漢王劉邦は、韓信に出馬を促すため、韓信を三斉王に封じて、広大な土地を領有させた。
この恩賞の効果は抜群だった。
韓信は限りなく喜ぶと、すぐさま各郡県に檄文を送り、楚討伐のための軍勢を組織した。
その数、実に15万。
韓信は、吉日を選んで、劉邦の待つ成皋へと出発せんと、着々と準備を進めていった。
*
そんな、ある日のこと。
蒯徹が、韓信のもとを訪れた。
蒯徹……彼は、半年ほど前まで韓信のもとで働いていた陰謀家である。
かつて韓信が斉王になったとき、項羽は、韓信を懐柔して味方につけようと、使者を送ってきた。
そのとき蒯徹は、韓信に、こう勧めた。
「劉邦のもとを離れ、独立勢力として漢楚と鼎立せよ」と……
しかし韓信は、心情的に、どうしても劉邦を裏切れなかった。
こうなると当然、裏切りを勧めた蒯徹は、劉邦に目をつけられてしまう。
身の危険を感じた蒯徹は、難を逃れるために、発狂を装って出奔した。
それ以来、蒯徹は、狂人のフリをしながら笑い歌って市街を徘徊する生活を、ずっと続けていたのである。
その蒯徹が、今、再び韓信に会いに来たのだという。
韓信は、蒯徹が来たと報告を受けると、迎え入れて対面した。
韓信は、懐かしむような、悲しむような、微妙な視線を蒯徹に向けた。
「やあ、蒯徹先生。久しぶりだな。
私は、以前に先生の教えを拒絶してしまった。もう二度と会えないものと思っていたよ。
その先生が、またこうして私に会いに来てくれた……
ということは、なにか私に聞かせたい高論があるのだろう?」
蒯徹が答える。
「斉王様は、私の能力を深く評価してくださいました。
私は、その御恩を忘れてはおりません。
それゆえ、斉王様に無涯の禍を踏ませるのが忍びなく、恥を忍んで再びお目にかかりにきたのです」
韓信は、眉をひそめた。
「無涯の禍……決して終わることのない禍だと? 一体どういうことだ」
蒯徹が言う。
「漢王は、先日、固陵において楚軍に包囲され、極めて危険な状況に陥りました。
救援要請の早馬が、この斉にも昼夜ひっきりなしに飛び込んできていたはずです。
ところが斉王様は、救援に向かいませんでした。
そのため、漢王は追いつめられ、やむを得ず貴方様を三斉王に封じ、領地も分け与えると言いだしました。
今回の加封(以前よりさらに高い爵位に封じること)は、貴方様の功績に対する報酬ではありません。
ただ餌を与えて貴方様の心を喜ばせ、楚討伐のために働かせようとしているだけなのです。
この先の未来に起きることが、私には手に取るように分かります。
今、貴方様は、高貴なる王位についておられる。
しかし天下が平定された後、今のまま、ゆったり心を落ち着けて富貴を享受できるとお思いか?
漢王は、過去の恨みを忘れておりません。
滎陽や成皋で漢王が危機に陥ったとき、貴方様は漢王を助けに行かなかった。
表面上はどうあれ、心の奥底では、間違いなく貴方様に不信感をもっておりましょう。
そして、いつか不信は恐れに変わる。
『韓信は、自分が中国の支配者になろうと野望を抱いているのではないか?』
そんな疑心暗鬼に駆られはじめるのです。
漢王は、必ずや、なにか計略を用いて貴方様を誅殺します。
心腹の患いを取り除くために……
お分かりですか? 項羽亡き後、貴方様こそが漢王の心腹の患いとなるのですよ!
幸いにも、今はまだ漢楚の戦いは決着をみておりません。
そして項羽の勢力も弱まってきております。
この状況に乗じて、斉国を独占し、三分天下・三国鼎立の体制を作り上げるのです。
さすれば、貴方様は長く無事を保てるでしょう。
しかし、これでもまだ迷い続けて私の言葉を聞き入れないようなら、楚が滅びた後、必ず貴方様は咎無くして命を断たれることになる。
どうか、このことを、よくお考えくださいませ」
韓信は、首を振った。
「先日、張良が自ら来て、私に漢王様の命を伝えてくれた。
そのとき私は、兵を起こして楚を討伐すると約束したのだ。
もし私が行かなければ、私は3つの不義を行うことになる。
1つめは、臣として主君の命に違反すること。
2つめは、朋友の信頼を裏切ること。
そして3つめは、これまで私に多くの恩を与えてくださった漢王様の思いやりに背くことだ。
この3つの不義をやらかせば、たとえ私が斉国を手に入れたとしても、天下の諸侯は私を誹り罵るだろう。
そんなことになったら、私は漢王様に合わせる顔がない。
蒯徹先生。貴公の教えは、確かに黄金や宝玉のように、すばらしい。
だが、この韓信は、漢王様に背く気には、なれない」
蒯徹は、悲しげに目を細めた。
「韓信様……臣の言葉に従っていただかなければ、いつか必ず殺され、大いに悔いることになるのですよ……」
「もう言うな、蒯徹」
韓信は、静かな怒りを声に込め、袖を勢いよく振り払いながら蒯徹に背を向け、奥の部屋に引っ込んでしまった。
