楚の説客武渉は、
「韓信を説得して、味方に引き入れよ!」
との命を受け、すぐに従者を連れて、斉の都臨淄へ向かった。
武渉は、臨淄に到着すると、韓信のもとを訪れ、謁見を求めた。
韓信は、武渉が来たと聞いて、目を細めた。
「武渉といえば、弁舌に優れた男だ。私を口説いて楚に帰服させようという意図だろうな。
まあいい。迎え入れよ!」
武渉は、韓信の前へ通された。
武渉は型どおりの挨拶を済ませると、まず、項羽から預けられた金や絹を献上し、韓信の斉王即位を祝賀した。
韓信が冷たく言う。
「大夫武渉よ。
私は、かつて大夫と同じく、一国の臣として楚に仕えていた。
しかし今は、それぞれ異なる主に仕える敵同士だ。
こんな贈り物を頂戴するいわれは無いと思うが?」
武渉は、静かに微笑んだ。
「あなた様は、今や百万の軍勢を統率する一国の王であらせられます。
その武威と人徳によって、遠方から近隣まで、誰もが畏れ敬服しております。
私がここへ参ったのは、斉王韓信様が楚の臣でいらっしゃったからではありません。
こうして贈り物をし、祝賀の言葉を述べたのは、すべて覇王項羽のご意志によるもの。
覇王様は、斉王様の高名を仰ぎ、かつて斉王様を冷遇してしまった罪を清算したいとお考えです。
そのうえで、楚斉両国の好を結び、斉王様と共に無窮の富貴を享受したい、と……」
韓信は、笑みを浮かべた。
「人として高貴を極めるという意味では、王を上回る地位はない。
私は、すでに斉王となった。
人臣として究極の位についているのだ。
これ以上、ほかに何を求める必要があろうか」
これを聞くと、武渉は突然、声を上げて笑い始めた。
「はははは……
これはおかしい。斉王様ともあろうお方が、そのように甘い考えをお持ちとは。
斉王様が、私の言葉にお従いあそばされれば、王位を長く保つこともできましょう。
しかし、私の言葉に従わなければ、今日たとえ楚を滅ぼしなさったとしても、明日は今の位に留まっていられなくなりますぞ」
韓信が、わずかに表情を固くする。
「……どういうことだ?」
武渉が言う。
「覇王様が私をここへ遣わしたのは、斉王様と連携し、三分天下、三国鼎立を成しとげるためです。
つまり中国を3つに分割し、東の楚、西の漢、北の斉の三国を並立させようというのです。
こうして三国が並び立てば、互いに国境を侵害することも難しくなり、情勢は安定いたします。
斉王様は、策略においては覇王、漢王を凌ぐ能力をお持ちだ。
そえゆえ、私の言葉に従えば、楚漢両国を抑えながら富貴を保つことが可能である、と申し上げたのです。
斉王様の見立ては、いかがでございますか?」
韓信は、低く、うなった。
「三分天下、か……
なるほど、一理ある。面白い考えだ。
だがな。
心の中でよく思い出してみれば、私が昔、楚で覇王に仕えていたとき、官職は郎中(側仕え)にすぎず、位階は執戟(護衛)にすぎなかった。
私の言葉は聞いてもらえず、私の計は用いてもらえなかった。
だから私は楚を去り、漢王様に帰服したのだ。
漢では、なにもかもが覇王の下にいた時とは違っていた。
漢王様は、私に大元帥の印章を授け、何万という軍勢を統率させてくださった。
ご自身の衣服を脱いで私に着せ、ご自身の食事を私に分け与えてくださった。
私が言えば耳をかたむけ、私が計略を提案すれば従ってくださった。
こうして斉王の位につくことができたのも、漢王様が活躍の場を与えてくださったおかげなのだ。
漢王様が、これほどまでに私を信頼してくださっているのに、漢に背いて楚に帰服することなど、できるはずがない。
たとえこの身が砕け、骨が粉となっても、私の気持ちは変わらない。
武渉大夫よ。手数をかけるが、彭城に帰って覇王に伝えていただきたい。
『お気持ちだけは、ありがたく頂戴しておく』とな」
結局、韓信は、贈り物の金と絹を、そのまま武渉に突き返してしまった。
武渉は、どうやっても韓信の気持ちを変えることができず、とうとう、諦めて楚に帰って行った。
