中国中央部、漢軍の拠点、滎陽。
漢王劉邦は、この滎陽に留まりながら、日夜、思い悩んでいた。
劉邦の父、太公のことが気がかりだったのだ。
太公をはじめとする劉邦の一族は、今、覇王項羽に囚われている。
家族思いの劉邦は、どうにか太公たちを取り戻したいと思っていたが、その方法が見当たらない。
そこであるとき、劉邦は、軍師張良と謀士陳平を呼んだ。
「俺の一族は、楚の都彭城に捕らえられたままだ。
俺はもう、ずっと心配で、少しも気持ちが安らがないんだ。
もし親父が殺されてしまったら……
たとえ天下を手に入れたとしても、俺は1日だって生きていられないよ!
張良先生、陳平、何か良い策はないか?
親父を帰国させられたら、この世に2つとない最高の功績になるぞ」
しかし、張良ほどの知恵者でさえ、ただ首を振ることしかできなかった。
「それは難しゅうございます。
項羽は、太公を人質としているのです。どうして手放すことなどありましょうか。
ただ……
戦場において項羽に大打撃を加え、項羽が疲れ果てて心が弱った時に、使者を送って講和をもちかければ、その交渉次第で太公を取り戻すことも可能かと」
劉邦は、腕を組んで、うなった。
「うーん、そっかあ……
でも、その『項羽に大打撃』ってとこが、一番難しいんだよなあ……」
と、そのとき。
劉邦の元へ、報告が飛び込んできた。
「ただいま、蕭何相国が、関中よりお越しになりました。
北蕃の軍勢と、1人の蕃将を連れてきておられます」
蕃とは、中国の外に住む異民族のことを指す。
中国の東西南北には、古くから異民族が住んでいる。蕭何は、北方の異民族を味方につけ、その軍勢を案内してきたのである。
劉邦は喜んだ。
「おお! 蕃軍が応援に来てくれたのか!
これなら、ぜったい楚を破れるぞ!」
劉邦は、すぐに蕭何たちを呼び寄せた。
蕭何は、蕃将を連れて、劉邦の前にやってきた。
お互いにきちんと礼を交わすと、劉邦が問う。
「その蕃将は、どこから来てくれたんだ?」
蕭何が言う。
「この蕃将、姓は婁、名は煩と申しまして、遥か北の異民族、北貉燕の人でございます。
婁煩は、漢王様の人徳を慕って都咸陽へ来て、楚を破る戦いに合力したいと願い出てくれました。
そこで、臣がよく審査したうえで、兵糧輸送でこちらへ来るついでに婁煩を連れて参ったのです。
婁煩は、騎射が大変に得意で、万夫不当の武勇を持っております」
劉邦は、婁煩の体つきを、じっくりと見た。
婁煩の身長は、実に1丈(約225cm)。顔面も、見るからに獰猛そうだ。
劉邦は喜んだ。
「いいなあ。強そうだ!」
劉邦は、衣服1着と金100両を婁煩に賜り、それから重く用いるようになった。
*
ちょうどその頃。
項羽は、強力な部下であった龍沮を韓信に討ち取られ、また武渉を使者として韓信を味方につける工作も失敗に終わり、極限までイラだちを募らせていた。
とはいえ、韓信は、あくまで漢の手先にすぎない。
騒乱の大本は、漢王劉邦のほうである。
そこで項羽は、戦の元を断つべく人馬を整え、急速に滎陽方面へと接近してきた。
漢の間者は、この動きを察知し、すぐに劉邦に報告した。
その報告によれば、楚軍の数は実に10万。
長きにわたる戦に、今回で決着を付けようという勢いであるらしい。
劉邦は大いに驚き、群臣を集めて会議を行った。
その会議の場で、蕭何が申し出た。
「このたび味方に参加しました蕃将婁煩。彼に正面から楚と対決させてはいかがでしょう。
さらに王陵などの諸将が側面から婁煩を支援し、皆で協力して敵を叩くのです。
そうして敵を食い止めている間に、韓信も到着するでしょう。
その後で、韓信と我らで前後から挟撃すれば、たとえ覇王項羽といえども破れぬはずがありません」
「よぉし!」
劉邦は、蕭何の案を採用した。
すなわち、婁煩に敵を防がせ、王陵や周勃など4人の将には婁煩の援護を命じたのである。
*
さて、項羽はたちまち接近し、滎陽から30里(12km)手前に陣を取った。
対する劉邦も、城を出て、項羽の陣が見える位置に陣を置いた。
まず項羽は、劉邦に使者を送って、こう宣言した。
「天下が濁流のように乱れ、いつまでたっても安定しないのは、俺とお前のケンカが延々続いているせいだ。
人民は、王にとって赤子みたいなものらしいぞ。親が赤子を疲弊させるってのは、良くないよな。
というわけで劉邦! 今日こそ雌雄を決して、天下の赤子たちが困らないで済むようにしようじゃないか!」
劉邦は、使者の口上を聞くと、笑いだした。
「わはははは! いいねえ。真正直で項羽らしいや。
でも、お前さんと力で戦うなんて、絶対ヤーだよーっ! ここは知恵で戦おうぜ!
