龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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巻十二 四面楚歌
六十八の甲 最終決戦、その前夜


 

 

 漢王劉邦は、韓信に出馬を促(うなが)すため、韓信を三斉(さんせい)王に封(ほう)じて、広大な土地を領有させた。

 

 この恩賞の効果は抜群(ばつぐん)だった。

 韓信は限りなく喜ぶと、すぐさま各郡県に檄文(げきぶん)を送り、楚(そ)討伐(とうばつ)のための軍勢を組織した。

 

 その数、実に15万。

 韓信は、吉日(きちじつ)を選んで、劉邦の待つ成皋(せいこう)へと出発せんと、着々と準備を進めていった。

 

 

   *

 

 

 そんな、ある日のこと。

 蒯徹(かいてつ)が、韓信のもとを訪(おとず)れた。

 

 蒯徹(かいてつ)……彼は、半年ほど前まで韓信のもとで働いていた陰謀家である。

 

 かつて韓信が斉(せい)王になったとき、項羽は、韓信を懐柔(かいじゅう)して味方につけようと、使者を送ってきた。

 そのとき蒯徹(かいてつ)は、韓信に、こう勧(すす)めた。

「劉邦のもとを離れ、独立勢力として漢楚(そ)と鼎立(ていりつ)せよ」と……

 

 しかし韓信は、心情的に、どうしても劉邦を裏切れなかった。

 

 こうなると当然、裏切りを勧(すす)めた蒯徹(かいてつ)は、劉邦に目をつけられてしまう。

 身の危険を感じた蒯徹(かいてつ)は、難を逃(のが)れるために、発狂を装(よそお)って出奔(しゅっぽん)した。

 

 それ以来、蒯徹(かいてつ)は、狂人のフリをしながら笑い歌って市街を徘徊(はいかい)する生活を、ずっと続けていたのである。

 

 その蒯徹(かいてつ)が、今、再び韓信に会いに来たのだという。

 韓信は、蒯徹(かいてつ)が来たと報告を受けると、迎え入れて対面した。

 

 韓信は、懐かしむような、悲しむような、微妙な視線を蒯徹(かいてつ)に向けた。

「やあ、蒯徹(かいてつ)先生。久しぶりだな。

 私は、以前に先生の教えを拒絶してしまった。もう二度と会えないものと思っていたよ。

 

 その先生が、またこうして私に会いに来てくれた……

 ということは、なにか私に聞かせたい高論(こうろん)があるのだろう?」

 

 蒯徹(かいてつ)が答える。

「斉(せい)王様は、私の能力を深く評価してくださいました。

 私は、その御恩(ごおん)を忘れてはおりません。

 それゆえ、斉(せい)王様に無涯(むがい)の禍(わざわい)を踏ませるのが忍びなく、恥を忍(しの)んで再びお目にかかりにきたのです」

 

 韓信は、眉をひそめた。

「無涯(むがい)の禍(わざわい)……決して終わることのない禍(わざわい)だと? 一体どういうことだ」

 

 蒯徹(かいてつ)が言う。

「漢王は、先日、固陵(こりょう)において楚(そ)軍に包囲され、極めて危険な状況に陥(おちい)りました。

 救援要請の早馬が、この斉(せい)にも昼夜ひっきりなしに飛び込んできていたはずです。

 

 ところが斉(せい)王様は、救援に向かいませんでした。

 そのため、漢王は追いつめられ、やむを得ず貴方(あなた)様を三斉(さんせい)王に封(ほう)じ、領地も分け与えると言いだしました。

 

 今回の加封(かほう)(以前よりさらに高い爵位(しゃくい)に封(ほう)じること)は、貴方(あなた)様の功績に対する報酬ではありません。

 ただ餌(えさ)を与えて貴方(あなた)様の心を喜ばせ、楚(そ)討伐(とうばつ)のために働かせようとしているだけなのです。

 

 この先の未来に起きることが、私には手に取るように分かります。

 今、貴方(あなた)様は、高貴なる王位についておられる。

 しかし天下が平定された後、今のまま、ゆったり心を落ち着けて富貴を享受(きょうじゅ)できるとお思いか?

 

 漢王は、過去の恨(うら)みを忘れておりません。

 滎陽(けいよう)や成皋(せいこう)で漢王が危機に陥(おちい)ったとき、貴方(あなた)様は漢王を助けに行かなかった。

 表面上はどうあれ、心の奥底では、間違(まちが)いなく貴方(あなた)様に不信感をもっておりましょう。

 

 そして、いつか不信は恐れに変わる。

『韓信は、自分が中国の支配者になろうと野望を抱いているのではないか?』

 そんな疑心暗鬼に駆られはじめるのです。

 

 漢王は、必ずや、なにか計略を用いて貴方(あなた)様を誅殺(ちゅうさつ)します。

 心腹(しんぷく)の患(うれ)いを取り除くために……

 お分かりですか? 項羽亡(な)き後、貴方(あなた)様こそが漢王の心腹(しんぷく)の患(うれ)いとなるのですよ!

