龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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六十二の丙 劉邦の足をギュッと踏み

 

 

 楚(そ)の説客(せっかく)武渉(ぶしょう)は、

「韓信を説得して、味方に引き入れよ!」

 との命(めい)を受け、すぐに従者を連れて、斉(せい)の都(みやこ)臨淄(りんし)へ向かった。

 

 武渉(ぶしょう)は、臨淄(りんし)に到着すると、韓信のもとを訪(おとず)れ、謁見(えっけん)を求めた。

 

 韓信は、武渉(ぶしょう)が来たと聞いて、目を細めた。

「武渉(ぶしょう)といえば、弁舌(べんぜつ)に優れた男だ。私を口説(くど)いて楚(そ)に帰服させようという意図だろうな。

 まあいい。迎え入れよ!」

 

 武渉(ぶしょう)は、韓信の前へ通された。

 武渉(ぶしょう)は型どおりの挨拶(あいさつ)を済ませると、まず、項羽から預けられた金(きん)や絹(きぬ)を献上し、韓信の斉(せい)王即位を祝賀した。

 

 韓信が冷たく言う。

「大夫(たいふ)武渉(ぶしょう)よ。

 私は、かつて大夫(たいふ)と同じく、一国の臣として楚(そ)に仕えていた。

 しかし今は、それぞれ異なる主(あるじ)に仕える敵同士だ。

 こんな贈り物を頂戴(ちょうだい)するいわれは無いと思うが?」

 

 武渉(ぶしょう)は、静かに微笑(ほほえ)んだ。

「あなた様は、今や百万の軍勢を統率する一国の王であらせられます。

 その武威と人徳によって、遠方から近隣まで、誰もが畏(おそ)れ敬服しております。

 

 私がここへ参ったのは、斉(せい)王韓信様が楚(そ)の臣でいらっしゃったからではありません。

 こうして贈り物をし、祝賀の言葉を述べたのは、すべて覇王項羽のご意志によるもの。

 

 覇王様は、斉(せい)王様の高名を仰(あお)ぎ、かつて斉(せい)王様を冷遇してしまった罪を清算したいとお考えです。

 そのうえで、楚(そ)斉(せい)両国の好(よしみ)を結び、斉(せい)王様と共(とも)に無窮(むきゅう)の富貴を享受(きょうじゅ)したい、と……」

 

 韓信は、笑みを浮かべた。

「人として高貴を極めるという意味では、王を上回る地位はない。

 私は、すでに斉(せい)王となった。

 人臣として究極の位(くらい)についているのだ。

 これ以上、ほかに何を求める必要があろうか」

 

 これを聞くと、武渉(ぶしょう)は突然、声を上げて笑い始めた。

「はははは……

 これはおかしい。斉(せい)王様ともあろうお方が、そのように甘い考えをお持ちとは。

 

 斉(せい)王様が、私の言葉にお従いあそばされれば、王位を長く保つこともできましょう。

 しかし、私の言葉に従わなければ、今日たとえ楚(そ)を滅ぼしなさったとしても、明日は今の位(くらい)に留まっていられなくなりますぞ」

 

 韓信が、わずかに表情を固くする。

「……どういうことだ?」

 

 武渉(ぶしょう)が言う。

「覇王様が私をここへ遣(つか)わしたのは、斉(せい)王様と連携し、三分(さんぶん)天下、三国鼎立(ていりつ)を成しとげるためです。

 つまり中国を3つに分割し、東の楚(そ)、西の漢、北の斉(せい)の三国を並立させようというのです。

 

 こうして三国が並び立てば、互いに国境を侵害することも難しくなり、情勢は安定いたします。

 

 斉(せい)王様は、策略においては覇王、漢王を凌(しの)ぐ能力をお持ちだ。

 そえゆえ、私の言葉に従えば、楚(そ)漢両国を抑(おさ)えながら富貴を保つことが可能である、と申し上げたのです。

 斉(せい)王様の見立ては、いかがでございますか?」

 

