 私の大軍が(ちょう)にあることを恐れたためである。

 今日は降伏したとしても、遠くない将来、きっとまた漢に(そむ)くだろう。

 

 そのとき再び兵を出発させて遠征したなら、その費用は、どれほど莫大なものになるか分からない。

 となれば、今のうちに一気に(せい)を滅ぼして、後の(うれ)いを取りのぞいたほうがよい。

 

 たとえ酈生(れきせい)(いのち)(そこ)なったとしても、私が(せい)一国を平定することができれば、いつか論功行賞を行う時、酈生(れきせい)の子孫はみんな列候に(ほう)じられるだろう。

 どうか、今日のことで私を(うら)まないでいただきたい』

 

 ……分かったな。そう酈生(れきせい)に申せよ」

 

 

   *

 

 

 従者は、韓信からの書簡(しょかん)を受け取り、大急ぎで城内に戻ってきた。

 

 酈生(れきせい)は、従者から報告を受け……絶叫した。

股潜(またくぐ)り男めェッ!

 私を売りおったなァッ!」

 

 この話は、すぐに(せい)王の耳にも伝わった。

 (せい)王は、大いに怒って言った。

儒学(じゅがく)小僧(こぞう)が、信義を守ることもできぬとは!

 よくもはるばる(せい)まで来て、余を(だま)(あなど)ってくれたな!」

 

 (せい)王は、左右の臣に(めい)じて、大きな(かく)(中華鍋)を用意させ、その中で大量の油を煮えたぎらせた。

 そして酈生(れきせい)を縛り、その頭に布をかぶせて包み、(かく)の中に放り込んで、()殺してしまったのだった。

 

 この残虐な処刑に、城中の人々は声をそろえて嘆き、酈生(れきせい)の死を()しんだという……

 

 

   *

 

 

 酈生(れきせい)が殺された。

 その情報は、城外の韓信にも伝わった。

 

 韓信は、いつにない激しさで怒り、諸軍に下知(げち)して言った。

「それぞれ死力を尽くして、目の前の城を踏み破れ!」

 

 そして韓信は、みずから先陣に立ち、(せい)(みやこ)臨淄(りんし)城へと攻めかかっていった。

 まるで、重くのしかかる罪の意識から、必死に逃れようとするかのように……

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

■次回予告■

 

 酈生(れきせい)の死を皮切りにして幕を開けた漢(せい)決戦。勢い当たるべからざる漢。(せい)が窮地に追い込まれたそのとき、覇王配下の援軍が風の如く駆けつけた。

 精鋭どもを(ひき)いるは、()軍きっての名将、驍勇(ぎょうゆう)龍沮(りゅうしょ)。力をもっては当たりがたき強敵に、韓信の奇策が今また走る。

 

 次回「龍虎戦記」第六十一回

 『嚢沙(のうさ)の計、韓信龍沮(りゅうしょ)を斬る』

 

 ()う、ご期待!




●注釈
 韓信は、これまで何度となく『(また)(くぐ)り男』と呼ばれてきた。これは、「西漢通俗演義」や「通俗漢楚軍談」で『胯夫(こふ)(また)の男)』と表現されているのを筆者が意訳したものである。
 これまで韓信を『胯夫(こふ)』と呼んだのは、項羽や章邯(しょうかん)など、()陣営の人物に限られていた。漢の側の人物が韓信を『胯夫(こふ)』と呼んだのは、今回の酈生(れきせい)が初めてである。酈生(れきせい)がどれほど強烈な怒りを覚えていたかが、この言葉選びからも感じられるように思う。
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