龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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六十六の丁 偽りの和睦

 

 

 劉邦が新たに兵を駐屯させた固陵(こりょう)は、滎陽(けいよう)から見て南東の方角にある都市だ。

 ()(みやこ)彭城(ほうじょう)までの行程を、半分ほど進んだところと言えようか。

 項羽の本拠地に向かって、かなり大胆に距離を詰めた形である。

 

 ところが、ここへ来て、困った問題が発生した。

 劉邦は、張良や陳平(ちんぺい)を呼んで、相談を持ちかけた。

 

「お前たちの言うとおり、講和の約束を破って()に攻め込もうとは思ってるんだけど……

 講和が成立した後、韓信や英布を帰国させてしまったんだ。

 今さら『もう一度来てくれ』と要請しても、簡単には来てくれないんじゃないだろうか?

 一体どうしたらいい?」

 

 張良が言う。

「漢王様は、まず項羽に書簡(しょかん)を送り、盟約(めいやく)破棄(はき)を堂々と宣言なさいませ。

 

 さらに、韓信、英布、彭越(ほうえつ)のところへ、こんな告示を送るのです。

『先日、鴻溝(こうこう)において和睦(わぼく)を約束したのは、太公や一族を取り戻すための計略だった。

 すでに太公は取り戻せたから、()(ぞく)を東方の土地に居座(いすわ)らせておくべきではない。

 すみやかに来て、力を貸してくれ』とね。

 

 こうして諸侯を集め、()と戦えば、この一戦で()を完全に破ることができましょう」

 

「よし、わかった」

 と、劉邦は、陸賈(りくか)(めい)じて書簡(しょかん)を書かせた。

 

 そして、

「じゃあ、誰を彭城(ほうじょう)へ行かせようか?」

 と諸将と相談していると、陸賈(りくか)が進み出た。

「私が参りましょう」

 

 劉邦は、首を振った。

「いや、ダメだ。

 項羽は狂暴な性格だ。俺から『約束に(そむ)くぞ』なんて宣言されて、使者を優しく歓待(かんたい)してくれると思うか?

 お前が行ったら、絶対に害を受けるぞ。そんなのはダメだ!」

 

 陸賈(りくか)は、自信たっぷりに微笑(ほほえ)んだ。

「臣には、この3寸の舌があります。

 この舌をもって項羽の怒りを刺激し、向こうから軍を出して攻めてくるよう誘導してみせましょう。

 臣も、必ず無事に戻ります。どうか、ご安心ください」

 

 これに、張良や陳平(ちんぺい)も同意した。

「漢王様。

 漢王様の(おっしゃ)るように危険な任務であればこそ、陸賈(りくか)以外には任せられません。

 (りく)大夫(たいふ)ならば、きっと上手くやってくれるでしょう」

 

「そうか……確かにな……」

 劉邦は、深く考えこんだ末、陸賈(りくか)彭城(ほうじょう)派遣(はけん)する決心をした。

 

 

   *

 

 

 陸賈(りくか)は、すぐに出発し、1日ほどで彭城(ほうじょう)へ到着した。

 

 項羽は、陸賈(りくか)を宮殿に呼び入れて対面すると、不機嫌そうに(たず)ねた。

陸賈(りくか)か。一体なにをしに来た?」

 

 陸賈(りくか)は、沈痛(ちんつう)面持(おもも)ちで答える。

「は……覇王様に、残念なお知らせをせねばなりません。

 先日、漢王は覇王様と和睦(わぼく)いたしましたが、あれは、覇王様を(あざむ)いて太公を取り返すための計略だったようなのです。

 

 あれからまだ半月も経っていないというのに、漢王は『約束を破棄(はき)する』などと言い始めました。

 

 群臣が、こぞって(いさ)めましたが、漢王は全く耳を貸さず……

 『覇王様と固陵(こりょう)にて戦いたい』と申しまして、それがしに戦書を届けるよう(めい)じたのです。

 

 漢王は、せっかく中国の西半分を手に入れたのですから、そのまま国境を守っておれば十分に満たされるはずです。

 

 それなのに、漢王は止まることを知らず、土地を(むさぼ)るために、またしても兵を起こそうと画策しております。

 まったく、これを()骨頂(こっちょう)と言わずに、なんと言いましょう?

