龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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六十二の丁 劉邦の足をギュッと踏み

 

 

 それから、数日が過ぎた。

 

 韓信は、悩んでいた。

 もし韓信が無学であれば、こんな悩み方はしなかったかもしれない。

 だが、歴史を知る韓信だからこそ、蒯徹(かいてつ)の言葉を無視できなかった。

 

 そう。確かに、よくあることなのだ。

 多大な功績をあげた能臣が、かえって主君に(うと)まれて、悲惨な最期を()げる……

 そんな事例が、中国の歴史上には、数え切れないほど存在する。

 

 韓信が、そうならないという保証はない。

 だが……だからと言って……

 

 苦悩する韓信の前に、蒯徹(かいてつ)は、また姿を現した。

(せい)王様。ご決心なさいましたか」

 

 韓信は、青ざめていた。

「いや、それは……」

 

 蒯徹(かいてつ)は、さらに声を大にして韓信に迫る。

「情報を聞くことは物事の手がかり。

 計略を為すことは物事の要点、でございます。

 聞くことを(あやま)り、計略に失敗するようでは、長く安全を保つことはできません。

 

 ゆえに、知恵とは決断することに他ならず、疑いとは物事の障害に他なりません。

 毛先ほどの小さな計略を検討ばかりしていては、天下の大いなる流れを見落としてしまう。

 どんなに頭で物を知っていても、行動にうつせないようでは、あらゆる物事にとって(わざわ)いとなるばかりです。

 

 功は()(がた)くして敗れやすし!

 時は()(がた)くして失いやすし!

 (とき)だ! (とき)だ! 二度とは()ない!」

 

 蒯徹(かいてつ)(たた)みかけるような言葉にも、韓信は口をつぐんだままだった。

 

 韓信は、心の中で思った。

「私は、今まで何度も大功を立ててきた。

 そのたびに、漢王様は私を評価してくれた。

 漢王様が私を裏切ったことは、一度もないのだ!

 その漢王様に(そむ)くなんてことは、したくない……」

 

 しかし、そうは言っても蒯徹(かいてつ)の言葉をキッパリ却下(きゃっか)することもできない韓信なのだった。

 

 と、そのとき。

 韓信の部下の中から、1人が大音(だいおん)をあげた。

(せい)王様! 蒯徹(かいてつ)の言葉を聞き入れてはいけません!

 それは人臣(じんしん)の節度を失う行いに他ならない!

 この私が、蒯徹(かいてつ)を連れて漢王様の前に行き、どちらが正しいかを明白に示してみせましょう!」

 

 蒯徹(かいてつ)は、この大声に驚いて、声のしたほうに目を向けた。

 声の主は、太中(たいちゅう)大夫(たいふ)陸賈(りくか)だった。

 

 陸賈(りくか)は、進み出て、さらに言った。

「物事について論じるときには、第1に(せい)を見て、第2に(けい)を見る。この順序でなければいけません。

 

 たとえ兵力や国土などの外形面で弱くとも、勢いが強いのであれば、本当に弱いとは言えません。

 一方、外形のうえでは(まさ)っていても、勢いが(おとろ)えているなら、それは実際に(おとろ)えているのです。

 

 この理論を現在の情勢に照らし合わせれますと、()(まさ)っているようでいて、それは外形が(まさ)っているだけです。

 漢は弱いかのように見えますが、これもまた外形上で弱いだけです。

 

 大元帥は今、この両者に挟まれて、どうすべきか決断できずにいらっしゃる。

 

 漢王様は、確かに最近、目に見えた戦果をあげられていません。

 しかし、すでに天下の勢いは8割から9割ほども漢王様の(がわ)に傾いていて、人の心は次々に漢王様に集まり、天もまた無言で漢王様を援助しております。

 

 漢王様の臣を見ますと、蕭何(しょうか)宰相(さいしょう)の才能を持ち、まじめに忠義を尽くして、決して二心(ふたごころ)を抱かない。

 

 張良や陳平(ちんぺい)は、(いにしえ)兵法家(へいほうか)孫子・呉子に並ぶ知恵を持ち、その臨機応変の策略は予測しがたいものです。

 

 加えて、英布、彭越(ほうえつ)樊噲(はんかい)には一騎当千の武勇あり。

 周勃(しゅうぼつ)、王陵、灌嬰(かんえい)のような万夫(ばんぷ)不当(ふとう)の大将たちは数しれず。

 

 漢王様の福徳は綿々(めんめん)(つら)なり、1万世代先まで揺らぐことのない新体制の基盤は、すでに出来上(できあ)がっているのです。

 

 にもかかわらず……蒯徹(かいてつ)! 汝はこうした現状を観察もせず、その場かぎりの(たく)みな口舌(こうぜつ)を振るって、大元帥を漢に(そむ)かせようとしている!