 韓信は、低く、うなった。

「三分(さんぶん)天下、か……

 なるほど、一理ある。面白い考えだ。

 

 だがな。

 心の中でよく思い出してみれば、私が昔、楚(そ)で覇王に仕えていたとき、官職は郎中(ろうちゅう)(側仕(そばづか)え)にすぎず、位階(いかい)は執戟(しつげき)(護衛)にすぎなかった。

 私の言葉は聞いてもらえず、私の計は用いてもらえなかった。

 

 だから私は楚(そ)を去り、漢王様に帰服したのだ。

 

 漢では、なにもかもが覇王の下にいた時とは違っていた。

 漢王様は、私に大元帥の印章を授(さず)け、何万という軍勢を統率させてくださった。

 ご自身の衣服を脱いで私に着せ、ご自身の食事を私に分け与えてくださった。

 私が言えば耳をかたむけ、私が計略を提案すれば従ってくださった。

 

 こうして斉(せい)王の位(くらい)につくことができたのも、漢王様が活躍の場を与えてくださったおかげなのだ。

 漢王様が、これほどまでに私を信頼してくださっているのに、漢に背(そむ)いて楚(そ)に帰服することなど、できるはずがない。

 

 たとえこの身が砕け、骨が粉となっても、私の気持ちは変わらない。

 武渉(ぶしょう)大夫(たいふ)よ。手数をかけるが、彭城(ほうじょう)に帰って覇王に伝えていただきたい。

 『お気持ちだけは、ありがたく頂戴(ちょうだい)しておく』とな」

 

 結局、韓信は、贈り物の金(きん)と絹(きぬ)を、そのまま武渉(ぶしょう)に突き返してしまった。

 

 武渉(ぶしょう)は、どうやっても韓信の気持ちを変えることができず、とうとう、諦(あきら)めて楚(そ)に帰って行った。

 

 

   *

 

 

 さて……

 武渉(ぶしょう)と韓信のやりとりを、そばで聞いていた者がいた。

 韓信の部下、蒯徹(かいてつ)である。

 

 これまでも、たびたび述べたが、蒯徹(かいてつ)は韓信の強烈な信奉者である。

 蒯徹(かいてつ)は信じていた。やがて天下をその手に掴(つか)むのは、劉邦でも項羽でもない、韓信であると。

 

 そこで蒯徹(かいてつ)は、韓信の近くに寄り、こう言った。

「斉(せい)王様。

 臣は、かつて1人の異人(仙人、妖術師)と出会い、人相(にんそう)を読む術を伝授されました。

 その術によって斉(せい)王様のお顔を拝見いたしますと、どうやら斉(せい)王様は、王侯に封(ほう)ぜられただけで終わる運命にはないようです。

 また、斉(せい)王様の背中を見ますと、その貴(とうと)さは言葉にもできないほどであると分かります」

 

 韓信は苦笑した。

「いきなり何を言いだすんだね、蒯徹(かいてつ)先生」

 

 蒯徹(かいてつ)が、言う。

「いや、冗談や遊びで申しているのではありませんぞ。

 そもそも、この戦いは、秦(しん)の苛酷(かこく)な政治を憂(うれ)えたところから始まりました。

 

 しかし今や、楚(そ)と漢が分かれて争い、自分こそ天下の支配者であろうとしております。

 大地は人々の血と臓物に塗(まみ)れ、幾(いく)千万(せんまん)もの骸(むくろ)が野に晒(さら)され、それでも戦争は終わらない。

 

 楚(そ)の項羽は、力まかせに5国を席巻(せっけん)し、天下に武威を振るっております。

 しかし西の山中から敵に迫られ、それから3年、全く領土を取り返せていない。

 

 一方の漢王劉邦は、成皋(せいこう)や滎陽(けいよう)といった要地を押さえ、山河を利用しながら、日夜、苦戦を続けておりますが、こちらも一尺・一寸ほどの戦果も得られておりません。

 

 つまり、今は覇王、漢王が双方ともに困窮している時期。

 ここから事態がどう動くかは、斉(せい)王様、あなたにかかっているのです!