 

 覇王様の武勇は天下無敵。それを知らぬ者が、この世におりましょうか?

 臣とて、覇王様の威勢を恐れていないわけではありません。

 しかし、臣下の道として、役目を任された以上は働かざるを()ず、やむなく、こうして書簡(しょかん)をお届けしに参った次第(しだい)です」

 

 覇王は、少し得意になって、鼻息を吹いた。

「ふん! 劉邦が約束を破ろうとしていることなんか、とっくの昔に知ってたわ。

 お前が来なくても、あらかじめ劉邦と戦う準備は進めていたのだ。

 まあいい、とにかく劉邦の書簡(しょかん)を見せろ」

 

 陸賈(りくか)書簡(しょかん)を差し出すと、項羽は開いて読み始めた。

 その文面は……

 

『漢王劉邦、書を覇王の麾下(きか)(ほう)ず。

 以前に太公や呂后が()にいたとき、危害を加えず養ってくれたことには感謝する。

 

 ただ、太公らを長いあいだ拘束して返還を(こば)んだり、陣の前に出して俎板(まないた)に載せたりした。

 このことに対しては、胸の中に(うら)みを溜めこみ、怒りを抱いていたのだ。

 この腹立ちは、1日で止まるようなものではない。

 

 できることなら、兵を()げ、力を尽くして汝を征討(せいとう)したかった。

 しかし、大切な(うつわ)の近くに(ねずみ)がいる時は、(うつわ)を傷つけるのが怖くて石を投げられないだろう?

 つまり、俺の攻撃の巻き添えで太公を殺される可能性を心配して、全力で汝と戦えなかったのだ。

 

 俺はずっと、お前を倒すことと、太公を死なせないこと、この2つの困難に板挟みとなっていた。

 講和して中国を2つに分割したのも、実は、太公や呂后を漢に帰らせるための計略に過ぎなかった。

 

 そもそも、人の子として親を思う気持ちには、どこまでも限りがないものだ。

 親のためなら、この体を(そこ)なうことだって(いと)わない。

 まして、知略を用いるくらいは当然だ。

 

 いわば、利をもって愚者(ぐしゃ)(まど)わし、(いつわ)りをもって貪欲(どんよく)な者を(おとしい)れる、というところか。

 汝という魚を吊り上げる体勢を整え、獲物(えもの)を引き込んで狩る計略を試してみたのだ。

 貴公は、まったく計略に気づかず、うまく引っ掛かってくれたよ。

 

 太公や呂后は、こちらへ取り戻した。

 今や、俺を縛り付けるものは何も無い。

 そこで、大いに軍旗を振り、太鼓を打ち鳴らして、覇王殿と固陵(こりょう)にて会戦しようと思う。

 

 覇王よ。もし恐れないなら、すぐに軍を動かし、決戦に来られよ。

 この挑戦から逃げるなよ!』

 

 項羽は、読み終わるなり大激怒し、書簡(しょかん)微塵(みじん)()き砕き、すさまじい大音声で(ののし)った。

「劉邦! 約束破りの小人(しょうじん)がッ!

 俺を(だま)して太公を取り返し、盟約(めいやく)(そむ)いて俺と決戦しようってのか!

 

 俺は会稽(かいけい)で挙兵してから戦うこと300戦以上、向かうところ敵無しだ!

 天下の諸侯は、みんな両手を(そろ)えて頭を下げて、俺に帰服してきたんだ!

 だが劉邦、あの匹夫(ひっぷ)だけは、不相応の野望を抱いて俺を(あざむ)(あなど)りやがる!

 

 陸賈(りくか)ッ!

 汝は、すぐに帰って劉邦に伝えろ!

 『俺の剣が振り下ろされるのを、首を洗って待っていろ!』とな!