 

 幸(さいわ)いにも、今はまだ漢楚(そ)の戦いは決着をみておりません。

 そして項羽の勢力も弱まってきております。

 

 この状況に乗(じょう)じて、斉(せい)国を独占し、三分(さんぶん)天下・三国鼎立(ていりつ)の体制を作り上げるのです。

 さすれば、貴方(あなた)様は長く無事を保てるでしょう。

 

 しかし、これでもまだ迷い続けて私の言葉を聞き入れないようなら、楚(そ)が滅びた後、必ず貴方(あなた)様は咎(とが)無くして命(いのち)を断たれることになる。

 どうか、このことを、よくお考えくださいませ」

 

 韓信は、首を振った。

「先日、張良が自(みずか)ら来て、私に漢王様の命(めい)を伝えてくれた。

 そのとき私は、兵を起こして楚(そ)を討伐(とうばつ)すると約束したのだ。

 もし私が行かなければ、私は3つの不義を行うことになる。

 

 1つめは、臣として主君の命(めい)に違反すること。

 2つめは、朋友の信頼を裏切(うらぎ)ること。

 そして3つめは、これまで私に多くの恩を与えてくださった漢王様の思いやりに背(そむ)くことだ。

 

 この3つの不義をやらかせば、たとえ私が斉(せい)国を手に入れたとしても、天下の諸侯は私を誹(そし)り罵(ののし)るだろう。

 そんなことになったら、私は漢王様に合わせる顔がない。

 

 蒯徹(かいてつ)先生。貴公の教えは、確かに黄金や宝玉のように、すばらしい。

 だが、この韓信は、漢王様に背(そむ)く気には、なれない」

 

 蒯徹(かいてつ)は、悲しげに目を細めた。

「韓信様……臣の言葉に従っていただかなければ、いつか必ず殺され、大いに悔(く)いることになるのですよ……」

 

「もう言うな、蒯徹(かいてつ)」

 韓信は、静かな怒りを声に込め、袖(そで)を勢いよく振り払いながら蒯徹(かいてつ)に背を向け、奥の部屋に引っ込んでしまった。

 

 蒯徹(かいてつ)は、ひとり、部屋の中に残され、言葉も無く立ち尽くした……

 

 そこへ韓信の部下が入ってきて、

「三斉(さんせい)王様のご命令です。どうぞ、お引き取りを」

 と、蒯徹(かいてつ)を追い出そうとした。

 

 蒯徹(かいてつ)は、ふらり、と韓信の宮殿を後にした。

 

 

   *

 

 

 蒯徹(かいてつ)は、再び、狂った病人のフリをして、街の大路(おおじ)を走り出した。

 そして、走りながら即興(そっきょう)で歌を作り、歌い上げた。

 

 

  隆準(りゅうせつ)困(こん)に遭(あ)ふも公(こう)救ふこと罔(な)く

  加ふに厚封(こうほう)を以(もっ)てすれば乃(すなわ)ち出師(すいし)す

  楚(そ)若(も)し存(そん)せば公(こう)の勢(せい)は重からん

  羽(う)若(も)し亡(ほろ)ばば公(こう)必ず夷(たいら)げられん

  李斯(りし)東門(とうもん)に黄犬(こうけん)を思ひ

  酈生(れきせい)煮(に)らるるに酒卮(しゅし)を念(ねん)ず

  危(あやう)きに臨(のぞ)んで安(やす)きを思ふも悔(く)い已(すで)に晩(おそ)く

  難に遭(あ)ひて始めて悔(く)ひるも意(い)已(すで)に遅し

  何如(いかん)ぞ斉(せい)土(ど)に拠(よ)り

  高きに登りて卑(ひく)きを視(み)ば

  成敗(せいばい)立(た)ちどころに見るべし

  漁人(ぎょじん)両(りょう)を収めて持(じ)す

  功(こう)成(な)りて一(ひと)たび手を翻(ひるがえ)して

  何(なん)ぞ乃(すなわ)ち自(みずか)ら為さざる

  此(こ)の万世(ばんせ)の業(ぎょう)を捨て

  彼(か)の湯火(とうか)の危(あやう)きを冒(おか)す

  吾(わ)が言(げん)本(もと)より金石(きんせき)なるに

  奈何(いかん)ぞ三(み)たび思(おも)はざる

  狂(きょう)を佯(いつわ)りて以て自(みずか)ら廃(はい)す

  恐らくは捏(でつ)の為(ため)に緇(くろ)む所とならん

  我が歌君(きみ)且(しばら)く聴け

  聴かずば吾(われ)何(いず)くにか之(ゆ)かん

  南海の上に放蕩(ほうとう)し

  害を遠ざけて鬚眉(しゅび)を全(まっと)うせん

 

 

『韓信よ、私の警告を聞いてくれ。

 聞いてくれなければ、私は身を守るために放浪の旅に出るしかないではないか』

 と、苦しい胸中(きょうちゅう)を切々と歌い上げる詩であった。

 

