それから、数日が過ぎた。
韓信は、悩んでいた。
もし韓信が無学であれば、こんな悩み方はしなかったかもしれない。
だが、歴史を知る韓信だからこそ、蒯徹の言葉を無視できなかった。
そう。確かに、よくあることなのだ。
多大な功績をあげた能臣が、かえって主君に疎まれて、悲惨な最期を遂げる……
そんな事例が、中国の歴史上には、数え切れないほど存在する。
韓信が、そうならないという保証はない。
だが……だからと言って……
苦悩する韓信の前に、蒯徹は、また姿を現した。
「斉王様。ご決心なさいましたか」
韓信は、青ざめていた。
「いや、それは……」
蒯徹は、さらに声を大にして韓信に迫る。
「情報を聞くことは物事の手がかり。
計略を為すことは物事の要点、でございます。
聞くことを誤り、計略に失敗するようでは、長く安全を保つことはできません。
ゆえに、知恵とは決断することに他ならず、疑いとは物事の障害に他なりません。
毛先ほどの小さな計略を検討ばかりしていては、天下の大いなる流れを見落としてしまう。
どんなに頭で物を知っていても、行動にうつせないようでは、あらゆる物事にとって災いとなるばかりです。
功は成り難くして敗れやすし!
時は得難くして失いやすし!
時だ! 時だ! 二度とは来ない!」
蒯徹の畳みかけるような言葉にも、韓信は口をつぐんだままだった。
韓信は、心の中で思った。
「私は、今まで何度も大功を立ててきた。
そのたびに、漢王様は私を評価してくれた。
漢王様が私を裏切ったことは、一度もないのだ!
その漢王様に背くなんてことは、したくない……」
しかし、そうは言っても蒯徹の言葉をキッパリ却下することもできない韓信なのだった。
と、そのとき。
韓信の部下の中から、1人が大音をあげた。
「斉王様! 蒯徹の言葉を聞き入れてはいけません!
それは人臣の節度を失う行いに他ならない!
この私が、蒯徹を連れて漢王様の前に行き、どちらが正しいかを明白に示してみせましょう!」
蒯徹は、この大声に驚いて、声のしたほうに目を向けた。
声の主は、太中大夫の陸賈だった。
陸賈は、進み出て、さらに言った。
「物事について論じるときには、第1に勢を見て、第2に形を見る。この順序でなければいけません。
たとえ兵力や国土などの外形面で弱くとも、勢いが強いのであれば、本当に弱いとは言えません。
一方、外形のうえでは優っていても、勢いが衰えているなら、それは実際に衰えているのです。
この理論を現在の情勢に照らし合わせれますと、楚は優っているようでいて、それは外形が優っているだけです。
漢は弱いかのように見えますが、これもまた外形上で弱いだけです。
大元帥は今、この両者に挟まれて、どうすべきか決断できずにいらっしゃる。
漢王様は、確かに最近、目に見えた戦果をあげられていません。
しかし、すでに天下の勢いは8割から9割ほども漢王様の側に傾いていて、人の心は次々に漢王様に集まり、天もまた無言で漢王様を援助しております。
漢王様の臣を見ますと、蕭何は宰相の才能を持ち、まじめに忠義を尽くして、決して二心を抱かない。
張良や陳平は、古の兵法家孫子・呉子に並ぶ知恵を持ち、その臨機応変の策略は予測しがたいものです。
加えて、英布、彭越、樊噲には一騎当千の武勇あり。
周勃、王陵、灌嬰のような万夫不当の大将たちは数しれず。
漢王様の福徳は綿々と連なり、1万世代先まで揺らぐことのない新体制の基盤は、すでに出来上がっているのです。
にもかかわらず……蒯徹! 汝はこうした現状を観察もせず、その場かぎりの巧みな口舌を振るって、大元帥を漢に背かせようとしている!
大元帥が汝の言葉に従えば、『虎を描きて成らず、かえって犬に類す』の喩えの通りになるだろう。
虎を描こうという壮大な計画に手をつけたとしても、結局うまくいかず、犬のような絵になってしまうのがオチだ。
これが誤りでなくて、なんだというのだ!」
陸賈といえば、漢で最も弁舌に優れた男である。
その陸賈からの痛烈な批判。
蒯徹は完全に圧倒され、酔っぱらいか愚か者のように狼狽えて、一言も反論できなくなってしまった。
蒯徹は、心の中で考えた。
「陸賈め……余計なことを言ってくれたものだ。
韓信大元帥も、どうやら私の計を受け入れる気は無いようだ。
いかんな……
これでは、韓信以前に、私の命が危うい。
仮に韓信に従って楚討伐で功労を立てたとしても、誰かが今回の話を劉邦の耳に入れたら……?
私は酈生のように煮殺されてしまうだろう。
それは太陽を指さして見るくらいに明らかなことだ」
そこで蒯徹は……突然、
「うひははへほへはひょひょ!」
と、狂ったように笑いだした。
「か、蒯徹? いきなりどうした?」
と、朝廷の人々が呆気に取られて見守る中、蒯徹は笑いながら歌を歌い、踊るように市街へと走り出て行った。
誰も彼もが呆然、唖然。
なにがなんだか分からない。
ざわつく朝廷にあって、ただ1人、韓信だけが蒯徹の真意を悟っていた。
「そうか……蒯徹よ。
発狂を装って、漢王様からの追及を躱そうというのだな」
蒯徹は、韓信に謀反を勧めたのだ。発狂していれば見逃されるかもしれないが、もし本当は正気だとバレたら、ただでは済まない。
だから韓信は、何も言わなかった。
無言のまま、蒯徹がどこへともなく消えていくのを、どこか寂しげに見送ったのだった。
*
その後、韓信は、即座に大小の将兵全員へ戦支度を命令した。
そして、漢王劉邦と合流して楚を討伐すべく、大軍を率いて滎陽へと出発したのである。
(つづく)
■次回予告■
韓信調略、あえなく失敗。いらだつ覇王の矛先が憎き劉邦に向けられて、またも激突する漢楚両軍。
口は達者でも力じゃ勝てぬ。追い込まれいく劉邦は、矢の雨に降られてあえなく負傷。痛い。苦しい。もう泣きたい。それでも休んじゃいられないのが人の上に立つ者の悲しさ。さあ漢王よ、胸を張れ。
次回「龍虎戦記」第六十三回
『王者はつらいよ』
乞う、ご期待!