劉邦は、漢の陣まで帰ってくると、韓信や英布に、自分の領国へ帰ることを命じた。
劉邦は、味方の諸侯が続々と帰っていくのを見送ると、うきうき声を弾ませて言った。
「よしっ! 戦は終わったぞ!
そんじゃあ、俺たちも軍を撤収させて西へ帰ろう!」
張良が慌てて諌める。
「いやいや! 何を仰るのです。
帰っては、なりませんよ。
漢王様は、数年に渡って苦戦を続けてきました。
諸将が、漢王様に従って遠征に携わってきたのは、東方の故郷へ帰って父母妻子に対面したいという思いからです。
漢王様が楚と和睦して西に帰れば、人々は故郷を恋しがり、少しずつ逃げ去ってしまうでしょう。
そうなったら、漢王様は、一体だれと一緒に天下を守るおつもりですか?
ましてや今、太公や呂后を取り戻し、兵も勢い大いに盛り上がり、四方の諸侯が風のように靡いている。
天下統一という大事業の成否や、戦の勝敗の鍵は、今、漢王様の手に握られているのです。
もしこのまま天下を2つに分けて楚と並び立てば、世界の支配権もまた2つに分割されます。
漢王様と項羽、一体どちらが君主で、どちらが臣下なのか?
それが諸侯には分からなくなる。
君主が2人いれば、政治上の儀礼を向ける先も、外敵の征伐を取り仕切る権限も、なにもかもが2つになる。
これが帝王による統一された政治と言えるでしょうか?
臣が聞くところでは、かつて古の人が、こう言ったそうです。
『天に二つの日無く、民に二つの王無し』。
天に2つの太陽が無いように、民に2人の王は存在しないのだ、と。
漢王様は、すでに天下の8割までを手にして、ほとんど楚を滅ぼしかけているのです。
もし項羽を許して東に帰らせれば、項羽は後日、再び鋭気を養って兵馬を起こし、攻め込んでくるでしょう。
そのとき漢王様は、西方の国で安心して暮らしていられると思いますか?
『虎を養って患いを遺さば、終に大いなる害をなす』とでも言いましょうか。
漢王様。よくお考えくださいませ。この機会を逃しては、いけません」
劉邦は、目を丸くした。
「ええーっ!? つまり、また項羽と戦えってこと!?
いや、でも、俺はもう、鴻溝を国境として和睦するって誓っちゃったぞ。
合同(契約書)も書いたし……
いまさら約束を反故にしたら、天下の人々は、俺を信用してくれなくなるよ」
張良が首を振る。
「漢王様は間違っておられます。
輝くような知恵の持ち主は、小さな信義に拘って大義を見失うようなことを、しないものです。
昔、殷の成湯や、周の武王は、自分の主君である桀王・紂王を倒して、天下を掴みました。
しかし、あくまでも君臣の義に拘るなら、いかに悪逆の王であろうとも桀王や紂王を討つべきではなかった。
結局、それでは天下を得られなかったでしょう。
漢王様が鴻溝の約束を守ることに拘るなら、統一された天下は、いずれ項羽の持ち物となります。
漢王様の苦難の半生も、臣らの尽力も、すべて無駄に終わることでしょう。
人として、これ以上の恥辱がありましょうか?」
さらに、陳平、陸賈、随何なども、声を揃えて言う。
「子房(張良)の言葉には、極めて理がございます!
臣らが漢王様に従って、何年も奔走し苦労してきたのは、天下万民を塗炭の苦しみから救い出し、漢王様に四海(世界)の主となっていただきたいがため!
漢王様が天下を統一し、諸侯らが北面して漢王様に仕え、臣らもまた、統一された世界を作った功臣として称えられる……
なんと美しいことではありませんか!
