長きにわたる遠征の末、韓信は、ついに北部四国魏・趙・燕・斉の完全平定を成しとげた。
それから数日後……斉の都臨淄。
この日、韓信は、民衆を安心させる政策に取り組むかたわら、みずから斉王宮の視察に出かけた。
さすがは強国斉の王宮、と言おうか。
見上げるほどに大きな楼閣。
数え切れぬほどの層が重なった台。
そこかしこに金銀珠玉がちりばめられ、その華麗さは言葉にもできない。
もちろん、この豪華な宮殿が、韓信の持ち物になったわけではない。今は、仮に韓信の管理下に置かれているだけだ。
いずれは、誰かが斉王に封ぜられ、この王宮に居を構えることになるだろう。
国士無双の大元帥といえど、しょせん、人に使われる身にすぎない。
それはちゃんと弁えている。弁えてはいるのだが……
こうして目のくらむような宮殿に立っていると、つい、斉一国を我が物としたかのように錯覚してしまう。
韓信は、心の内から湧き上がる喜びを隠しとおすことができず、王宮を見上げながら、莞爾と頬を緩めた。
この韓信の心情を、目敏く見抜いた者がいる。
謀士蒯徹。
誰よりも深く韓信を崇拝する、あの男である。
蒯徹は、韓信の表情を一目見て全てを察すると、韓信の前に、そっと近づいた。
「大元帥」
韓信が、ニコニコと王宮を見上げたままで生返事する。
「ん。なんだ」
蒯徹は、声をひそめて、ささやいた。
「そも斉国は、五岳(中国の五大聖山)の東方、山に面し海に接した最高の立地にあります。
東には琅琊、西には黄河があって、都を立てるにふさわしい。
四方の要塞も守りは固く、まず中国東方の雄と言ってよいでしょう。
大元帥は、今、その斉国をことごとく平らげなさったわけです。
大元帥の軍威は大いに奮い、各地の郡県は恐れて帰服してきました。
ならば……
漢王様に使者を送って、このように表文を奉りなさいませ。
『斉王の印章を、一時的にお貸しください。それを用いて斉を鎮めます』と……
そうして、斉を、韓信大元帥ご自身の本拠地とするのです。
今こそ最適の機会。
これを逃しては、なりません!」
韓信は、ぎょっと目を見開いて、蒯徹を見た。
「えっ……御辺、突然なにを言いだすんだ。そんなことは……」
と、そのとき。
外から報告が入ってきた。
「ただいま、漢王様からの使者が、詔書を持って、お越しになりました」
*
韓信は、すぐに場所を移し、座を整え、作法を守って丁重に使者を迎え入れた。
使者が言う。
「漢王様の詔を持って参りました。どうぞ、ご覧くださいませ」
韓信は、詔書を受け取ると、左右の諸将にも聞こえるように詔を読み上げた。
その文面は……
『寡人(王の自称)は、韓信大元帥の計を用いることで、楚の大郡を十数個も手に入れることができた。
これによって、我らの勢力は、さらに少し増強された。
しかし覇王項羽は、いまだに我が父太公を捕らえたままでいる。
私を父と引き離して、私の心を乱そうというつもりなのだろう。
さらに楚は、近く成皋に兵を集め、我らを鏖しにして雌雄を決しようと画策しているようだ。
我が軍と楚軍は、長期に渡って戦い続けていて、こちらの兵馬は、ますます困窮しつつある。
いま戦っても、勝つことは難しいだろう。
貴公らの勢力を借りるのでなければ、どうして万全の策を為すことができようか。
それゆえに、ここに使者を星の如く馳せて、大元帥を呼びに行かせた。
すぐに、こちらへ来てもらいたい。ともに相談し、協力して楚を破ろう。
斉に勝った大元帥の軍であれば、長期の滞陣で困窮した楚軍に勝つことができるだろう。
大元帥の奇謀妙算によって功績をあげ、良い報告を聞かせてほしい。
大元帥、どうか早く来て、私の心を慰めてくれ』
*
韓信は、使者を手厚くもてなすと、三軍には成皋行きの準備に取りかからせた。
しかし、ここで、あの蒯徹が再び韓信の前に進み出た。
「大元帥。これは絶好の機会です。利用しない手はありません。
こちらからも漢王様に使者を送り、斉王の印章を要求するのです。
まず大元帥が斉王となる……
楚討伐の兵を出すのは、その後です。
大元帥がどれほど活躍なさったとしても、まともな方法で王になることはできません。
今の状況を利用して、地位と領土を手に入れるのです!
