龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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六十八の乙 最終決戦、その前夜

 

 

 劉邦のもとに大軍が(そろ)い、兵馬の調練も十分に(じゅく)してきた。

 

 劉邦は、韓信を呼んだ。

「味方の軍勢は、人も馬も完璧に仕上(しあ)がってきたみたいだな!

 大元帥、ここからの方針を教えてくれ」

 

 韓信が答える。

「人馬は整いましたが、まだ配置を伝えておりません。

 明日から臣が各大将に指示をして、『あれはここ、これはあっち』ということを定めていきます。

 

 こうして配置が終わり、全軍を自由に動かせるようになれば、いよいよ進発の時です。

 その時には、漢王様にも御車(おくるま)を出していただきます」

 

 劉邦は、機嫌(きげん)よく、うなずいた。

「よしよし、分かった。

 ところで韓信、俺は考えたんだが、項羽のところに戦書(せんしょ)(挑戦状)を送り、項羽が攻めてくるのを待ち構えたら、どうだろう?

 

 こういうのを『以逸待労(いいつたいろう)』(兵を休ませ、敵の疲労を待つ)の計と言うんだろ?

 これなら確実に勝てるんじゃないかな。

 汝は、どう思う?」

 

 韓信は、首を振った。

「漢王様の(おっしゃ)る通り、それが理想的な策です。

 が、ひとつ問題があります。

 

 項羽は、あれほどの強さにもかかわらず、これまで何度も遠征して、そのたび撤退を余儀(よぎ)なくされてきました。

 その理由は、ひとえに兵糧(ひょうろう)が続かないからです。

 

 今となっては、項羽も自軍の欠点を思い知っているでしょう。

 特に今は、天下の諸侯が兵を合流させて、ここに駐屯しています。

 たとえ戦書(せんしょ)を送っても、項羽は、警戒して出てこないでしょう。

 

 そこで……

 臣が、別の策を考えました。

 

 漢王様。

 漢王様が、みずから軍を進めて、彭城(ほうじょう)の近くに陣を置いてください。

 目の前に漢王様がいるのを見れば、項羽は我慢(がまん)しきれなくなり、必ず打って出るでしょう。

 

 そのとき臣が調練(ちょうれん)した軍勢をぶつけ、()軍と戦います。

 この方法なら、項羽は二度と生きて帰ることは、できません」

 

 劉邦は、目を丸くした。

 要するに、韓信は……主君である劉邦その人を(おとり)にしようと言っているのだ!

 

 だが……

 考えてみれば、これは実に合理的だ。

 相手を釣り出す餌は、思わず食いつきたくなるほど魅力的なものでなければ意味がない。

 そういう意味では、項羽を誘い出す(おとり)として、劉邦以上にふさわしい者は、中国じゅう探しても見つかるまい。

 

 劉邦は、ニヤッ、と不敵な笑みを浮かべた。

「……おもしれえ。

 やってやろうじゃねえか!

 韓信! その方針で進めてくれ!」

 

 

   *

 

 

 それから、さらに数日が過ぎた。

 韓信は、諸侯軍の配置や指揮系統を整理し、100万の軍勢を手足のように動かせるまでに仕立(した)てあげた。

 

 韓信が指示ひとつ出せば、隊伍(たいご)は乱れず、旗幟(きし)はピタリと(そろ)い、進むも退()くも行くも止まるも自由自在。

 すべての部隊が整然と秩序(ちつじょ)を保っている。

 

 さすがは韓信。短期間で、見事な仕上(しあ)がりだった。

 

 そこで劉邦は、韓信のところへ張良を(つか)わし、慰労(いろう)のための酒と羊を(たまわ)った。

 韓信は喜んで拝領(はいりょう)し、その酒と肉を諸軍にも分け与えた。

 

 このとき、張良が韓信に(たず)ねた。

「大元帥。どうやら軍は完璧な仕上(しあ)がりとなったようですね。

 もう、すぐにでも軍を動かせそうですが、どうして、まだ進発しないのですか?」

 