蒯徹は、ひとり、部屋の中に残され、言葉も無く立ち尽くした……
そこへ韓信の部下が入ってきて、
「三斉王様のご命令です。どうぞ、お引き取りを」
と、蒯徹を追い出そうとした。
蒯徹は、ふらり、と韓信の宮殿を後にした。
*
蒯徹は、再び、狂った病人のフリをして、街の大路を走り出した。
そして、走りながら即興で歌を作り、歌い上げた。
隆準困に遭ふも公救ふこと罔く
加ふに厚封を以てすれば乃ち出師す
楚若し存せば公の勢は重からん
羽若し亡ばば公必ず夷げられん
李斯東門に黄犬を思ひ
酈生煮らるるに酒卮を念ず
危きに臨んで安きを思ふも悔い已に晩く
難に遭ひて始めて悔ひるも意已に遅し
何如ぞ斉土に拠り
高きに登りて卑きを視ば
成敗立ちどころに見るべし
漁人両を収めて持す
功成りて一たび手を翻して
何ぞ乃ち自ら為さざる
此の万世の業を捨て
彼の湯火の危きを冒す
吾が言本より金石なるに
奈何ぞ三たび思はざる
狂を佯りて以て自ら廃す
恐らくは捏の為に緇む所とならん
我が歌君且く聴け
聴かずば吾何くにか之かん
南海の上に放蕩し
害を遠ざけて鬚眉を全うせん
『韓信よ、私の警告を聞いてくれ。
聞いてくれなければ、私は身を守るために放浪の旅に出るしかないではないか』
と、苦しい胸中を切々と歌い上げる詩であった。
韓信の近臣は、蒯徹の歌を聞くと、慌てて韓信に報告した。
韓信に反乱を勧める歌でもあったし、韓信への不平をブチまけるような歌でもあったからだ。
だが、韓信は、笑って言った。
「なあに。あれは、今までさんざん議論してきたことだ。特に目新しくもない。
処罰するかどうかなど、いまさら論じる必要もあるまいよ」
こうして、蒯徹の行動は不問とされた。
その頃には、軍の出発準備も、完全に整っていた。
韓信は、すぐに兵を出して、数日で成皋へ到着した。
そこで韓信は劉邦に謁見し、新たな領地を加えられた恩に感謝の言葉を述べると、さっそく軍馬の調練に取りかかったのだった。
*
一方そのころ。
軍師張良は、彭越を大梁王に封じた後、再三に渡って彭越に念を押していた。
「彭越将軍。
とにかく速やかに兵を起こし、韓信大元帥と合流して、楚を破ってくださいませ。
よろしいですね? 必ずですよ」
彭越も、これに快く、うなずいた。
「張良先生、心配しないでください。
それがしも、先生の後を追って、すぐに成皋へ参ります」
彭越の確約を得ると、張良は急いで成皋へ帰還した。
成皋で待っていた劉邦に、韓信・英布・彭越の説得に成功したことを告げると、劉邦は大喜びした。
「韓信なら、張良先生より一足早く成皋に到着したぞ。
さすがは先生だ! 先生が行ってくれなかったら、韓信たちも、こんなに簡単に兵を出そうとはしなかっただろうよ!」
張良は、穏やかに微笑み、首を振った。
「臣の力ではありませんよ。
韓信は、漢王様の威徳を感じて、みずから馳せ参じたのです」
*
それから10日も経たないうちに、英布、彭越も軍勢を率いて到着した。
そして、他の諸国からも、幾千万かも分からぬほどの軍勢が続々と集まってきた。
集まった兵は、城外に、みっしりと雲霞のように充満し……
成皋から滎陽までの数百里、すべてこれ漢兵、というほどであった。
劉邦は深く喜び、韓信に再び大元帥の印章を与え、全軍ことごとく韓信の号令に従うよう命じた。
韓信は、全軍の総司令官を任されると、まず諸国の軍勢の点検調査に手を付けた。
その調査によれば、漢軍に合流してきた諸軍の兵力は……
燕王の兵15万。
英布の兵5万。
彭越の兵5万。
両魏、すなわち西魏・河南の兵20万。
蕭何の兵15万。
臧荼の兵3万。
韓王の兵3万。
洛陽の兵5万。
三秦の兵6万。
ここまで合計77万騎。
さらに、漢王劉邦の手勢20万。
韓信の軍勢15万を加え……
都合112万騎以上。
前代未聞の途方もない大軍であった。
また、英布、彭越、樊噲、王陵、周勃のような英勇の大将は800人あまり。
劉邦の左右に仕える謀士や輔弼(補佐)の大臣は50人以上。
韓信は、調査結果を、ひとつひとつ詳しく書類にまとめあげ、劉邦に献上した。
劉邦は、味方のすさまじい数を見て喜ぶこと限りなかった。
そして劉邦は、蕭何、陳平、夏侯嬰に、全軍への食糧供給を命じた。
三秦から運送してきた兵糧や、敖倉に貯蔵されていた穀物が、次々に運び込まれて112万人の腹を満たした。
また、軍の中に病気の者がいれば、医薬を与えて治療させた。
軍の中に死者が出れば、棺を賜わって手厚く葬らせもした。
100万を超える大軍に、これだけ手厚い対応をしていれば、日々すさまじい費用がかかることは言うまでもない。
ゆえに諸軍の将兵は、劉邦の気前良さに感動し、喜び勇んで闘志を燃やしたのだった。
(つづく)