数日後、季節外れの寒気が楚軍の陣に押し寄せてきた。大雨が何日も降り続き、春先とは思えぬ寒さに士卒は凍えた。
さらに、あまりの長滞陣によって食糧も不足。軍の内部で、宋義を恨む声が高まりはじめた。
項羽は動いた。再び宋義のところへ乗り込んで、真正面から直談判したのだ。
「味方の将士はみんな勇猛だ。すばやく前進して秦を討伐しようと意気ごんでいたんだ。なのに宋義将軍、あんたはずっとこんな場所に留まっている。
ここ数年は飢饉続きで、人民はみんな満足に食えていない。まして軍の陣中ではなおさら兵糧も乏しいっていうのに、自分だけ昼も夜も宴会ばかりして楽しんでいらっしゃるとは何事だ!
これが計略だというのも、おかしい。
秦の兵は強くて、趙の兵は弱い。弱いやつを強いやつと戦わせてるんだぞ。これでどうして秦を疲れさせることができるというんだ。
しかも今、武信君が亡くなって、懐王は不安を抱えていらっしゃる。懐王が楚の兵をすべて将軍に授けなさったのは、趙を救うためってだけじゃない。秦を打ち破ってこのあいだの恨みを晴らすためでもあるんだ。国家の存亡がこの一戦にかかっているんだ。
なのに将軍は士卒を労わることもせず、一日中酒宴をしている。そんなのは社稷の臣じゃない!」
社とは土地神、稷とは穀物神。転じて、社稷とは国家そのものを指す。
国家存亡の危機に、我が身さえかえりみず力を尽くして働く立派な人物。それが社稷の臣である。
まっすぐで人一倍正義感の強い項羽にとって、私利私欲で動いているようにしか見えない宋義の行動は我慢ならないものだったのだろう。
だが、これでも宋義は動かなかった。
……翌日。
項羽は、宋義の前に進み出ると……いきなり剣を抜いた。
雷鳴の如き項羽の声が、楚陣に響いて地を震わせる。
「みんな聞けっ!
宋義はひそかに息子宋襄を斉の国へ派遣し、謀反を計画していた! 我々を足止めしている間に斉の兵を呼び寄せ、その力で楚を奪おうとしたのだ!
俺は懐王から密命を承った! 詳しい説明は……宋義を誅殺した後だッ!」
宋義は震えあがって逃げだしだ。だが逃げられない。項羽はおそるべき素早さで宋義に追いつき、髻(髷)を掴んで引きずり寄せ、弁明の暇も与えぬままに、一太刀で首を刎ねてしまった。
血のしたたる宋義の首をぶら下げ、返り血に濡れた項羽が、ギロリ、と背後をかえりみる。
その場にいた諸将は、呆気に取られて立ちすくんでいたが、項羽の目の色を見るなり慌てて地に平伏した。
宋義の謀反? 懐王の密命? 本当か? と、疑問に思う者も大勢いただろう。だがもはや、そんな理屈をさしはさめるような状況ではなかった。下手なことを口にすれば我が身が危ないのだ。
将の一人が、声を震わせながら言う。
「もともと楚の後継者を立てたのは項羽将軍の家です。その将軍が、逆臣を誅殺なさったのです。あなたに従わない者がおりましょうか」
かくして諸将は、項羽を推薦し、仮に上将軍を名乗らせた。
そして大急ぎで追手を出して宋襄を斉との国境付近で惨殺させ、さらに、桓楚を使者として事態を懐王に報告した。
*
報告を受けた懐王は、鍾離昧に節を持たせ、楚陣に派遣した。
節とは、竹の節を縦に割ったもので、一種の割符である。竹の節は一つずつ形が違っているから、同じ竹から取った節でなければピッタリとは合わない。これを利用して身分の証明とする。昔は本物の竹を用いたが、後に、金属など様々な素材の節が作られるようになった。
この節を鍾離昧が持たされたことは、王の代理人として、重大な決定を伝える役目を任されたことを意味するのだ。
楚陣に到着した鍾離昧は、うやうやしく懐王の意向を伝えた。
「項羽を大将軍に封ず」
項羽は感激して恩を謝し、喜び、勇み、すぐさま軍の立て直しに取りかかった。
すなわち、英布を先陣の大将とし、精兵二万騎あまりを与え、秦軍に攻めかからせたのである。
*
楚軍動く!
