酈生の従者は、すぐに城外へ出て、韓信の陣を訪れた。
韓信は、酈生からの書簡を受け取り、開いてみた。
その文面は……
『酈食其、頓首して韓元帥の麾下に再拝す。
先日、大元帥は私に書簡をくださり、軍勢を成皋に帰還させると仰いました。
斉王は、その書簡を得て甚だ喜び、すぐに表文を著して、使者を漢王様の元へ送って降伏を申し出たのです。
それにもかかわらず、今、大元帥は兵を率いて斉を取らんと接近して参られました。
これは、以前にくださった書簡と食い違う行動です。
そのため、斉の君主も臣も、私が斉を騙したのだと考え、私を斬首して恨みを雪がんとしております。
私の死は、惜しむほどのことではありません。
しかし、漢王様の命令で使者が派遣され、斉からの表文もすでに送られたというのに、その決定を今さら覆したために漢からの使者が誅殺される……
そんな事態になれば、漢王様の命令は、今後、天下の人々に信用されなくなるでしょう。
そうなっても、韓信大元帥は自分だけ心やすらかにしていられるのですか?
私の命は、明日にも、今夜にも、失われようとしております。
大元帥、どうか救いの手を差し伸べてくださいませ。
食其、頓首し血の涙を流して拝す』
韓信は、酈生の書簡を読み終えると、迷いに迷って心を決めかね、深く沈黙してしまった。
と、そばにいた蒯徹が、すかさず問う。
「大元帥、一体なにを考えておられるのですか」
韓信は、苦しげな表情で、うめくように言った。
「酈生は、漢王様の命を受けて、斉王を降伏させに行ったのだ。
もし私が軍を進めて斉を攻撃すれば、斉人は、必ず酈生を殺すだろう。
そのうえ、この私も、王の命令に背いた罪を免れることができなくなる……」
蒯徹が言う。
「漢王様は、大元帥に詔して斉討伐に向かわせました。
そして、軍を止めよという詔は、漢王様から届いていません。
ならば、大元帥が斉を討つことは、漢王様の元々の命令を遂行することに他ならないではありませんか。
漢王様は、すでに大元帥を派遣しているのに、後から酈生をも遣わして斉王を説得させた……
過失は漢王様にあります。大元帥には何の罪もありません。
これ以上、迷いなさる必要がありましょうか」
韓信は、めずらしく、たじろいだ。
「形の上では、たしかに汝の言う通りかもしれん。
しかし、酈生を敵に殺させろというのか? 私の目の前で?
私は、どうしても、それが……」
蒯徹が言う。
「一人の命は惜しむに足らず!
そして一国を平定する功績は、今後二度と成しとげる機会がない!
どちらが軽く、どちらが重いか? どちらが大きく、どちらが小さいか? 明々白々でありましょう?
韓信大元帥ともあろうお方が、なにを小さな女児のように些細なことでウジウジしておられるのですか!」
韓信は――
韓信は、青ざめた顔で、しかし、うなずいてしまった。
「……そうだ。御辺の言うことには一理ある」
韓信は、すぐに返書を書き、酈生の従者を呼んだ。
「帰って酈生に会ったら、私の言葉を伝えよ。
『酈生よ。
貴公は、斉に行くのであれば、まずその前に趙に来て、この私に漢王様の詔を伝え、しばらく軍を動かさないように要請すべきであった。
その後で斉に行き、斉王を降伏させることに成功したら、改めて使者を送って私に連絡し、軍を収めて成皋に帰るよう言うべきであった。
だが、貴公は今回の行動を深く隠し、私には何も知らせず、ひそかに斉を口説き、私の功績を奪おうとした。
今、斉王が降伏を申し出たとは言っても、それは本心ではない。
私の大軍が趙にあることを恐れたためである。
今日は降伏したとしても、遠くない将来、きっとまた漢に背くだろう。
そのとき再び兵を出発させて遠征したなら、その費用は、どれほど莫大なものになるか分からない。
となれば、今のうちに一気に斉を滅ぼして、後の患いを取りのぞいたほうがよい。
たとえ酈生の命を損なったとしても、私が斉一国を平定することができれば、いつか論功行賞を行う時、酈生の子孫はみんな列候に封じられるだろう。
どうか、今日のことで私を恨まないでいただきたい』
……分かったな。そう酈生に申せよ」
*
従者は、韓信からの書簡を受け取り、大急ぎで城内に戻ってきた。
酈生は、従者から報告を受け……絶叫した。
「股潜り男めェッ!
私を売りおったなァッ!」
この話は、すぐに斉王の耳にも伝わった。
斉王は、大いに怒って言った。
「儒学小僧が、信義を守ることもできぬとは!
よくもはるばる斉まで来て、余を騙し侮ってくれたな!」
斉王は、左右の臣に命じて、大きな鑊(中華鍋)を用意させ、その中で大量の油を煮えたぎらせた。
そして酈生を縛り、その頭に布をかぶせて包み、鑊の中に放り込んで、煮殺してしまったのだった。
この残虐な処刑に、城中の人々は声をそろえて嘆き、酈生の死を惜しんだという……
*
酈生が殺された。
その情報は、城外の韓信にも伝わった。
韓信は、いつにない激しさで怒り、諸軍に下知して言った。
「それぞれ死力を尽くして、目の前の城を踏み破れ!」
そして韓信は、みずから先陣に立ち、斉の都臨淄城へと攻めかかっていった。
まるで、重くのしかかる罪の意識から、必死に逃れようとするかのように……
(つづく)
■次回予告■
酈生の死を皮切りにして幕を開けた漢斉決戦。勢い当たるべからざる漢。斉が窮地に追い込まれたそのとき、覇王配下の援軍が風の如く駆けつけた。
精鋭どもを率いるは、楚軍きっての名将、驍勇の龍沮。力をもっては当たりがたき強敵に、韓信の奇策が今また走る。
次回「龍虎戦記」第六十一回
『嚢沙の計、韓信龍沮を斬る』
乞う、ご期待!