『斉王に封じてほしい』
という韓信からの無心は、要求通り韓信を王とする、ということで決着した。
その話が済んだところで、劉邦は、周叔を近くに呼び寄せた。
「ところで、周叔よう……
酈生が斉で煮殺されたと聞いた。
本当なのか? 一体、何があったんだ……?」
「は……それは……」
周叔は、ずっと韓信のそばで働いてきて、戦の一部始終をその目で見ていたのだ。
周叔は語った。
酈生と交わした往復2通の書簡。
その後の斉軍との戦いの経過。
燈籠を吊って龍沮を斬った顛末。
そして、斉王田広を捕らえたこと……
劉邦は、全てを聞き終えると、口惜しさに地団駄を踏み、痛恨の溜息をついた。
「酈生は、高陽城で初めて会ったときから、俺の行くところ全てに着いてきて、何度も大きな功績を立ててくれた……
俺はもう、ややこしい仕事は、なんでもかんでも酈生に頼りっぱなしでさあ……
まだ酈生の働きにひとつも報いてやれてないってのに、田広なんかに煮殺されてしまうとは……
ああ、かわいそうになあ……惜しい人を亡くしたなあ……
そうだ。せめて、これだけは、やっておかないと……」
劉邦は、涙ぐみながら、記録官を呼び出した。
「今から酈生の功績を挙げていくから、全部記録しといてくれ。
いつか俺が天下を取ったら、みんなの論功行賞をすることになるだろ?
そのとき、酈生が働いてくれたぶんは、酈生の子孫に爵位を与えて報いようと思ってさ。そのための記録だよ。
いいか、まず……」
こうして劉邦は、今までの酈生の働きを、一から十まで余すところなく記録に残していったのだった。
*
さて、それから数日後。
軍師張良は、劉邦の使者として斉の都臨淄を訪れた。
張良は、韓信と対面し、お互いに礼をし終えると、さっそく本題を切り出した。
「韓信大元帥。
あなたは漢王様に表を上げ、仮王となるべく斉王の印章を求めなさいましたね。
漢王様は、大元帥が趙を破り斉を下したその功績の甚だ大なるを鑑み、こう仰いました。
『なんで仮なんだ?
すぐに真王になれ!』とね。
そこで漢王様は、大元帥を斉王に封じるため、私に印章を預けて遣わしたのです。
大元帥。さっそく王位に上りなさって、三斉を鎮撫し、諸侯を征服してくださいませ。
そのうえで、お早く軍馬を整えて成皋を困窮から救い、さらには楚を滅ぼして、漢の天下を確立していただきたい。
さすれば、大元帥もまた、座して太平を享受する立場に上ることができましょう」
これを聞いて、韓信は驚きに身を震わせた。
韓信は、震えの止まらぬ手で斉王の印章を受け取り、劉邦からの勅書を開いて読み始めた。
『国を建てて諸侯と親しむことは、天下を繋ぎ合わせて統治を成すために作られた、夏・殷・周の三代国家から続く制度である。
大元帥韓信は、すばらしい功績をあげ、天下の国境争いを平定した。
これはまさしく世に並びなき勲功であり、鐘や鼎に刻んで後世に伝えるべきことである。
いま新たに破った斉の地は、はなはだ征服しにくい国だ。
高い爵位と重い権限がなければ、どうして部下の群れに号令することができようか?