漢王様。どうか、ご決断ください!」
劉邦は、しばらく考え込み……
やがて、力強く、うなずいた。
「よし。やるかっ!」
かくして、劉邦は和睦の約束を破棄し、あちこちの軍勢を駆り集めて兵馬を整え、彭城へ攻め入ろうと、急速に戦準備を始めたのだった。
*
そうとは知らない項羽は、軍を撤収させて彭城に帰り、将兵たちを家に帰らせた。
それからしばらく、項羽は、ゆっくり休息を取った。
群臣を集めて酒宴を催し、愛する妻の虞姫と楼閣に上って杯を交わす。
何年も戦場を駆け回り続けた項羽にとって、ひさびさの心安らぐ一時であった。
しかし、そんな項羽の様子を、苦々しく見ている臣もいた。
大将の周蘭である。
ある日、周蘭は、項羽に謁見すると、表文を上げて諌めた。
『古より、聖帝や明王は、安心している時にも危機のことを忘れず、平和に治まっている時にも乱のことを忘れず、無事の時にも戦備を撤廃しないものです。
今、漢王劉邦と新たに友好関係の盟約を結びましたが、劉邦の本心がどうであるかは分かりません。
劉邦配下には、相手を騙す策略に長けた謀臣がおり、これまでも、たびたび約束を反故にしてきました。
ですから、覇王陛下は油断なく兵馬を整え、武装した兵士を訓練して日々文治の徳を学ばせ、その合間には武技を磨かせるべきであります。
そして、智謀に優れて勇敢な者や、訓練においてよく熟練した者を選りすぐり、陛下の補佐役や大将に任命するのです。
臥薪嘗胆の心を忘れず、かつて陛下が会稽で旗挙げなさった時の心がけを常に持ち続けてくださいませ。
そして、いつ戦が起きても良いように用心し、予想外の出来事を警戒してくださいませ。
さすれば、国外有事の時にも、陛下の号令ひとつで、たちまち軍勢が攻めかかり、攻めて勝たずということなく、戦して克服できずということなく、威武をもって天下を取ることができましょう。
外敵の患いなど、恐れる必要がありましょうか。
しかし、今ある領土の中で安心して、戦備をせずにいれば、どうなるでしょうか。
劉邦は、配下の謀臣たちから『和睦の約束を反故にせよ』と勧められ、それに従って、また東方へと軍を進めてくるでしょう。
これを、覇王陛下は、どうやって防ぐおつもりですか?
以上、臣が好き勝手に所見を述べましたが、すべては、愚かな忠誠心から申し上げたことであります。
どうか、この提言を採用してくださいませ。
臣、戦慄恐懼の至りに勝えず』
項羽は、表文を読み終わると、無言で考え込んだ。
しばらくして、項羽は周蘭に目を向けた。
「劉邦は、誓書まで交わして、固く盟約を結んだんだ。
いまさら心変わりすることなんか、考えられないだろう。
汝は、ちょっと大げさに心配しすぎだよ。
……が。
汝が俺のために言ってくれたことだ。
耳を貸さないわけにも、いかないな」
項羽は、すぐに鍾離昧を呼んだ。
「今、周蘭が表を上げて、『劉邦が心変わりする恐れがあるから戦備を廃してはいけない』と言ってきた。
そこで、鍾離昧よ。
汝に三軍の訓練を任せる。漢軍が攻めてきても防げるように備えておけ」
「承知いたしました!」
鍾離昧は、それから毎日、怠りなく人馬の訓練を行った。
*
それから、半月ばかりが過ぎた頃。
案の定、滎陽方面から早馬が飛び込んできた。
「劉邦は、盟約に背いて諸方の兵を集め、固陵に軍を駐屯させて、楚に決戦を挑もうとしております!
先日鴻溝で和睦したのは、単に太公や呂后を取り戻すための計略!
本当は、楚と天下を分け合うつもりなど無かったようです!」
項羽はこれを聞き、大激怒した。
「劉邦! 田舎者の村人め!
また俺を侮り騙してくれたな!
こないだ周蘭が言ったことは、本当だった!」
そして項羽は、大将たちに向かって声を張り上げた。
「汝ら! すぐに準備しろっ!
奴原が戦備を終える前に、こっちから逆に攻め込んで粉微塵にしてやるっ!」
大将たちは、さっそく、ざわざわと動き出した。
が、そこで季布が項羽を諌めた。
「いけません!
遠方から報告は来ましたが、それが事実かどうかは、まだ不明です。
こちらから軽々しく攻め込んでは、いけません。
こっちが先に軍を動かしてしまうと、覇王陛下が先に盟約に背いた形になり、むしろ楚の方に非があると天下の人々に見られてしまいます。
今は、ただ三軍を整備し、戦の用意を整えるだけに留めておくべきです。
そして、劉邦が兵を動かすのを待ち、『約束を違えたのは劉邦である、悪いのは漢である』という体裁を作ってから、劉邦の罪を糾弾しつつ漢を討伐するのです。
これならば戦の大義名分も立ち、必ず勝つことができるでしょう」
項羽は、うなずいた。
「なるほど」
そこで項羽は、ひとまず人馬を整えるだけに留めながら、間者を放って、劉邦の動きを探りはじめた。
(つづく)