*
さて……
武渉と韓信のやりとりを、そばで聞いていた者がいた。
韓信の部下、蒯徹である。
これまでも、たびたび述べたが、蒯徹は韓信の強烈な信奉者である。
蒯徹は信じていた。やがて天下をその手に掴むのは、劉邦でも項羽でもない、韓信であると。
そこで蒯徹は、韓信の近くに寄り、こう言った。
「斉王様。
臣は、かつて1人の異人(仙人、妖術師)と出会い、人相を読む術を伝授されました。
その術によって斉王様のお顔を拝見いたしますと、どうやら斉王様は、王侯に封ぜられただけで終わる運命にはないようです。
また、斉王様の背中を見ますと、その貴さは言葉にもできないほどであると分かります」
韓信は苦笑した。
「いきなり何を言いだすんだね、蒯徹先生」
蒯徹が、言う。
「いや、冗談や遊びで申しているのではありませんぞ。
そもそも、この戦いは、秦の苛酷な政治を憂えたところから始まりました。
しかし今や、楚と漢が分かれて争い、自分こそ天下の支配者であろうとしております。
大地は人々の血と臓物に塗れ、幾千万もの骸が野に晒され、それでも戦争は終わらない。
楚の項羽は、力まかせに5国を席巻し、天下に武威を振るっております。
しかし西の山中から敵に迫られ、それから3年、全く領土を取り返せていない。
一方の漢王劉邦は、成皋や滎陽といった要地を押さえ、山河を利用しながら、日夜、苦戦を続けておりますが、こちらも一尺・一寸ほどの戦果も得られておりません。
つまり、今は覇王、漢王が双方ともに困窮している時期。
ここから事態がどう動くかは、斉王様、あなたにかかっているのです!
よいですか。
武渉が申した三分天下・三国鼎立は妙案です。
漢楚どちらの陣営にも協力し、両国が共存するように仕向けるのです。
その間に、斉王様は、強国斉の国力を活かして燕や趙を支配下に置く。
その後、平和を望む民衆の声に従って西に軍を向ければ、天下の流れは響くように呼応して斉王様に従うでしょう。
古の人も、『天が与えたものを受け取らなければ、逆に苦しみを受ける。好機が来たのに行わなければ、逆に災いを受ける』と申しております。
どうか、よくお考え下さい。
この機会を逃してはなりません!」
韓信は顔色を変えた。
「なにを馬鹿な……
漢王様は、私を甚だ厚く待遇してくださっている。
自分の利益のために漢王様を裏切るなど、義に背くことだ。できるはずがないだろう」
しかし蒯徹は一歩も退かない。むしろ、いっそう語気を強めて、まくしたてた。
「昔、張耳と陳余は『お互いのためなら頸を刎ねられてもかまわない』という、刎頸の交わりを結んだそうですな。
しかし、陳余が張耳の部下を謀殺したとかしないとかで口論となり、とうとう張耳は陳余を殺して、頭と足の置き場所を別々にしてしまった。(首を刎ねた、の意)
その顛末は、私などが、くだくだ説明するまでもなく、斉王様ご自身が間近で見ておられたでしょう?
(第五十四回参照)
斉王様と漢王の交わりは、張耳・陳余の2人ほど親しくは、ありますまい。
そして、部下の死よりも重大な利害の衝突が、斉王様と漢王の間にはあるはずです。
それゆえに、臣は、ひそかに心配しておりました。
斉王様は、漢王から危害を加えられることなど無い、と考えておいでですが、それは誤りです。
古より、『野獣すでに尽きて、猟狗煮らる』と申します。
野原から獣がいなくなれば、不要になった猟犬は煮て食べられてしまう……
どうか、このことをよくお考えください!
主君を震え上がらせるほど勇気と策略に優れた者は、かえって身が危うくなる。
天下を覆い尽くすほどの功績をあげた者は、逆に恩賞を受け取れなくなる。
斉王様は、まさに主君を震えさせるほどの武威と、恩賞を受け取れなくなるほどの功績を持っていらっしゃるのです。
これで平穏無事に乗り切れるとでも思っていらっしゃるのですか?」
韓信は、思わず立ち上がった。
「待て!
蒯徹先生、待ってくれ。
私は……少し、考えてみる」
(つづく)