 

 よいですか。

 武渉(ぶしょう)が申した三分(さんぶん)天下・三国鼎立(ていりつ)は妙案です。

 漢楚(そ)どちらの陣営にも協力し、両国が共存するように仕向けるのです。

 

 その間に、斉(せい)王様は、強国斉(せい)の国力を活かして燕(えん)や趙(ちょう)を支配下に置く。

 その後、平和を望む民衆の声に従って西に軍を向ければ、天下の流れは響くように呼応して斉(せい)王様に従うでしょう。

 

 古(いにしえ)の人も、『天が与えたものを受け取らなければ、逆に苦しみを受ける。好機が来たのに行わなければ、逆に災(わざわ)いを受ける』と申しております。

 どうか、よくお考え下さい。

 この機会を逃(のが)してはなりません!」

 

 韓信は顔色を変えた。

「なにを馬鹿な……

 漢王様は、私を甚(はなは)だ厚く待遇してくださっている。

 自分の利益のために漢王様を裏切るなど、義に背(そむ)くことだ。できるはずがないだろう」

 

 しかし蒯徹(かいてつ)は一歩も退(ひ)かない。むしろ、いっそう語気を強めて、まくしたてた。

「昔、張耳(ちょうじ)と陳余(ちんよ)は『お互いのためなら頸(くび)を刎(は)ねられてもかまわない』という、刎頸(ふんけい)の交(まじ)わりを結んだそうですな。

 

 しかし、陳余(ちんよ)が張耳(ちょうじ)の部下を謀殺したとかしないとかで口論となり、とうとう張耳(ちょうじ)は陳余(ちんよ)を殺して、頭と足の置き場所を別々にしてしまった。(首を刎(は)ねた、の意)

 その顛末(てんまつ)は、私などが、くだくだ説明するまでもなく、斉(せい)王様ご自身が間近(まぢか)で見ておられたでしょう?

(第五十四回参照)

 

 斉(せい)王様と漢王の交(まじ)わりは、張耳(ちょうじ)・陳余(ちんよ)の2人ほど親しくは、ありますまい。

 そして、部下の死よりも重大な利害の衝突が、斉(せい)王様と漢王の間にはあるはずです。

 

 それゆえに、臣は、ひそかに心配しておりました。

 斉(せい)王様は、漢王から危害を加えられることなど無い、と考えておいでですが、それは誤りです。

 

 古(いにしえ)より、『野獣すでに尽きて、猟狗(りょうく)煮(に)らる』と申します。

 野原から獣(けもの)がいなくなれば、不要になった猟犬は煮て食べられてしまう……

 どうか、このことをよくお考えください!

 

 主君を震え上がらせるほど勇気と策略に優れた者は、かえって身が危(あや)うくなる。

 天下を覆(おお)い尽くすほどの功績をあげた者は、逆に恩賞を受け取れなくなる。

 斉(せい)王様は、まさに主君を震えさせるほどの武威と、恩賞を受け取れなくなるほどの功績を持っていらっしゃるのです。

 これで平穏無事に乗り切れるとでも思っていらっしゃるのですか?」

 

 韓信は、思わず立ち上がった。

「待て!

 蒯徹(かいてつ)先生、待ってくれ。

 私は……少し、考えてみる」

 

 

(つづく)




●注釈
 蒯徹(かいてつ)が引用した『天が与えたものを受け取らなければ、逆に苦しみを受ける』という言葉は、「史記・淮陰侯列伝」の当該場面においても蒯徹(かいてつ)によって引用されている。
 「史記・越王句践世家」に越(えつ)国の政治家范蠡(はんれい)の言葉として同様の表現があり、引用元はこちらであろうと思われる。同様に『野獣すでに尽きて、猟狗(りょうく)煮(に)らる』というのも、范蠡(はんれい)の『狡兎(こうと)死して、走狗(そうく)煮(に)らる』という名言を意識した言い回しである。
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