 

 大元帥が汝の言葉に従えば、『虎を描きて成らず、かえって犬に類す』の(たと)えの通りになるだろう。

 虎を描こうという壮大な計画に手をつけたとしても、結局うまくいかず、犬のような絵になってしまうのがオチだ。

 これが(あやま)りでなくて、なんだというのだ!」

 

 陸賈(りくか)といえば、漢で最も弁舌(べんぜつ)に優れた男である。

 その陸賈(りくか)からの痛烈な批判。

 蒯徹(かいてつ)は完全に圧倒され、酔っぱらいか愚か者のように狼狽(うろた)えて、一言も反論できなくなってしまった。

 

 蒯徹(かいてつ)は、心の中で考えた。

陸賈(りくか)め……余計なことを言ってくれたものだ。

 韓信大元帥も、どうやら私の計を受け入れる気は無いようだ。

 

 いかんな……

 これでは、韓信以前に、私の(いのち)(あや)うい。

 

 仮に韓信に従って()討伐(とうばつ)で功労を立てたとしても、誰かが今回の話を劉邦の耳に入れたら……?

 私は酈生(れきせい)のように煮殺(にころ)されてしまうだろう。

 それは太陽を指さして見るくらいに明らかなことだ」

 

 そこで蒯徹(かいてつ)は……突然、

「うひははへほへはひょひょ!」

 と、狂ったように笑いだした。

 

「か、蒯徹(かいてつ)? いきなりどうした?」

 と、朝廷の人々が呆気(あっけ)に取られて見守る中、蒯徹(かいてつ)は笑いながら歌を歌い、踊るように市街へと走り出て行った。

 

 誰も彼もが呆然、唖然(あぜん)

 なにがなんだか分からない。

 

 ざわつく朝廷にあって、ただ1人、韓信だけが蒯徹(かいてつ)の真意を悟っていた。

「そうか……蒯徹(かいてつ)よ。

 発狂を(よそお)って、漢王様からの追及(ついきゅう)(かわ)そうというのだな」

 

 蒯徹(かいてつ)は、韓信に謀反(むほん)(すす)めたのだ。発狂していれば見逃(みのが)されるかもしれないが、もし本当は正気だとバレたら、ただでは済まない。

 

 だから韓信は、何も言わなかった。

 無言のまま、蒯徹(かいてつ)がどこへともなく消えていくのを、どこか寂しげに見送ったのだった。

 

 

   *

 

 

 その後、韓信は、即座に大小の将兵全員へ(いくさ)支度(じたく)を命令した。

 そして、漢王劉邦と合流して()討伐(とうばつ)すべく、大軍を(ひき)いて滎陽(けいよう)へと出発したのである。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

■次回予告■

 

 韓信調略、あえなく失敗。いらだつ覇王の矛先が憎き劉邦に向けられて、またも激突する漢()両軍。

 口は達者でも力じゃ勝てぬ。追い込まれいく劉邦は、矢の雨に降られてあえなく負傷。痛い。苦しい。もう泣きたい。それでも休んじゃいられないのが人の上に立つ者の悲しさ。さあ漢王よ、胸を張れ。

 

 次回「龍虎戦記」第六十三回

 『王者はつらいよ』

 

 ()う、ご期待!




●注釈
 蒯徹(かいてつ)の『(とき)だ! (とき)だ! 二度とは()ない!』という言葉は、「西漢通俗演義」では『時乎時乎不再来』と表記されている。「史記・淮陰侯列伝」の当該場面では『時乎時、不再来』である。
 中国語では『(シー)(フー)(シー)(フー)()(ザイ)(ライ)』のように読み、畳みかけるようなリズムの言い回しになっている。本編では、このリズム感をなるべく保てるようにと考えて訳してみた。
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