項羽が追撃を止めたおかげで、劉邦は何も危険な目に遭うことなく進むことができた。
そして、夜明け頃。
このときにはもう、劉邦は固陵から80里(32km)以上も先まで逃げおおせていた。
ここで、張良と陳平が、そろって劉邦のそばに寄ってきた。
陳平が言う。
「漢王様。
夜通しの行軍でお疲れでしょうが、片時も休息しては、なりません。
力の限り前進し、一刻も早く成皋へ行きましょう」
しかし劉邦は、不安げだった。
「でもさあ……
たとえ俺が成皋に逃げ込んだとしても、項羽は後から追いかけてきて、成皋を包囲するに決まってる。
すぐには援軍も来ないし……一体どうすればいいんだ?」
ところが張良は、余裕の微笑を浮かべた。
「ご心配なく。
漢王様が成皋に到着いたしましたら、3日以内に、楚軍は必ず撤退いたします」
劉邦が、目を丸くする。
「なんだってえ?
……ははあ。張良先生、なにか妙策があるんだな?」
張良が、うなずく。
「はい。
これまでのことを思いだしてくださいませ。
項羽は、戦いに出てくると、いつもいいところで撤退するハメになっていたでしょう。
あれは、兵糧が不足しているからなのです。
中国西方の漢や関中は周辺を山に囲まれていて、大軍を進められる道は限られております。
そのため、我らは糧道を横から襲われる心配がなく、安定して本拠地から食糧補給を受け続けられます。
一方、中国東方には広大な平地が広がっており、その気になれば、どこからでも侵入できる。
事実、彭越が、あっちこっちに移動しながら楚軍の糧道を攻撃し続け、輸送を滞らせております。
これが、項羽の遠征が長続きしない理由です。
昨日、漢王様が項羽と戦っておられる間に、臣は、ひそかに張倉・臧荼の2人に5千の精兵を授け、こう指示いたしました。
『間道を通って楚軍の食糧集積所へ行き、項羽が積み貯えた食糧を、ことごとく焼き払え』と。
食料が無くなれば、たとえ楚軍が成皋に迫ってきたとしても、長く留まり続けることは、できません。
項羽は、必ず兵を撤退させますよ。
漢王様、なにも心配は要りません。
怖いのは、成皋に着くまえに敵に追いつかれることだけです。
どうぞ、お急ぎくださいませ」
「そういうことだったのか……よし!」
劉邦は諸軍に号令を出し、1昼夜で300里(120km)以上を駆ける強行軍によって、わずか数日で成皋に逃げ込んだのだった。
*
一方、楚軍。
項羽は、夜が明けてから、大将たちを召集した。
「劉邦が逃げたそうだが、まだ、それほど距離は離れていないだろう。
汝ら、早く準備をしろ。
何が何でも追いついて、逆賊を生け捕りにしてやるんだ!」
というわけで、楚軍は飛ぶように劉邦を追い始めた。
しかし、劉邦たちも必死の強行軍で逃げている。一晩の間に開いた距離は、決して短くない。
項羽たちは、追えども追えども、まったく劉邦に追いつくことができなかった。
結局、漢軍は、先に成皋城内に逃げ込んでしまい……
楚軍は、漢軍に遅れること2日、ようやく成皋に到着したのだった。
その日のうちに、楚軍による成皋城攻めが始まった。
楚軍は成皋を包囲し、全軍を推し進めて激しい攻撃をしかけた。
やはり、楚軍は強い。
いかに成皋が堅城であっても、とうてい守り切れるものではない。
漢軍の被害は日増しに拡大していき、今にも城が破られそう、というほどの状況にまで陥った。
が、そのとき。
季布と鍾離昧が、項羽のもとへ駆け込んできた。
「覇王様! 一大事です!
今、我が軍の兵糧は尽きかけていて、わずかに半日分を残すのみ、なのですが……
先ほど、柳村の食糧集積所から連絡が入りました。
突然、漢の張倉・臧荼が襲ってきて、集めてあった食糧を全て焼き尽くしてしまったそうです。
加えて、韓信が大軍を率いて成皋救援のため接近してきた、という報告も入っております。
覇王様。早く兵を撤退させなければ危険です。
外から韓信、内から劉邦が同時に攻めて来れば、我らは食糧不足の中で挟み撃ちを受けることになります。
もしそうなれば、進むも退くも身動き取れなくなってしまいます」
項羽は、これを聞いて青ざめた。
「くそっ……俺たちの軍は、いつも兵糧の輸送が上手くいかなくて、食糧不足に苦しんでいるんだ。
そのうえ、集積所の分まで焼き払われただと!