 韓信の近臣は、蒯徹(かいてつ)の歌を聞くと、慌てて韓信に報告した。

 韓信に反乱を勧(すす)める歌でもあったし、韓信への不平をブチまけるような歌でもあったからだ。

 

 だが、韓信は、笑って言った。

「なあに。あれは、今までさんざん議論してきたことだ。特に目新(めあたら)しくもない。

 処罰するかどうかなど、いまさら論じる必要もあるまいよ」

 

 こうして、蒯徹(かいてつ)の行動は不問(ふもん)とされた。

 

 その頃には、軍の出発準備も、完全に整っていた。

 韓信は、すぐに兵を出して、数日で成皋(せいこう)へ到着した。

 

 そこで韓信は劉邦に謁見(えっけん)し、新たな領地を加えられた恩に感謝の言葉を述(の)べると、さっそく軍馬の調練に取りかかったのだった。

 

 

   *

 

 

 一方そのころ。

 軍師張良は、彭越(ほうえつ)を大梁(だいりょう)王に封(ほう)じた後、再三に渡って彭越(ほうえつ)に念を押していた。

 

「彭越(ほうえつ)将軍。

 とにかく速(すみ)やかに兵を起こし、韓信大元帥と合流して、楚(そ)を破ってくださいませ。

 よろしいですね? 必ずですよ」

 

 彭越(ほうえつ)も、これに快(こころよ)く、うなずいた。

「張良先生、心配しないでください。

 それがしも、先生の後を追って、すぐに成皋(せいこう)へ参ります」

 

 彭越(ほうえつ)の確約を得ると、張良は急いで成皋(せいこう)へ帰還した。

 

 成皋(せいこう)で待っていた劉邦に、韓信・英布・彭越(ほうえつ)の説得に成功したことを告げると、劉邦は大喜びした。

「韓信なら、張良先生より一足(ひとあし)早く成皋(せいこう)に到着したぞ。

 さすがは先生だ! 先生が行ってくれなかったら、韓信たちも、こんなに簡単に兵を出そうとはしなかっただろうよ!」

 

 張良は、穏やかに微笑(ほほえ)み、首を振った。

「臣の力ではありませんよ。

 韓信は、漢王様の威徳を感じて、みずから馳(は)せ参(さん)じたのです」

 

 

   *

 

 

 それから10日も経たないうちに、英布、彭越(ほうえつ)も軍勢を率(ひき)いて到着した。

 そして、他の諸国からも、幾千万(いくせんまん)かも分からぬほどの軍勢が続々と集まってきた。

 

 集まった兵は、城外に、みっしりと雲霞(うんか)のように充満し……

 成皋(せいこう)から滎陽(けいよう)までの数百里、すべてこれ漢兵、というほどであった。

 

 劉邦は深く喜び、韓信に再び大元帥の印章を与え、全軍ことごとく韓信の号令に従うよう命(めい)じた。

 

 韓信は、全軍の総司令官を任されると、まず諸国の軍勢の点検調査に手を付けた。

 その調査によれば、漢軍に合流してきた諸軍の兵力は……

 

 燕(えん)王の兵15万。

 英布の兵5万。

 彭越(ほうえつ)の兵5万。

 両魏(りょうぎ)、すなわち西魏(せいぎ)・河南(かなん)の兵20万。

 蕭何(しょうか)の兵15万。

 臧荼(ぞうと)の兵3万。

 韓(かん)王の兵3万。

 洛陽(らくよう)の兵5万。

 三秦(さんしん)の兵6万。

 ここまで合計77万騎。

 

 さらに、漢王劉邦の手勢20万。

 韓信の軍勢15万を加え……

 

 都合112万騎以上。

 前代未聞の途方(とほう)もない大軍であった。

 

 また、英布、彭越(ほうえつ)、樊噲(はんかい)、王陵、周勃(しゅうぼつ)のような英勇(えいゆう)の大将は800人あまり。

 劉邦の左右に仕える謀士(ぼうし)や輔弼(ほひつ)(補佐)の大臣は50人以上。

 

 韓信は、調査結果を、ひとつひとつ詳しく書類にまとめあげ、劉邦に献上した。

 劉邦は、味方のすさまじい数を見て喜ぶこと限りなかった。

 

 そして劉邦は、蕭何(しょうか)、陳平(ちんぺい)、夏侯嬰(かこうえい)に、全軍への食糧供給を命(めい)じた。

 三秦(さんしん)から運送してきた兵糧(ひょうろう)や、敖倉(ごうそう)に貯蔵されていた穀物が、次々に運び込まれて112万人の腹を満たした。

 

 また、軍の中に病気の者がいれば、医薬を与えて治療させた。

 軍の中に死者が出れば、棺(ひつぎ)を賜(たま)わって手厚(てあつ)く葬(ほうむ)らせもした。

 

 100万を超える大軍に、これだけ手厚(てあつ)い対応をしていれば、日々すさまじい費用がかかることは言うまでもない。

 ゆえに諸軍の将兵は、劉邦の気前(きまえ)良さに感動し、喜び勇(いさ)んで闘志を燃やしたのだった。

 

 

(つづく)

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