……って、項羽に伝えてくれや、使者さんよ」
使者は楚陣に戻り、劉邦の言葉を項羽に伝えた。
項羽は、
「本当にふざけた野郎だな、あいつは!」
と、もってのほかに大激怒し、すぐさま丁公、雍歯、桓楚、虞子期の4将に出撃を命じた。
対する漢陣からは、蕃将婁煩が刀を舞わして馬で馳せだす。
楚軍は、婁煩の部隊を狙い、兵器という兵器を用いて一斉に攻撃を仕掛けた。
ところが……この婁煩、目を見張るほどに強かった。
左を跳ね返し、右を追い詰め、前を食い止め、後ろを叩き、4人の敵将を相手にたった1人で戦うこと5、60合。
これほどまでに暴れ回っても疲れるどころか、ますます気力倍加して、振るう刃は僅かばかりも乱れない。
楚の4将は、婁煩の猛烈な勢いに太刀打ちできず、ついに馬を回して逃げ出した。
この戦況を見ていた楚陣からは、
「好きにさせるな! 奴を止めろ!」
と、新たに別の4将が飛び出てきた。
すなわち、季布、李藩、張月、項昴の4人である。
楚の4将は、それぞれの得物を握りしめ、婁煩の首を取らんと突っ込んできた。
婁煩は、この猛攻に少しも怯まず、喚き叫んで、ここが死に場所とばかりに暴れ狂う。
*
婁煩のすさまじいまでの戦いぶりを、王陵・周勃は、漢陣の中から見守っていた。
「おおっ! すごいじゃないか、あの婁煩って男は!」
「ああ。まったく並はずれた強さだ。
……しかし、ちょっと突っ込みすぎじゃないか?
これ以上前進したら、両側面から敵に包みこまれるぞ」
「となれば、俺たちの出番だな!」
王陵と周勃は、互いにうなずき合うと、軍勢を率いて陣門から飛び出した。
そして、楚軍が婁煩隊の左右に取り付こうとしていたところを狙い、逆に攻撃を加えて蹴散らした。
楚軍は、婁煩1人に手を焼いていたところに、王陵・周勃の攻撃まで受けて、大いに乱れた。
これ以上は戦えぬ、と楚兵たちが先を争い逃走していく。
これを見た婁煩は、
「得たり賢し!(思い通りだ!)」
と叫ぶと、刀をカラリと投げ捨てた。
そして腰に提げていた弓を取り出し、馬上から狙って……ヒュ! ヒュヒュッ! と続けざまに4本の矢を放った。
そのうち2本が、狙い違わず楚将李藩・張月の背中に命中。
2将は、たちまち馬から転がり落ちて、そのまま絶命してしまった。
楚将の季布は、李藩・張月が射殺されたのを見て肝を冷やし、ほうほうの体で本陣へと逃げ帰った。
一方、最後に残った楚将項昴は、まだ李藩・張月が生きているかもしれないと考え、救出のために大急ぎで馬で駆け寄せた。
その項昴へ向けて、婁煩が再び矢を放つ。
ビュッ!
と、矢が項昴の頬をかすめた。
項昴は、思わず、
「うわっ!」
と悲鳴を上げ、身をすくめる。
その隙を狙い、王陵が項昴に背後から駆け寄って、すばやく刀を振るう。
項昴は、一刀のもとに馬から斬り落とされてしまった。
こうなれば、もう終わりである。
楚軍は、さんざんに斬り殺されて、四散して逃走してしまった。
(つづく)