こうなったら、もう1日たりとも、この場に留まっていられない……
しかたない! 撤退するぞ!
桓楚! 虞子期!
お前たちは殿として敵の追撃を防げ!」
食糧枯渇の問題は、楚軍の諸将も前々から心配していたことである。
そのため各軍は、撤退命令を受けるや、雲を巻く風のように退きはじめ、わずか半日で完全に成皋から消えうせてしまった。
*
劉邦は、成皋の城壁上から、この楚軍の動きを見ていた。
「おっ! 張良先生の言った通り、楚軍が退いていったぞ!
きっと、張倉たちが楚の食糧を燃やしてくれたんだな」
そして劉邦は、諸将に命じた。
「大急ぎで楚軍を追いかけて、ぶちのめしてやれ!」
これを陳平が押しとどめる。
「決して無用です。
楚の兵は負けて去ったのではありません。単に食糧が不足しているから去っただけなのです。
ご覧ください。楚軍は、隊伍を乱さず、ゆっくりと撤退しているでしょう。
あれは、漢軍の追撃を見越しているからです。
おそらく、かなりの強将を殿として、追撃部隊を返り討ちにする手筈を整えているはず……
うかつに手を出せば、我らは、まっぷたつに斬り殺されてしまいますよ」
劉邦は、
「なるほど……陳平の言う通りだ」
と納得し、追撃を諦めたのだった。
*
さて、項羽は、彭城まで帰還してくると、兵糧管理の責任者を呼び出した。
「汝は、用心を怠り、兵糧を敵に焼かれてしまった。
そのせいで、俺は戦い続けることができず、帰ってくるハメになったんだ!
この罪、許しがたい!」
項羽は、責任者の首を刎ねると、軍門の前に首を晒して、全軍への戒めとした。
そして、再び軍馬を整え、次の合戦の準備を進めたのだった。
*
一方そのころ、成皋に駐屯する劉邦もまた、同じようにイラだっていた。
劉邦は、張良と陳平を呼んで言った。
「韓信、英布、彭越の3将が、呼んでも呼んでも来てくれない!
一体どういうわけなんだ!?」
張良が言う。
「韓信は、すでに斉王に封じなさったとはいえ、まだ領地は与えておりません。
彭越は、しきりに大功を立てておりますが、こちらも封爵の御沙汰がありません。
そして英布もまた、楚に背いて我らの味方に降って以来、漢王様は一度も恩賞を与えておられません。
この3人は、己の利益ばかり見て、義の心を忘れているのです。
貪欲と申しましょうか、いささか自惚れ気味と申しましょうか……
よって、この3人を動かすために必要なことは、ただひとつ。
特に厚く恩賞を施し、爵位や領地を与えてやるのです。
それぞれに領土として郡や邑を与えれば、彼らは大いに喜び、自分自身の利益のために力を尽くして戦う気になるでしょう。
さすれば、漢王様の命令ひとつで、彼らはすぐに駆けつけて来ます。
こちらから何も与えず、相手の方にだけ心を尽くさせようというのは、なかなか難しいものですよ」
劉邦は、納得して、うなずいた。
「そうか……
先生は、まるで、あの3人の肺や胃腸まで見透かしているみたいだな。
よし! それじゃあ、あいつらに派手な恩賞を与えよう!
まず、韓信は斉に加えて周辺2国の領有を認め、三斉王に封じる。
近隣一帯の郡や邑は全て韓信に統治させ、租税、金銭、食糧などは、ぜんぶ韓信が好きに使ってよいものとする。
まあつまり、土地を分け与えて国家として認め、国境を設定してその内部のことは任せる、ってことだ。
英布には淮水より南側の国すべての領有を認め、淮南王に封じる。
淮南の産物は、丸ごと英布の活動費用にあててかまわない。
それから彭越は、大梁王に封じる。
梁で取れた全ての物は、彭越が集めて利用してよい。
……という感じで、どうかな?
張良先生、苦労をかけて申し訳ないんだが、王の印章と符檄(通知の公文書)を持って、3人のところへ行ってきてくれないか」
張良は、にっこりと微笑んだ。
「お任せください」
檄文は、すぐに書きあげられた。
張良は、印章と檄文を持って劉邦の元を去り、3将の元へ旅立っていった。
(つづく)