龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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六十六の乙 偽りの和睦

 

 

 項羽は、侯公を近くに呼んで、言った。

「俺は、ついさっきまで、劉邦と戦って雌雄(しゆう)を決したいと思っていた。

 だが、この書簡(しょかん)を読んで、気が変わった。

 

 確かに劉邦の言うことには道理がある。

 和睦(わぼく)の話を進めようじゃないか。

 

 侯公よ。汝は漢陣に帰って、俺の意志を劉邦に伝えろ。

 明日、陣の前で劉邦と俺が直接対面し、合同(ごうどう)文字(もんじ)を書いて、それぞれ1部ずつ保管し、執照(しっしょう)(証明書)としよう」

 

 合同(ごうどう)文字(もんじ)とは、今でいう契約書のことである。

 全く同じ内容の文書を2部作成し、両者が1部ずつ持ち帰ることで契約の証明とするのだ。

 

 侯公は、深々と頭を下げた。

「承知いたしました。漢王に間違(まちが)いなくお伝えいたします」

 

 

   *

 

 

 侯公は、()陣を出て漢陣に帰り、項羽との謁見(えっけん)の様子を、事細(ことこま)かに報告した。

 

 劉邦が喜んでいると、そこに、早くも()からの使者が到着した。

 ()の使者は、劉邦に謁見(えっけん)して、こう申し出た。

「さきほど取り決めたとおり、合同(ごうどう)文字(もんじ)を2部作成し、明日、会見の場で1部ずつ持ち帰って保管することにいたしましょう」

 

 劉邦は、うなずいた。

「おう! 明日、俺は覇王殿と対面して、また以前のような義兄弟の関係に戻るつもりだ。

 だから大軍を並べる必要はない。お互い甲冑(かっちゅう)も身に着けないことにしよう。

 

 ご使者よ。また手間をかけるが、もう一度ウチの侯公を()陣に連れ帰ってくれ。

 侯公から覇王殿にお伝えしたいんだ。

 『明日、会見を行う時に、太公や俺の一族を全員返還し、和睦(わぼく)の意志が本物だと示してほしい。もし太公たちを返してもらえなかったら、後で契約を反故(ほご)にされるんじゃないかと不安になりますから』ってね」

 

 使者は、すぐに了承(りょうしょう)した。

「承知いたしました。

 私が侯公を連れて帰り、漢王様のお言葉を伝えましたら、覇王様も決して太公を引き止めはしないでしょう」

 

 劉邦は大いに喜び、()の使者に重く褒美(ほうび)を与えた。

 

 

   *

 

 

 少しして、使者は侯公と一緒に()陣に帰ってきた。

 2人そろって()の陣に入ってくると、項羽は、侯公の顔を見て首を(かし)げた。

「侯公か。どうしてまた来たんだ? 何か話でもあるのか」

 

 侯公が言う。

「漢王は、覇王陛下の人徳に深く感じ入り、再び私に(めい)じて、以下のことを申し上げるべく(つか)わしました。

 

 まず1つ。

 明日の会見に(のぞ)んでは、甲冑(かっちゅう)を身につけたり、大軍を配置したりしないようにお願い申し上げます。

 以前のような義兄弟の(よしみ)を取り戻すわけですから、心ゆったりと構え、お互いに(ゆず)りあい、礼儀作法を守って接することにいたしましょう。

 これは、龍虎(りゅうこ)相争(あいあらそ)う時代に逆戻りしないための配慮でございます。

 

 そして2つ。

 和睦(わぼく)の場で、太公や漢王御一族(ごいちぞく)を全員返還し、父子や夫婦が同じ場所で暮らせるようにしてくださいませ。

 それこそ、覇王陛下の至上の仁愛を及ぼす行為に他なりません。

 

 他人の父を殺さぬことは、(こう)の精神の奨励(しょうれい)

 他人の妻を汚さないのは、清らかな御心(みこころ)の証明。

 そして、長く拘禁(こうきん)していた人質を返すのは、義を重んじることを意味します。

 

 天下の諸侯が、これら3つの話を聞けば、覇王様の名声は、あふれんばかりに中国全体へ広がることでしょう」

 

 項羽は、喜んで、うなずいた。

「大丈夫だ、分かっている。

 明日、劉邦の父や妻たちは、必ず送り返してやろう。

 侯公よ。汝は、早く帰って、このことを劉邦に伝えてやれ」

 

 侯公は、深く感じ入ったふうに、頭を下げた。

「臣の(いのち)は、覇王陛下の一言に(かか)っております。

 なぜなら、臣が帰って覇王陛下の(のたま)ったことを伝えれば、漢王は、ますます喜び、『覇王陛下のお言葉は金属や石のように固い。まさか後で変わることはあるまい』と思うでしょう。

 

 もし約束が破られたら、臣は、たちまち漢王に殺されてしまうに違いありません。

 覇王様、どうか臣を(あわ)れんでくださいませ」

 

 項羽は、カラカラと笑った。

「大丈夫(立派な男)たるもの、一度(ひとたび)言葉に出して許可したなら、その約束は1万(じん)(18.5km)にわたって(きず)かれた壁のように固く守るんだ。

 信義を失うようなことは、絶対にしない!