そこで、ここに韓信を斉王に封じ、斉の地を治めさせ、東方を安定させることにする。
斉王韓信よ。あらためて人馬を整え、期日を定めて我らに合流せよ。
力を合わせて、ともに楚を討とうではないか。
謹んで、我が命を受けよ! 故諭』
韓信は、勅書を読み終え、天を仰いだ。
「王……
この私が、王に……!」
感無量だった。
かつては、その日の食事を人に乞うほどの貧乏暮らしをしていた韓信。
己の才覚を世に認められたい、実力によって成り上がりたいと、切実に願い続けてきた韓信。
その韓信が今、ついに、一国の王の位を掴んだ。
韓信は、劉邦のいる南の方角に向き直り、心からの感謝の言葉を投げかけた。
そして、何日もかけて張良を饗応(もてなし)し、漢軍の大将たちからも斉王即位祝賀の挨拶を受けた。
数日後。
張良は、役目を終えて滎陽に帰ることになった。
その別れ際、張良は、韓信に言った。
「漢王様は、お父上が楚に囚われ続けていることを、日夜悲しんでおられます。
さらに、また項羽が成皋攻撃を準備している、との情報を耳にして、ますます不安を感じていらっしゃいます。
斉王様。
なにとぞ、兵を起こして楚と戦い、漢王様の父太公を救出してくださいませ。
可能な限り早くお願いします。遅れてはなりませんよ」
斉王様、と張良は言った。
今や、その称号は、韓信のものなのである。
韓信は、力強く、うなずいた。
「はい。すぐに各郡県に通達して兵を集め、1旬(10日)以内には出発いたします。
張良先生、滎陽にお帰りになったら、漢王様に、よろしくお伝えください」
さらに韓信は、周叔を使者として、張良と一緒に滎陽へ向かわせ、劉邦に感謝の言葉を述べさせた。
張良と周叔が斉から去っていった後。
韓信は、吉日を選んで斉王の宮殿に昇り、冕旒(王の冠に垂らす飾り)を用意し、大小百官からの祝賀を受け、即位の儀式を行ったのだった。
*
こうして、ついに高貴なる王の位に登りつめた韓信だが……
これは、本当に喜ぶべきことだったのだろうか。
韓信は、まさしく智謀の大将である。
しかし、蒯徹の甘い言葉に惑わされ、斉王の位を要求してしまった。
漢王劉邦が韓信の即位を認めたのは、項羽と雌雄を争っている最中だったからだ。
やむをえず認めはした。だが、内心穏やかではない。
韓信は、急ぎすぎたのだ。
目の前の富貴を得ることばかりに気を取られ、やがて来たるべき大いなる禍を想像することができなかった。
かつて劉邦が睢水で壊滅的な大敗を喫したとき、韓信は救出に行こうとしなかった。
成皋で劉邦が包囲されたときも、危機的状況だったが、韓信は救援に来なかった。
そして今、天下を賭けて項羽と激戦を繰り広げている時に、韓信は劉邦の足元を見て王位を要求した。
劉邦は、忘れていない。
このとき点った不信の火は、劉邦の胸の中で燻ぶり続け……やがて、恐るべき事件を引き起こすことになるのである。
*
それはさておき、こちらは楚の都、彭城。
龍沮麾下の斉救援軍は、韓信によって粉砕され、命からがら彭城に帰還してきた。
彼ら敗軍の兵は語った。
韓信が龍沮を斬り、副将周蘭を追い払い、楚軍を大いに打ち破ったこと。
斉王を捕らえ、相国田横らを蹴散らして、ついに斉の70余城を乗っ取ったこと。
そして今、斉の都臨淄に大軍を集め、漢王劉邦と合流して楚に攻め込もうと動いていること……
項羽は、報告を聞き終えて肝を冷やし、急いで叔父項伯と大将鍾離昧を呼んだ。
「まさか、龍沮ほどの強者が斬られるとは……
韓信が、ここまで上手く兵を用いるとは思わなかった。
劉邦の方も、滎陽・成皋に大軍を駐屯させて、ものすごい勢力になっている。
北の韓信と西の劉邦、両方と同時に戦うのは無理だ。
それで考えたんだが、誰か弁舌に優れた者を派遣して、韓信を説得し、楚に復帰させられないだろうか?
ただ、この使命を任せられる人材に心当たりがないんだ。
叔父上、鍾離昧、いい人物を知らないか?」
鍾離昧は、うなずいた。
「よいお考えと思います。
臣も、まさに同じ案を検討しておりました。
この計が実現すれば、まさに社稷の洪福、国家にとっての大いなる幸いというものでしょう。
韓信は、もともと楚の臣でした。
楚に復帰してくるのも、至極自然です。
成功の可能性は、十分にあるかと」
項伯も、うなずいた。
「私も同意です。
肝心の人材についてですが、今、我が方に、大夫の武渉という男がおります。
知恵では高名な縦横家蘇秦をも上回り、弁舌では孔子の直弟子子貢をも超える、というほどの人物。
覇王陛下、この武渉を使者として、斉に派遣してはいかがでしょう?
きっと韓信を楚に復帰させ、陛下の憂いを解消してくれるものと思います」
「よし!」
項羽は喜び、すぐに贈り物の金と絹を準備して、武渉を呼んだ。
「武渉よ。
汝は臨淄に行け。
韓信を説得して、こちらへ帰服させるんだ!」
(つづく)