ほどなくして、韓信の陣に、楚将龍沮からの使者が来た。
韓信は、送られてきた戦書を開いた。
その書に曰く……
『楚の大将軍龍沮、書を漢の諸将に送って伝える。
韓信は、ここまで兵を用いてきながら、いまだに強敵らしい強敵と出会っていない。
魏豹ごときは、側近周叔の諌めを聞き入れず、軍を失ってしまった。
陳余は、李左車の謀を用いず、泜水(川の名前)で斬られた。
燕王は、漢軍の勢いを恐れて降伏したが、心から服従したわけではない。
三秦王は、地の利を失って偶然に負けたのであって、戦いが弱かったためでではない。
だが、この私、龍沮が今、覇王様の命を受けて斉を救いにやってきた。
韓信よ。貴様に決戦を挑む!
我が力は、これまで破ってきた諸国とは比べ物にならないぞ。
韓信よ。処刑される時を、首を洗って待っているがいい。
いまさら後悔するなよ!』
韓信は、書を読み終わって、大いに怒った。
あまりの怒りの激しさに、韓信は楚の使者を斬って捨てようとまでしたが、他の大将たちが慌てて止めた。
「いけません、大元帥!
敵からの使者は、殺さないのが習慣でしょう」
諸将の諌めのおかげで、韓信は、使者を斬ることだけは、どうにか思いとどまった。
だが、まだ怒りは冷めやらぬ様子である。
そこで韓信は、楚の使者を30杖の刑に処した。
読んで字の如く、木の杖で人の背中や尻を30回叩く刑罰である。
正しく力加減をすれば命に関わることはない。
だが、服を剥ぎ取ったうえで素肌を叩くのだから、その苦痛は想像以上にすさまじい。
皮は破れ、肉は裂け、骨まで砕けることもある。
さらに、公衆の面前で裸に剥かれて尻を叩かれるのだから、耐えがたい恥辱でもある。
韓信は、そういう刑罰で使者を辱めたうえ、筆を持ってきて使者のおでこに落書きまでした。
『来日決戦』。
明日、決戦しよう……という意味の4文字を、わざわざ朱書きにしてから、使者を解放したのである。
*
使者は、人におでこを見られないよう、頭を隠しながら、ほうほうの体で逃げ帰ってきた。
使者が、龍沮の前に来て、泣き叫びながら言う。
「韓信は、私を色々な言葉で散々に罵り辱め、ついには斬って捨てようとまでしました。
周囲の大将たちが止めたので命だけは助かりましたが……
斬首のかわりに私は30杖の刑を受けました。
皮膚や肉が裂け、骨や関節が砕け、耐えがたく痛みます……
しかも、韓信は……私の顔面に、こんな文字を……!」
龍沮が使者の顔を覗き込むと、そこには鮮やかな朱色で『来日決戦』と書かれてある。
使者は、恥ずかしさのあまり地面に崩れ落ち、そのまま死んでしまうのではないかというほどに激しく泣きわめいた。
龍沮は怒った。
「おのれェッ……!
よくも俺の部下を辱めてくれたなッ!
いますぐに攻めて股潜り男を生け捕り、この恨みに報復してやる!」
龍沮は、そのまま武具を掴んで肩に担ぎ、自分の馬に飛び乗ろうとした。
副将周蘭は、慌てて龍沮を引き止めた。
「いけません! 決戦は明日の予定でしょう。
怒りに任せて軽率に動けば、それこそ敵の思うつぼです!」
周蘭が2度、3度と言葉を尽くして諌めたので、龍沮も、どうにかその場は思いとどまった。
*
そして、翌朝未明。
龍沮は、兵たちに兵糧を使わせると、ただちに全軍を出発させた。
さすがに楚の精鋭である。
その隊列は一糸の乱れすらなく、見る者を圧倒するほどの武威で輝かんばかりだった。
龍沮は、楚軍の先頭に立って進み、漢軍の陣の前までやってきた。
これを見た漢軍も陣門を開く。
その中から馬にまたがり迎え出る者は、言わずと知れた漢の大元帥、韓信である。
龍沮は、韓信の軍勢と距離をおいて対峙し、声を張り上げた。
「韓信! 汝は、もともと楚の臣だった!
