龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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六十六の丙 偽りの和睦

 

 

 劉邦は、漢の陣まで帰ってくると、韓信や英布に、自分の領国へ帰ることを(めい)じた。

 

 劉邦は、味方の諸侯が続々(ぞくぞく)と帰っていくのを見送ると、うきうき声を(はず)ませて言った。

「よしっ! (いくさ)は終わったぞ!

 そんじゃあ、俺たちも軍を撤収させて西へ帰ろう!」

 

 張良が慌てて(いさ)める。

「いやいや! 何を(おっしゃ)るのです。

 帰っては、なりませんよ。

 

 漢王様は、数年に渡って苦戦を続けてきました。

 諸将が、漢王様に従って遠征(えんせい)(たずさ)わってきたのは、東方の故郷へ帰って父母妻子に対面したいという思いからです。

 

 漢王様が()和睦(わぼく)して西に帰れば、人々は故郷を恋しがり、少しずつ逃げ去ってしまうでしょう。

 そうなったら、漢王様は、一体だれと一緒に天下を守るおつもりですか?

 

 ましてや今、太公や呂后を取り戻し、兵も勢い大いに盛り上がり、四方の諸侯が風のように(なび)いている。

 天下統一という大事業の成否(せいひ)や、(いくさ)の勝敗の(かぎ)は、今、漢王様の手に握られているのです。

 

 もしこのまま天下を2つに分けて()と並び立てば、世界の支配権もまた2つに分割されます。

 漢王様と項羽、一体どちらが君主で、どちらが臣下なのか?

 それが諸侯には分からなくなる。

 

 君主が2人いれば、政治上の儀礼を向ける先も、外敵の征伐(せいばつ)を取り仕切る権限も、なにもかもが2つになる。

 これが帝王による統一された政治と言えるでしょうか?

 

 臣が聞くところでは、かつて(いにしえ)の人が、こう言ったそうです。

 『天に二つの日無く、(たみ)に二つの王無し』。

 天に2つの太陽が無いように、(たみ)に2人の王は存在しないのだ、と。

 

 漢王様は、すでに天下の8割までを手にして、ほとんど()を滅ぼしかけているのです。

 もし項羽を許して東に帰らせれば、項羽は後日、再び鋭気を養って兵馬を起こし、攻め込んでくるでしょう。

 

 そのとき漢王様は、西方の国で安心して暮らしていられると思いますか?

 『虎を養って(うれ)いを(のこ)さば、(つい)に大いなる害をなす』とでも言いましょうか。

 漢王様。よくお考えくださいませ。この機会を(のが)しては、いけません」

 

 劉邦は、目を丸くした。

「ええーっ!? つまり、また項羽と戦えってこと!?

 いや、でも、俺はもう、鴻溝(こうこう)を国境として和睦(わぼく)するって(ちか)っちゃったぞ。

 

 合同(ごうどう)(契約書)も書いたし……

 いまさら約束を反故(ほご)にしたら、天下の人々は、俺を信用してくれなくなるよ」

 

 張良が首を振る。

「漢王様は間違(まちが)っておられます。

 輝くような知恵の持ち主は、小さな信義に(こだわ)って大義を見失(みうしな)うようなことを、しないものです。

 

 昔、(いん)成湯(せいとう)や、(しゅう)の武王は、自分の主君である(けつ)王・(ちゅう)王を倒して、天下を(つか)みました。

 しかし、あくまでも君臣の義に(こだわ)るなら、いかに悪逆の王であろうとも(けつ)王や(ちゅう)王を()つべきではなかった。

 結局、それでは天下を得られなかったでしょう。

 

 漢王様が鴻溝(こうこう)の約束を守ることに(こだわ)るなら、統一された天下は、いずれ項羽の持ち物となります。

 漢王様の苦難の半生も、臣らの尽力も、すべて無駄に終わることでしょう。

 人として、これ以上の恥辱がありましょうか?」

 

 さらに、陳平(ちんぺい)陸賈(りくか)随何(ずいか)なども、声を(そろ)えて言う。

「子房(張良)の言葉には、極めて()がございます!

 臣らが漢王様に従って、何年も奔走(ほんそう)し苦労してきたのは、天下万民を塗炭(とたん)の苦しみから救い出し、漢王様に四海(世界)の(あるじ)となっていただきたいがため!

 

 漢王様が天下を統一し、諸侯らが北面して漢王様に仕え、臣らもまた、統一された世界を作った功臣として(たた)えられる……

 なんと美しいことではありませんか!

 漢王様。どうか、ご決断ください!」

 

 劉邦は、しばらく考え込み……

 やがて、力強く、うなずいた。

「よし。やるかっ!」

 

 かくして、劉邦は和睦(わぼく)の約束を破棄(はき)し、あちこちの軍勢を駆り集めて兵馬を整え、彭城(ほうじょう)へ攻め入ろうと、急速に(いくさ)準備を始めたのだった。

 

 

   *

 

 

 そうとは知らない項羽は、軍を撤収させて彭城(ほうじょう)に帰り、将兵たちを家に帰らせた。

 

 それからしばらく、項羽は、ゆっくり休息を取った。

 

 群臣を集めて酒宴(しゅえん)(もよお)し、愛する妻の虞姫(ぐき)楼閣(ろうかく)(のぼ)って(さかずき)を交わす。

 何年も戦場を駆け回り続けた項羽にとって、ひさびさの心安らぐ一時(ひととき)であった。

 

 しかし、そんな項羽の様子を、苦々しく見ている臣もいた。

 大将の周蘭(しゅうらん)である。

 