 

 あの匹夫(ひっぷ)を殺さない限り、俺は誓って軍を帰らせないぞ!」

 

「ははっ!」

 陸賈(りくか)は、表向き震え上がって見せながら、内心では『うまくいった』と舌をだしていた。

 

 

   *

 

 

 陸賈(りくか)は、無事、彭城(ほうじょう)を後にして、固陵(こりょう)へ帰ってきた。

 そして、すぐに劉邦に謁見(えっけん)し、項羽の反応を詳しく報告した。

「……というわけで、こちらの思惑(おもわく)通りに事が運びました。

 漢王様、あとはお早く使者を飛ばし、韓信たちを召し寄せて戦備をなさいませ」

 

 だが。

 これを聞いた劉邦は、なぜか()かない顔だった。

 

 劉邦は、張良と陳平(ちんぺい)を呼んだ。

陸賈(りくか)が上手く項羽をその気にさせてくれた。

 項羽は、そう遠くないうちに攻めてくるぞ。

 

 だが……

 韓信とか諸方の軍勢が、いまだに誰も来てくれてないんだ!

 予定が狂っちゃったよ! 一体どうすればいいんだ!?」

 

 そう。

 韓信、英布、彭越(ほうえつ)らと力を合わせて項羽を()ち取るはずだったのに、まだ1人として劉邦の元へ来ていないのである。

 このままでは、劉邦自身の兵力だけで項羽と戦うハメになってしまう。

 

 慌てふためく劉邦に対し、張良は、落ち着いた声で答えた。

「まずは冷静になってくださいませ。漢王様の手元にも、兵は、すこぶる多くございますから。

 とりあえず、今いる大将たちに(めい)じて、()との交戦準備を整えさせるのです。

 

 それと同時に、韓信たちには使者を送り、急いで来るようにと要請いたしましょう」

 

 劉邦は、張良の言葉に、一も二もなく従った。

 すなわち、王陵・周勃(しゅうぼつ)などの大将に(めい)じて各所の戦備を進めさせ、韓信・英布・彭越(ほうえつ)のところへは使者を送って状況を告げたのである。

 

 

   *

 

 

 それから、数日後……

 項羽は、30万の軍勢を(ひき)いて、彭城(ほうじょう)より出陣した。

 

 ()軍は、徐州(彭城(ほうじょう)周辺の地域)から出ると、行く先々の民家を(おびや)かし、道々の田畑を踏み荒らしながら、一路、固陵(こりょう)へと進んでいった。

 

 そのため、各地の郡県では、民衆が、ことごとく逃げ隠れし、官吏(かんり)たちさえ避難してしまった。

 これからまた、昼夜()むことのない合戦が始まるのだ……と、人民たちは、不安に駆られながら息を(ひそ)めていた。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

■次回予告■

 

 みずから挑発しておきながら項羽の脅威に震える劉邦。またも敗走を余儀なくされた理由はもとより明々白々。英布、彭越(ほうえつ)、そして韓信。頼みの綱の(いくさ)上手(じょうず)がいまだ1人も来てくれぬ。

 この苦境を打破すべく、劉邦は己の持つ最大の美点を余すところなく発揮した。どうして項羽は勝てぬのか? なぜ劉邦は負けぬのか? その理由と原因をあけっぴろげに示しつつ、今、()漢戦争、最終局面へ!

 

 次回「龍虎戦記」第六十七回

 『最後の布石』

 

 ()う、ご期待!




●注釈
 劉邦の書簡(しょかん)に『大切な(うつわ)の近くに(ねずみ)がいる時は、(うつわ)を傷つけるのが怖くて石を投げられない』という比喩があった。これは「漢書・賈誼(かぎ)伝」に見られる表現である。
 賈誼(かぎ)は、前漢の5代皇帝文帝(劉邦の4男)などに仕えた、文才で知られる臣。彼の上奏文の中に以下のような一節がある。
『里の(ことわざ)に、「(ねずみ)に投げんと欲して(うつわ)()む」と言います。これは上手い(たと)えです。(ねずみ)の近くに(うつわ)がある時は、(うつわ)を傷つけるのが怖くて、石を投げるのがはばかられる。まして君主の近くに仕える貴臣に対してなら、なおさらです。君子を治めるには、廉恥(れんち)礼節(れいせつ)の心をもってするのです。死を(たま)うことはあっても、刑罰によって(はずかし)めてはいけません』
 つまり、高貴な臣に対して屈辱(くつじょく)的な刑罰を加えれば、その臣が仕える君主も巻き添えで(はずかし)められたも同然となる。そういうことは避けるべきだ……という趣旨である。
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