張良は、まず斉の韓信のもとを訪れた。
韓信は、張良が来たと聞くと、すぐに便殿(貴人を泊めるための御殿)へ迎えいれた。
そして韓信は、賓客に対する礼儀作法で、張良を丁重に歓迎しようとした。
張良が言う。
「韓信大元帥は、今や大国の王として、70城以上を治めておられる身。
そのお立場は、昔とは比べ物になりません。どうして私ふぜいが、賓客扱いなどしていただけましょうか」
韓信は、うれしそうに笑った。
「この韓信、張良先生のお力がなければ、今のような地位に就くことなど、到底できませんでした。
しかも先生は、漢王様の軍師でも、いらっしゃるのです。
こうして恩師に対する礼でお迎えしても、まだ足りないくらいです。
王位に就いたからといって、先生に対して偉そうな顔はできませんよ」
張良は、穏やかに微笑んだ。
「ふふ……では、大元帥には、もっと偉くなっていただきましょうか。
漢王様は、私を使者として大元帥のもとへ遣わし、大元帥を三斉王に封じなさいました。
この国の70余城、本日ただいまより、すべて大元帥の領地となります」
韓信は、これを聞くと、限りなく喜んだ。
そして、再拝して感謝の言葉を述べ、酒宴を設けて、張良を、もてなした。
宴の最中、張良は、檄文を出して韓信に渡した。
「項羽は今、孤立して、勢力も弱まってきております。
ゆえに漢王様は鴻溝の約に背き、再び兵を起こして楚と交戦なさったのです。
その戦い途中、私の計によって、楚の積み貯えた兵糧を、ことごとく焼き払いました。
そのため、項羽は遠征を継続できなくなり、彭城へ逃げ帰りました。
ここで大元帥が、漢王様に軍を合流させて楚を討ちなされば、漢による天下統一が成しとげられることは、疑う余地もありません。
そうすれば、大元帥もまた、座ったままで王位を享受し、長く子孫まで繁栄し続けることができましょう。
開国の元勲(功労者)として未来永劫称えられ続ける……実に美しいことではありませんか?
しかし、もし楚軍を平定することができなければ、大元帥もまた、今の地位を安定させることができません。
たとえ斉の地におられたとしても、漢楚2人の王の間に挟まれ、いつまでも不安定な状況に置かれ続けることになります。
大元帥、以上のことを、よくお考えくださいませ」
韓信は、気まずげに、うつむいた。
「先日、広武山の合戦で、楚の賊を、あと一歩で滅ぼせるところまで行きました。
それなのに、漢王様は、太公が楚軍にあることを心配するあまり、突然和睦を約束して、天下を楚と分割してしまわれた。
その上、私には領地を与えてくださらなかった……
実は、そのことで気分が鬱々として、何をしても楽しめなくなっていたのです。
今、張良先生のお言葉が、私の心臓や肺に切々と響きました。
さらに、漢王様から、これほど大きな恩賞を賜ったからには、じっとしてはいられません。
すぐに兵を起こし、楚を滅ぼすために合流いたします。
そして天下を統一し、漢王様には、中国に座したまま四方の異民族を鎮撫できる立場に登っていただきましょう。
先生のお言葉に説得されたから、ではありません。
漢王様が天下の諸侯を従えなさることは、この韓信が、ずっと志してきたことですから」
張良は立ち上がり、韓信に丁寧な感謝の礼をした。
「大元帥が、そのようにお考えであれば、これすなわち社稷(国家)の幸福というものです。
大元帥。今、この時を逃さず、お早く兵を起こして漢王様に合流し、楚を討ってくださいませ。
このあと私は、淮南と大梁へ行き、英布・彭越に、兵を出して大元帥に協力するよう勧めてきましょう」
韓信は、大いに喜んだ。
「それは助かります。
私は、すみやかに大軍を動かして、成皋へ向かいます。
張良先生がお帰りになる頃には、人馬の調練を完璧に仕上げておきますよ」
*
張良は、韓信と別れると、すぐに英布のいる淮南へ向かった。
張良が淮南へ到着すると、英布は、丁重に迎え入れて対面した。
その場で、張良は淮南王の印章を出した。
「漢王様からの詔を伝えます。
『英布将軍を淮南王に封じ、九江より南の郡県を、ことごとく将軍に賜う』と……」
これを聞くと、英布は飛び上がって喜んだ。
それもそのはず。
今回の加封によって、英布の領地は一気に3倍にも膨れ上がったことになるのだ。
英布は、劉邦がいる西の方角に向かい、君臣の礼儀作法でお辞儀すると、感謝の言葉を述べた。
そこへ、張良が、さらに言葉を続けた。
「英布将軍は、今、淮南王におなりあそばして、人臣の位の極みにまで到達なさいました。
