楚の伏兵の放った矢が、劉邦の胸に命中した!
周囲の漢将たちが、
「漢王様ッ!」
と叫び、青ざめる。
劉邦は、うめきながら、馬上で背を丸めた。
痛い……痛いが、まだ生きている。
幸いにも、矢は鎧によって止まったらしい。
矢尻が鎧を貫通して皮膚を傷つけてはいるが、致命傷になることは避けられたようだ。
とはいえ……とにかく痛い。
耐えがたい疼痛である。
血も流れて止まらない。
しかし、ここで劉邦が弱いところを見せれば、周囲の将兵は不安に駆られる。
目の前に鍾離昧の軍勢がいる今、味方の士気を落とすことは避けねばならない。
劉邦は、とっさに胸の傷を袖で隠し、反対の手で自分の爪先を指さしながら、痛みをこらえて笑顔を作った。
「なあに、大丈夫、大丈夫!
楚賊の矢が、たまたま足の指に当たっただけだよ!
運よく無傷で済んだぜ!」
劉邦、とっさの強がりだったが、残念ながら、あまり効果はなかった。
だいたい、足の指に当たったのだとしても、無傷なわけはない。
漢軍の諸将は、劉邦が負傷したのを見ると、戦意を失い、雪崩打って軍勢を後退させはじめた。
これに項羽は、ますます勢いづいた。
項羽は軍勢を動かして、漢の兵を滅多斬りに薙いで回る。
そのまま項羽は、漢軍の本陣にまで攻め込もうとした。
が、そのとき。
東南の方角から1騎の伝令が駆けてきて、項羽に報告をもたらした。
「報告いたします!
韓信の大軍が、成皋に到着いたしました!
さらに、彭越が再び楚軍の糧道を遮断した模様です!」
また大声で叫ぶものだから、この報告が周囲の将兵の耳にも聞こえてしまった。
韓信が来た! と聞くと、楚の将兵は激しく動揺した。
なにしろ韓信は、楚屈指の大将龍沮さえ破った男である。
そのうえ糧道まで塞がれたとなれば、不安に駆られるのも無理はない。
こういう楚軍の混乱を、劉邦は目敏く見ていた。
「よし。今なら安全に撤退できる」
劉邦は、そう判断して、全軍に後退を命じた。
実際、一度軍勢が動揺してしまうと、一から仕切り直さなければ挽回は困難である。
そのため、項羽の方もまた、いったん後退を余儀なくされたのだった。
*
こうして、ひとまず戦は中断となった。
漢軍が陣の中に撤収してくると、軍師張良・謀士陳平は、劉邦の幕舎に入った。
劉邦は幕舎の中で横になり、苦痛に、うめき続けていた。
さきほど受けた矢傷は、さほどの深手ではない。
とはいえ、胸の皮膚が裂け、耐えがたいほどに痛む。
そのため、劉邦は起き上がることもできずにいた。
しかし……
張良は、つかつかと劉邦に歩み寄り、淡々と諌めはじめた。
「楚軍は、混乱を起こして退きました。
韓信の大軍が成皋に到着したからです。
漢王様。
その程度の矢傷で寝ている場合ではありませんよ。
さあ、立ちなさい。
漢王様が負傷したとあらば、全軍の士気が下がってしまいます。
軍の将兵たちに無事な姿を見せ、皆を安心させてやるのです。
そして成皋に赴き、韓信と合流せねばなりません。
さすれば、漢と楚の大決戦は、まさに決着の時を見るでしょう」
劉邦は、脂汗をかきながら起き上がった。
「……分かった。先生の教えに従うよ」
劉邦は、痛みを堪えて三軍の中を巡り、笑顔で将兵たちを労って回った。
まるで負傷などしていないかのように、いつもの元気で気さくな劉邦を演じきってみせたのである。
張良は、にっこりと微笑み、諸将に呼びかけた。
「さて、みなさん。
楚の軍勢は、彭越に糧道を遮断され、食糧補給のアテを失いました。
今のまま駐屯し続けることは難しいでしょう。
となれば、一両日中には逃走を図るはずです。
みなさんは、後方の部隊から徐々に、成皋へ向けて出発してください。
韓信の軍と合流し、しかる後に楚を破るのです」
諸将は、これを聞いて、すぐさま移動の準備に取りかかった。
*
一方、楚の陣では、項羽が諸将を集めて対策を協議していた。
「彭越が糧道を遮断したせいで、俺たちが遠からず食糧不足に陥ることは明らかだ。
しかも、韓信の軍は成皋に到着したらしい。
滎陽を今すぐ破ることも難しいだろう。