それが義に背いて漢に降り、みだりに武威を振るって関中の治安を乱したばかりか、なお止まることを知らず、こんな所まで来て我ら天兵に戦いを挑もうとは!
汝に武勇というものがあるなら、前に出て、快く俺と戦え!
もし戦えないなら、すぐに下馬して降伏するがいい!
そうすれば一命を助けて、俺の麾下で用いてやろう!」
韓信は、天を仰いで大笑いした。
「龍沮よ! 汝は、すでに死人なり!
自分のたどる死の運命にも気づかず、無駄に唇や舌を動かしているとはな!」
「なんだとッ!?」
龍沮は怒った。
かくして戦いは始まった。
まずは龍沮が刀を挙げて、韓信へ飛びかかる。
韓信も槍を振るって迎え打つ。
両者の馬が一来一往、刃を交えて戦い合うこと20合。
龍沮は、さすがの豪傑である。疲れて弱るどころか、戦えば戦うほどますます精神を奮い立たせて強さを増していく。
韓信は、とうとう堪えきれなくなり、東南に馬を向けて逃げ出した。
漢軍の兵も、慌てて韓信の後を追う。
龍沮は、その背を見て笑った。
「わっははは! 俺は最初から知っていたぞ、韓信が臆病者だということはな!
さあ、奴を捕らえるぞ! 今を逃せば、次いつ機会が来るか分からん!」
龍沮は、軍勢を引き連れて、韓信を猛追した。
楚の副将周蘭も、龍沮のすぐ後ろに馬を従わせて追いかける。
逃げる韓信を追い回しているうちに時は経ち、夕暮れ時。
龍沮たちは、濰水という川に出くわした。
この濰水は、天下に隠れ無き大河である。
普段なら、舟や筏が無ければ、とうてい渡れるものではない。
だが今日は、やけに水量が少ない。
水は、川の中央あたりを、帯のようにチョロチョロと流れているのみ。
ほとんどの部分では川底の泥が見えている。
濰水の向こう岸には、韓信の軍勢が見える。
韓信は、すでに川を渡り終えてしまったようだ。
龍沮もまた、韓信を追走すべく、濰水へ馬を入らせようとした。
そのとき、副将周蘭が、
「ハッ! まさか!?」
と何かに気づいた。
周蘭は、急いで龍沮の前に出ると、馬の轡を掴んで引き止めた。
「龍沮将軍、お待ちください!
濰水といえば世に知られた大河。それが今は、ほとんど水がありません。
これは、韓信の計略ではないでしょうか?
たとえば、川の上流を堰き止めておき、楚軍が川の真ん中まで渡ってきたところで、一気に放流して押し流す、だとか……
もしそうであれば、我らは1人も生き残れなくなります」
龍沮は、鼻で笑った。
「そんな馬鹿な。
韓信は、つい今さっき戦いに敗れて逃げてるところなんだぞ。
そんな手の込んだ仕掛けをする時間など無かっただろう。
今は真冬の12月。水量の少なくなる時期だ。
水が涸れてるのは、そのせいだろう。
怪しむ必要は、あるまい」
龍沮は、そう言って、さらに前進し、漢軍を追った。
川を渡る間に日が沈み、あたりは暗闇に包まれた。
もう、対岸にいた漢軍の姿も見えない。
そのとき、先行させていた斥候が戻ってきて、龍沮に報告した。
「韓信は我らの前方におります!
距離は、もう遠くありません!」
龍沮は、
「よし!」
と、ますます気を大きくして、大軍を川の中で突進させた。
そうして川の中央あたりまで来ると……
前方に、おかしな物が見えてきた。
燈籠である。
こんな川の真ん中に、長い棒が突き立ててあり、その上に、斗の如く大きな丸い燈籠がぶら下げられて、ゆらゆら光を放っているのだ。
「こんなところに燈籠だと……?」
龍沮は、怪しみながら燈籠に駆け寄っていった。
すぐそばまで来ると、燈籠の下に、木牌(木の立て札)が立ててあるのが見えた。
その木牌には、何か大きく文字が書かれているようである。
暗闇の中、燈籠の光を頼りに木牌の文字を読んでみれば、書かれていたのは、たった6文字……
『吊燈球、斬龍沮』
燈球を吊って、龍沮を斬る。
(つづく)