 

 早く帰って劉邦に伝えてやれ。

 汝は、少しも心配しなくていい」

 

 侯公は、これを聞いて喜び、()陣を後にした。

 

 侯公が退出すると、()将の季布や鍾離昧(しょうりまい)が、口をそろえて項羽を(いさ)めはじめた。

「覇王様。漢と和睦(わぼく)するのは良いですが、太公たちを帰らせるのは、いけません」

 

「その通りです。

 劉邦は、すぐ前言(ぜんげん)(くつがえ)す信用ならない男。

 おそらく、後で心変(こころが)わりするでしょう。

 人質を返してしまったら、漢軍の攻撃を防ぐ手立(てだ)てが無くなります」

 

 しかし、項羽は首を振った。

「いいや。

 もしこのまま無駄に長く太公を捕らえ続けていたら、天下の諸侯は俺を(あなど)りはじめるだろう。

 『項羽は、漢を破ることができないから、人の父親を捕らえて人質にしているんだ』ってな。

 それに、俺はもう侯公に約束してしまった。

 一度口にしたことを後で反故(ほご)にするのは、立派な大丈夫のやることじゃない!」

 

 そこで、すかさず叔父(おじ)項伯が口を出した。

「まさに(おっしゃ)る通りです。

 太公は()(とら)われておりましたが、覇王様は結局、太公を殺しませんでした。

 それどころか、太公を手厚く養い続けていたわけですから、陛下の仁徳は(すで)(いた)れり()くせり、でございます。

 

 そのうえ、太公を解放なされば、劉邦は覇王様の徳に深く感じ入り、二度と謀反(むほん)など考えなくなるでしょう」

 

 項羽は、得意満面に、うなずいた。

「おう! 叔父(おじ)(うえ)の言う通りだ!」

 

 

   *

 

 

 次の日。

 

 項羽は、文武の大将たちを引き連れ、広武山中にある鴻溝(こうこう)という谷に、やってきた。

 約束通り甲冑(かっちゅう)は身に着けず、太公や呂后など劉邦の家族も連れてきている。

 

 一方、劉邦の方も、文武の諸将と(とも)に、非武装で姿を現した。

 

 両者は鴻溝(こうこう)において対面し、作法通りに礼を交わした。

 そして、()ずから合同(ごうどう)(契約書)を書き、それぞれ1部ずつを分け合った。

 

 項羽が言う。

「漢王よ。

 今後は、お互いに国境を(おか)さず、争わないことを誓おう。

 俺は軍を撤収させ、東へ帰ることにする」

 

 そして項羽は、左右の部下に(めい)じて、太公たち家族を、ことことく劉邦に引き渡した。

 

 劉邦は限りなく喜び、まず、諸将に(めい)じて、太公たちを漢陣へ送らせた。

 そして項羽に向かって丁寧(ていねい)拝謝(はいしゃ)した。

 

「我が父太公が、覇王様の麾下(きか)で、長いあいだ本当にお世話になりました。

 さらには、今、太公たちに帰国を許してくださった……

 これは、まさに『死せるを生かして骨に肉をつける』というようなもの。どうにもならない窮地(きゅうち)から救い出してくださった、至上の恩でございます」

 

 劉邦の、へりくだった言葉に、項羽は満足げに、うなずいた。

 

 そして、項羽はその日のうちに兵を撤収し、本拠地彭城(ほうじょう)へと引き返していったのだった。

 

 

(つづく)




●注釈
(1)
 本編に登場した『合同(ごうどう)文字(もんじ)』とは、『合同(ごうどう)(けい)』とか『合同(ごうどう)』などと呼ばれるものと同じ形式の契約書と思われる。
 本編でも説明したとおり、同内容の文書を2部作成し、お互いに1部ずつ持ち帰ることで契約の証明とする。そのとき2部を左右に並べ、両者にまたがるように「同」の文字を書く。すると両者の契約書にはそれぞれ「同」の左半分と右半分が書かれることになる。後で契約書の真正性を確認する必要が生じたら、互いの契約書を持ち寄って「同」の字がぴったり合うかチェックすればよい。
 ただ、『合同(ごうどう)』という言葉が契約書の意味で用いられるようになったのは、唐代以後のことであるらしい。同様に、公的な証明書を意味する『執照(しっしょう)』も、かなり後の時代に使われ始めた用語である。おそらく「西漢通俗演義」が執筆された明代の文化が反映されているのだろうと思われる。

(2)
 劉邦が引用した『死せるを生かして骨に肉をつける』という言葉は、「春秋左氏伝・襄公二十二年」に見られる。原文の表記は『生死而肉骨』。死者を生き返らせたり、骨になった体に再び肉をつけたりするような、本来なら助かるはずもない窮地から救い上げてもらった大恩を(たと)えて言う表現である。『生死骨肉』という四字熟語にもなっている。
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