となれば、ひとまず広武まで退いて兵を駐屯させ、兵糧運送の道を確保してから、改めて攻撃を再開するしかないんじゃないだろうか。
お前たちは、どう思う?」
楚将鍾離昧が、うなずく。
「はい。覇王陛下の御聖見の通りかと思います。
今晩、ひそかに撤退いたしましょう。
陛下は、みずから一手の軍勢を率い、撤退する軍勢の後ろについて、追撃を防いでくださいませ。
我ら諸将は、大軍を率いて先行し、南にある山越えの間道から広武を目指します。
これは、韓信が小狡い計略を仕掛けている可能性に対処する目的です。
もし前方が敵に塞がれていたら、前後の軍が連携するのも難しくなりますから」
項羽は、
「よし」
と、うなずいて、さっそく諸将に命を下した。
そして、一夜のうちに人馬ことごとく撤退した。
*
漢軍の間者は、こうした楚軍の動きを見ると、すぐに劉邦に報告した。
張良は、話を聞くと、
「私の予測した通りでしたね」
と、うなずき、諸将に命じて移動を開始した。
劉邦は、さっきの矢傷がまだ痛み続けていたため、車の中に寝そべったままでの移動である。
そうして2日ほど進んだところ、進行方向から報告の兵が駆けてきた。
「韓信大元帥の軍から、夏侯嬰様と周叔様が、1万の軍勢を率いて、やってきました!」
劉邦は、痛みを堪えて起き上がり、夏侯嬰と周叔を呼んだ。
夏侯嬰・周叔は、下馬して、劉邦の車の前に拝伏した。
「漢王様!
韓信大元帥は、すでに成皋に入り、そこで漢王様と合流して楚を討とうと、お待ちしております!
我ら2人、大元帥の命により、漢王様をお迎えにあがりました!」
劉邦は、大いに喜び、夏侯嬰たちの軍勢と合流して、ともに成皋を目指した。
その翌日、劉邦は成皋に到着した。
成皋では、韓信が、上から下まであらゆる将兵を勢ぞろいさせて、遠く城外まで劉邦を迎えに出てきた。
劉邦は、韓信の軍に守られながら成皋城に入り、その宮殿に上がると、韓信たち文武百官の拝賀を受けた。
その場で、劉邦は韓信に向かって言った。
「大元帥は、長いあいだ遠征し、いくつもの並外れた功績を立て、数多くの苦労をしてきてくれた。
俺は、項羽によって何度も何度も追いつめられ、もう70戦以上もの戦いをしてきた。
この乱世で、人民は安心して生業に取り組めず、将兵も鎧を脱ぐことができずにいる。
それが今、大元帥が大軍を率いて、合流してきてくれた!
これで楚に勝てないはずはない!
ただ、ひとつだけ心配なのは、父の太公のことだ。
太公は、ずっと敵に囚われたままで、いまだに帰国できずにいる。
俺は、そのことが心配で、食事も喉を通らないんだ。
もし大元帥が計を巡らせて太公を取り戻し、俺たち親子の対面を果たさせてくれたら、これは1万代先の未来まで語り継がれる功績になるぞ」
韓信は、自信を持って、うなずいた。
「項羽は、あの性格です。戦いもしないうちから、太公を解放することは、ありえないでしょう。
まず、臣と漢王様が兵を合わせて項羽に決戦を挑み、項羽が心身ともに疲れ苦しんでいる時を狙って計を実行いたしましょう。
臣に、お任せあれ。漢王様、どうぞご安心ください」
劉邦は、力強く、うなずいた。
「よし! 大元帥に任すぞ!
はやく凱歌を奏でて、俺の心を慰さめてくれよ!」
「はっ!」
韓信は、力強く答えると、劉邦の前から退出した。
そして、韓信は、大軍を率いて城外に出ると、川のある広い野原に陣を取り、人馬の調練に取り組み始めた。
狙いは、項羽が駐屯する広武山。
日を選んで、広武にて楚軍と会戦せんと、戦支度に取りかかったのである。
はたして楚漢勝負の行方や、いかに?
(つづく)
■次回予告■
国士無双の韓信と抜山蓋世の覇王項羽、二度目の直接対決の舞台となるは広武山。かたや人質で敵の戦意を鈍らせんとすれば、こなた詐術と知略によってのらりくらりと圧力を躱す。息もつかせぬ頭脳戦から武力対決へともつれこみ、両軍の精鋭が火花を散らす。
当代最強の二大英雄、果たして天は、どちらに微笑む?
次回「龍虎戦記」第六十四回
『激突、広武山!』
乞う、ご期待!