この時を逃せば、二度と機会は巡ってきませんぞ!」
要するに……
『項羽との戦いに参加してほしければ、まず斉王の位をよこせ』
こう劉邦に要求せよ、と、蒯徹は言っているのである。
韓信は……
期待と畏怖が半々で混ざり合ったような、なんとも言いがたい笑みを浮かべた。
「私が……王に?」
*
翌日。
韓信は、劉邦からの使者を呼んだ。
「ご使者よ。成皋行きの件なのだが、じっくり考えてみると、ちょっとすぐには移動しがたいように思えるのです。
確かに斉の平定は成しとげましたが、国風というのか、どうも斉の民衆には人を騙すような人間が多いようで。
反乱めいた事件も相次いでいて、情勢がなかなか落ち着きません。
そこで、私に斉王の印章を貸していただきたいのです。
これによって斉の情勢を完全に安定させ、しかる後に楚討伐の兵を出す。
この手順でも、遅すぎるということはないでしょう。
以上のことを奏上するため、漢王様のところへ人を送りたいのだ。
というわけで、ご使者よ。
滎陽へ帰るとき、私の部下も同行させていただけないだろうか?」
使者としては、
「それは、まあ、かまいませんが……」
と答えるしかない。
韓信は、大いに喜び、使者に謝礼として金や絹を与え、さっそく劉邦への表文を認めた。
韓信を斉王位につけるよう要求する……この重大な任務を託されたのは、西魏の能臣、周叔。
周叔は、表文を持って滎陽へと出発した。
*
周叔は、滎陽に到着すると、すぐに漢王劉邦に謁見して、表文を奉った。
さて、劉邦がその表文を開いてみると……
『漢の大元帥臣韓信、稽首頓首して上言す。
主の存在なしに国を統治するのは、難しいものです。
なぜなら、民を服従させるためには、権力によって人々をまとめる必要があるからです。
臣は、漢王様の威光を仰ぎ、行く先々から戦勝をご報告してまいりました。
つい先日も、濰水において龍沮を斬り、斉王田広を捕らえました。
このように、軍威は十分に振るいましたが、まだまだ民衆の心は落ち着いておりません。
古より、斉は変事と詐りの多い国と言われております。
斉人たちは、表向き我らに従っているようでも、裏切りを繰り返します。
そのため、なかなか情勢が安定せず、反乱の恐れが拭えません。
そこで、お願いがございます。
臣に、斉王の印章を、お貸しくださらないでしょうか?
しばらくのあいだ臣が仮王……つまり仮の王となり、斉の情勢を鎮めます。
そうして民衆の心が安定したなら、すぐに楚討伐の兵を出して、漢王様に合流いたします。
さすれば、天下の国境は安定し、海から山まで全世界が帰服して漢の領土となり、世は安らぎの時を迎えるでしょう。
臣が勝手に事を進めてはいけませんので、お願いの表文を奉りました。
なにとぞ、よろしくお願いいたします――不宣』
劉邦は、表を読み終わると、顔色を変えて大激怒した。
「あ……あのクソガキィーッ!
俺をナメてやがんのか!?
俺が、こんなにも長いあいだ苦しい戦いを続けて困り果て、どうか早く助けに来てほしいと昼も夜も願い続けてるって時に、言うに事欠いて『仮王になりたいです』だあーっ!?」
と、そのとき。
すかさず、軍師張良と謀士陳平が、劉邦のそばに踊り出て……
ギュッ!
と、左右から劉邦の足を踏みつけた。
「フギャッ」
と劉邦が悲鳴を上げる。
張良は、劉邦の耳元に口を近づけ、小声で、ささやいた。
「漢王様は、楚の郡県を数十ほど手に入れなさいましたが、まだ勝利したわけではありません。
項羽は今も広武山に駐屯し、漢を攻めようと計略を練っているのです。
戦況は、むしろ我らに不利。
韓信の『斉王になりたい』という望みを拒否できるでしょうか?
彼の望みどおりに快く斉王として立ててやれば、韓信は大いに喜び、ますます漢王様のために心と力を尽くして戦うでしょう。
逆に、韓信の王位を認めなければ、最悪の場合は韓信が漢から離反することさえ考えられます。大きな患いを1つ増やす結果になりかねないのですよ」
劉邦は、ハッ……と顔色を変えた。
もともと劉邦は、臣からの諌言を受け入れて、流水のように柔軟に動きを変えられる男である。
劉邦は、すぐに張良たちの正しさを悟り……周叔を睨んで、また罵りだした。
「おい周叔! テメエふざけてんのかっ!?
大丈夫(立派な男)が天下を平定して諸侯を征服しようってェのに、仮たァなんだ、仮たァ!
斉に戻ったら韓信に言っとけ!
『仮王とかケチくせえこと言ってないで、今すぐ真王になれ!』ってな!
すぐに勅書を書いて、韓信を東斉王に封じるぞ!
勅書と王の印章を臨淄に届ける役は……張良先生、お願いできる?」
さすがは劉邦、見事な対応だった。
すでに罵声は吐いてしまったから、それと辻褄が合うように言葉を繕いつつ、張良の諌言にもしっかり従ってみせたのだ。
張良は、にっこりと微笑んだ。
「はい。お任せください」
(つづく)