しかし、項羽は、いまだ滅んでいません。
英布将軍の御心は、まだ落ち着かないでしょう。
なんといっても項羽は、将軍にとって、この世で最も憎い仇……
項羽が生きているうちは、せっかく手に入れた淮南王の位も、安定して保ち続けることは、できません。
韓信元帥は、兵を挙げて、すでに成皋へ向かわれました。
英布将軍も、お早く軍馬を催して、漢王様に合流してくださいませ。
ともに楚の賊を滅ぼし、大きな功績を立てて、長く富貴を享受してください。
それこそ、真の烈丈夫(義に堅い男)の行いというものですよ」
英布は、ますます喜び、大急ぎで三軍に命令して、即日出発の用意をした。
*
張良は、英布と別れると、最後に大梁を訪れた。
張良が到着したとき、彭越は、ちょうど客と酒を飲んでいるところだった。
しかし彭越は、張良が来たと聞いたとたん、慌てて衣服を整えて出迎えた。
お互いに礼をしおえたところで、張良は、劉邦からの檄文と詔書を出して、彭越に与えた。
彭越は、机の上に詔書を開いて置き、香を焚いて、詔書を読み始めた。
その文に曰く……
『分茅胙土とは、白い茅で土を包んで授ける儀式で、建国のときに行われるものである。
錫予蕃庶とは、恩賞を錫い予えて庶民を蕃えさせることを言い、功績のある者に報いる方法である。
魏の相国彭越よ。
汝は楚軍の後方を何度も脅かし、糧道を遮断してくれた。
矢も石も避けずに戦い、漢のために功績を立ててくれたのだ。
しかし、汝は長く梁の地にいながら、いまだに領地を得ていない。
そこで、汝を封じて大梁王となし、おおよそ50の郡城を、みんな汝の支配下に置く。
王爵の位によって人々から尊ばれ、厚い俸禄によって栄えるがよい。
その身分を子孫にも世襲し、1万年に渡って名を残すがよい。
そして、ますます初心を励まし、我が命に違反しないようにせよ』
彭越は、詔書を読み終わると、叩頭(地面に頭をつけるお辞儀)して感謝した。
それから彭越は、盛大な宴を開いて、張良を、もてなした。
その席で、張良が言う。
「彭越将軍は、しばしば大功を立ててこられましたが、漢王様は、今まで将軍の働きに報いたことがありませんでした。
しかし今、こうして恩賞が与えられたのです。
ですから彭越将軍、どうぞ軍勢を率いて成皋へ赴き、韓信大元帥と共に、楚を滅ぼしてくださいませ。
遅れては、なりませんよ」
彭越は、
「もちろんです!」
と、喜ぶこと限りなく、すぐに全軍を整頓し、成皋へ向かう準備を始めた。
*
こうして、張良の役目は、すべて滞りなく完了した。
張良は、すぐに成皋へ帰るつもりでいたのだが、彭越が再三にわたって引き止めるので、数日ほど大梁に逗留することにした。
まあ、急いで帰ったところで、どのみちもう張良の仕事は残っていない。
最終決戦への布石は、すべて打ち終えた。
あとは放っておいても、決着は……つく。
張良は、何年ぶりかで羽を伸ばし、のんびりと城外の風景を見物して回った。
大梁。
ここは、天の中央を鎖で繋ぎ止め、地の四方を抑え込む、まさに中華の中心と呼ぶべき土地である。
周囲を何重にも取り囲む山林は、さながら縒って束ねた糸のよう。
あの山々のどこで龍がトグロを巻き、虎が息を潜めているやら分からない。
北には黄河の濁りが横たわり、城内は清らかな洛水の流れが貫く。
封土(領地)には万の家々が連なり、都は四方の道へ繋がる。
まさに、ここは中国九州の喉元にして、中夏の中心である。
6つの街、3つの市、どこを見ても大変な混雑で、往き交う人々が砂煙さえ立てている。
民も豊かで土地も肥え、とても見物しきれないほどに広い。
張良は、深く嘆息した。
「項羽は、この世の状況が見えていなかった。
だから、良い土地を選ぶことが、できなかった。
咸陽を捨てて彭城に都を置き、大梁を守らず徐州を守った。
敖倉の穀物を取ることもせず、楚軍を食糧欠乏に陥らせた。
これが……項羽が天下を失う理由なのだ」
数日後。
張良は、彭越に別れを告げ、成皋への帰路についた。
長きにわたる楚漢戦争。
その決着が間近に迫っていることを、ひとり、張良だけが知っていた。
(巻十二へ、つづく)
■次回予告■
英布、彭越、そして韓信。前代未聞の大軍で無敵の覇王に挑まんとする漢王劉邦。一方、焦った覇王項羽は戦力集めに血道を上げる。
闇で蠢く稀代の謀士。奔る詐術。唸る弁舌。果たして勝つのは漢か楚か。中華の命運を賭けた究極の名演技、とくとご覧あれ。
次回「龍虎戦記」第六十八回
『最終決戦、その前夜』
乞う、ご期待!