 ある日、周蘭(しゅうらん)は、項羽に謁見(えっけん)すると、表文を上げて(いさ)めた。

(いにしえ)より、聖帝や明王は、安心している時にも危機のことを忘れず、平和に治まっている時にも乱のことを忘れず、無事の時にも戦備を撤廃しないものです。

 

 今、漢王劉邦と新たに友好関係の盟約(めいやく)を結びましたが、劉邦の本心がどうであるかは分かりません。

 劉邦配下には、相手を(だま)す策略に()けた謀臣(ぼうしん)がおり、これまでも、たびたび約束を反故(ほご)にしてきました。

 

 ですから、覇王陛下は油断なく兵馬を整え、武装した兵士を訓練して日々文治(ぶんち)の徳を学ばせ、その合間には武技を(みが)かせるべきであります。

 そして、智謀(ちぼう)(すぐ)れて勇敢(ゆうかん)な者や、訓練においてよく熟練(じゅくれん)した者を()りすぐり、陛下の補佐役や大将に任命するのです。

 

 臥薪(がしん)嘗胆(しょうたん)の心を忘れず、かつて陛下が会稽(かいけい)旗挙(はたあ)げなさった時の心がけを常に持ち続けてくださいませ。

 そして、いつ(いくさ)が起きても良いように用心し、予想外の出来事を警戒してくださいませ。

 

 さすれば、国外有事の時にも、陛下の号令ひとつで、たちまち軍勢が攻めかかり、攻めて勝たずということなく、(いくさ)して克服できずということなく、威武をもって天下を取ることができましょう。

 外敵の(わずら)いなど、恐れる必要がありましょうか。

 

 しかし、今ある領土の中で安心して、戦備をせずにいれば、どうなるでしょうか。

 劉邦は、配下の謀臣(ぼうしん)たちから『和睦(わぼく)の約束を反故(ほご)にせよ』と(すす)められ、それに従って、また東方へと軍を進めてくるでしょう。

 これを、覇王陛下は、どうやって防ぐおつもりですか?

 

 以上、臣が好き勝手に所見(しょけん)()べましたが、すべては、(おろ)かな忠誠心から申し上げたことであります。

 どうか、この提言(ていげん)を採用してくださいませ。

 臣、戦慄(せんりつ)恐懼(きょうく)(いた)りに()えず』

 

 項羽は、表文を読み終わると、無言で考え込んだ。

 しばらくして、項羽は周蘭(しゅうらん)に目を向けた。

「劉邦は、誓書(せいしょ)まで交わして、固く盟約(めいやく)を結んだんだ。

 いまさら心変(こころが)わりすることなんか、考えられないだろう。

 汝は、ちょっと大げさに心配しすぎだよ。

 

 ……が。

 汝が俺のために言ってくれたことだ。

 耳を貸さないわけにも、いかないな」

 

 項羽は、すぐに鍾離昧(しょうりまい)を呼んだ。

「今、周蘭(しゅうらん)が表を上げて、『劉邦が心変(こころが)わりする恐れがあるから戦備を廃してはいけない』と言ってきた。

 

 そこで、鍾離昧(しょうりまい)よ。

 汝に三軍の訓練を任せる。漢軍が攻めてきても防げるように備えておけ」

 

「承知いたしました!」

 鍾離昧(しょうりまい)は、それから毎日、(おこた)りなく人馬の訓練を行った。

 

 

   *

 

 

 それから、半月ばかりが過ぎた頃。

 (あん)(じょう)滎陽(けいよう)方面から早馬が飛び込んできた。

「劉邦は、盟約(めいやく)(そむ)いて諸方の兵を集め、固陵(こりょう)に軍を駐屯させて、()に決戦を(いど)もうとしております!

 

 先日鴻溝(こうこう)和睦(わぼく)したのは、単に太公や呂后を取り戻すための計略!

 本当は、()と天下を分け合うつもりなど無かったようです!」

 

 項羽はこれを聞き、大激怒した。

「劉邦! 田舎者(いなかもの)の村人め!

 また俺を(あなど)(だま)してくれたな!

 こないだ周蘭(しゅうらん)が言ったことは、本当だった!」

 

 そして項羽は、大将たちに向かって声を張り上げた。

「汝ら! すぐに準備しろっ!

 奴原(やつばら)が戦備を終える前に、こっちから逆に攻め込んで(こな)微塵(みじん)にしてやるっ!」

 

 大将たちは、さっそく、ざわざわと動き出した。

 

 が、そこで季布が項羽を(いさ)めた。

「いけません!

 遠方から報告は来ましたが、それが事実かどうかは、まだ不明です。

 こちらから軽々しく攻め込んでは、いけません。

 

 こっちが先に軍を動かしてしまうと、覇王陛下が先に盟約(めいやく)(そむ)いた形になり、むしろ()の方に()があると天下の人々に見られてしまいます。

 

 今は、ただ三軍を整備し、(いくさ)の用意を整えるだけに(とど)めておくべきです。

 そして、劉邦が兵を動かすのを待ち、『約束を(たが)えたのは劉邦である、悪いのは漢である』という体裁(ていさい)を作ってから、劉邦の罪を糾弾(きゅうだん)しつつ漢を討伐(とうばつ)するのです。

 これならば(いくさ)の大義名分も立ち、必ず勝つことができるでしょう」

 

 項羽は、うなずいた。

「なるほど」

 

 そこで項羽は、ひとまず人馬を整えるだけに留めながら、間者(かんじゃ)を放って、劉邦の動きを(さぐ)りはじめた。

 

 

(つづく)




●注釈
 張良の『天に二つの日無く、(たみ)に二つの王無し』と言う言葉は、「礼記(らいき)曾子(そうし)問」からの引用。孔子が弟子の曾子(そうし)からの質問に答えて言った言葉で、『最も(とうと)いものは1つしかない』ということの(たと)えである。
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