この報告を受けた秦軍総大将の章邯は、すぐさま司馬欣、董翳に兵を分け与えた。
「お前たちは黄河の南岸に陣取れ。楚軍を防ぐのだ!」
慌ただしく配置を終えた司馬欣・董翳の軍に、英布は勢い急に押し寄せた。
司馬欣と董翳は馬を並べて出陣し、迎え撃つ。
英布は斧を引っ提げ突撃し、火花を散らして秦軍へ打ちかかった。
さすがに英布は強い。武勇でならした豪傑だ。だが司馬欣・董翳とて大国秦の将。決して負けてはいない。
両者一歩も退かぬ激戦に、血と汗とをほとばしらせていた……そのとき。
にわかに秦軍が背後から乱れ騒ぎはじめた。
何事か? と怪しむ司馬欣たちの元へ、思いもよらぬ報告が舞いこんだ。
「項羽です!
背後から、項羽の軍勢が攻めこんできましたあッ!」
司馬欣・董翳の顔から血の気が引いた。
項羽! 奴の異様な強さは、つい先日、身をもって味わったばかり。しかも軍勢の背後を突かれたとあっては、とうてい支え切れるものではない。
「これは、英布などと戦っている場合ではない!」
司馬欣・董翳は大急ぎで陣へ逃げ帰った。
だが、それすらも項羽の手のひらの内であった。
なんとこのとき、黄河南岸の秦の陣屋は、すでに楚兵に奪われた後だったのである。
司馬欣たちは、敵の旗がひるがえる陣を前にして、茫然自失した。
あの項羽という男、ただ強いというだけではない。戦が上手い!
英布の軍勢を囮にして注意を引き付けたうえで背後から挟撃してくるなど、実戦経験の浅い青年とは思えぬほどの鮮やかな駆け引きである。秦軍の行動をピタリと読んであらかじめ退路を断っておくに至っては、まるで歴戦の老将のような思慮深さではないか。
もはや悔いてもどうにもならない。司馬欣と董翳は追撃を浴びながら強引に黄河の北へ渡り、多大な損害を出しつつ散々に潰走していった。
*
大将軍項羽の初戦は大勝利に終わった。
敵が捨てた輜重(食糧や武具、衣服などの軍需物資)を数知れず奪い取り、すぐさま黄河を渡って北岸に上陸した。
項羽は胡床(日本で言う床几)に腰かけ、剣を手に握って、後陣が渡河し終えるのを待った。
全軍が北岸に集まったところで、項羽は驚くべき命令を下した。
「俺たちが乗ってきた舟を全部沈めろ。釜と甑(炊飯に使う調理器具)は砕き、兵舎は焼き捨て、兵には三日分の食糧だけ持たせろ」
戸惑いながら命令を実行した将兵に、項羽は大音声で号令した。
「いいか! 秦の軍は長期間趙を取り囲んで、人も馬もみんな疲れている。あんな奴らを倒すくらい、我ら勇猛なる楚人なら三日もあれば十分だ! そうだろう!」
将兵の気配が変わった。男たちが鼻息を吹き、獰猛な笑みを浮かべ、陣のあちこちから
「そうだ!」
と賛同の声をあげる。
項羽は力強く剣を振りあげ、虎の如く咆哮した。
「さあ、ただひたすら前進し、一息に奴らを打ち破れ! 俺たちに退く道はない!」
諸軍は一斉にうなり声を響かせた。
「おお! 将軍に従って命の限り戦うぞ!」
ほとんど熱狂に近い士気の盛り上がりに、項羽は大喜びで出陣を命じた。
鼓を打ち鳴らし、楚軍が猛然と飛び出していく。
その背を見送りながら、軍師范増はひそかに鍾離昧を呼び寄せた。
「項羽将軍は、一気に章邯を打ち破るため、釜を破り舟を沈め、わずかに三日分の兵糧のみを持っていった。もし三日のうちに勝てなければ、人馬は必ず飢えて疲弊するだろう。
そこで、ひそかに人を送って、後陣の兵糧を黄河南岸に運ばせておこうと思う。さすれば、万一の時も河南に撤退して人馬を休めることができる」
鍾離昧は目を丸くして感嘆した。
「おお……! なるほど、分かりました。先生は、まことに遠くまで見すえた思慮をお持ちだ」
范増は、まぶしげに目を細めた。
「大胆な無茶は若者の特権よ。そして細心に備えをしておくのが、老人の役目というものさ」
(つづく)
■次回予告■
破釜沈舟し退路を断って、決戦に臨む項羽と楚軍。対する秦の章邯は、配下の武将を九陣に配し完全包囲の罠をしかけた。
絡み合う策。結び合う剣。死力を尽くした激闘の末、勝利するのは敵か? 味方か?
次回「龍虎戦記」第九回
『鉅鹿の戦い』
乞う、ご期待!