 韓信は、うなずいた。

「兵を駐屯させる土地を決める時には、あらかじめ、土地の吉凶(きっきょう)を占っておかねば、なりません。

 

 そこで私は、数日前から多くの調査員を派遣(はけん)し、陽武(ようぶ)・徐州間の土地を調べさせております。

 まだ『これだ』という土地が見つかっていないのですが……

 

 ただ、九里山の南に、垓下(がいか)という所があります。

 丘は高く、(みね)険峻(けんしゅん)

 前方は兵を埋伏(まいふく)させるに良く、背後は敵を遮断する壁となる。

 

 この垓下(がいか)が良いのではないかと思い、今朝(けさ)から、さらに人を派遣(はけん)して詳しく調べさせています。

 まだ調査員は帰ってきていませんが、もし垓下(がいか)が思った通りの場所であれば、すぐにでも進発しようと考えております」

 

 張良は、にっこりと微笑(ほほえ)んだ。

「なるほど、そういうことでしたか。

 私が昨夜、天文(てんもん)を見たところ、漢の運勢は(はなは)(さか)んです。

 帝王の星たる紫微(しび)星(北極星)が大いに光り輝き、火・水・木・金・土の五星は、ますます明朗(めいろう)になっている。

 

 これはまさに、漢王様が大事業を成就(じょうじゅ)させ、連綿(れんめん)と続く統一帝国の基盤を作りあげて、子孫まで長く太平を享受(きょうじゅ)なさるという瑞祥(ずいしょう)でございましょう。

 近代の歴史においては、比べるものがないほどの、すばらしい運気です。

 

 大元帥も、すばらしい功績を、お早く立ててくださいませ。

 そうして天下に平和をもたらして、逆さ吊りにされるような苦しみから人民を救いなされば、私たちもまた、漢王様という龍にしがみつき、大元帥という鳳凰(ほうおう)にくっついて、遥か天の高みまで昇ることができます。

 

 そして我らは、(さか)んなる王朝の臣となる……すばらしいことだと思いませんか?」

 

 韓信は、自信たっぷりに、うなずいた。

「無論です。

 これだけの大軍を、いつまでもただ(たむろ)させておく手はありません。

 数日のうちに漢王様にお許しを得て、出発することにいたしましょう」

 

 張良は、成皋(せいこう)城の中に戻ると、韓信が言ったことを全て劉邦に報告した。

 

 

   *

 

 

 これに慌てたのは、()軍である。

 

 ()間者(かんじゃ)は、漢軍の動きを見ると、急いで彭城(ほうじょう)に帰り、項羽に報告した。

「劉邦は、天下の諸侯を集合させ、100万もの精兵を手に入れました!

 

 滎陽(けいよう)から成皋(せいこう)まで続く800里以上の道に、前後200ヶ所以上もの陣所を置き、夜は篝火(かがりび)の光が天を照らし、昼は軍旗が太陽を覆い隠し、もう、その勢いは以前の比ではありません!

 

 陳留(ちんりゅう)敖倉(ごうそう)からの兵糧(ひょうろう)輸送は、日夜、引きも切らず。

 韓信は毎日、軍馬を調練(ちょうれん)しております。

 

 あとは、吉日(きちじつ)を選んで陽武(ようぶ)大道(だいどう)から徐州へ兵を進ませ、覇王陛下と雌雄(しゆう)を決するのみ……という状況です!」

 

 項羽は、報告を聞いて、もってのほかに仰天(ぎょうてん)した。

 

 項羽は、声をあげて、大いに泣きはじめた。

 ()将項伯、項荘、季布、周蘭(しゅうらん)鍾離昧(しょうりまい)らは、項羽の泣き声を聞き、いったい何事(なにごと)かと駆けつけてきた。

 

「覇王様! 何を泣いておられるのですか?」

 

 項羽が答える。

范増(はんぞう)は、昔、言っていた。

 『劉邦の野望は小さなものではない。後日、必ず心腹(しんぷく)の害となる。早く殺して、(のち)(うれ)いを取りのぞけ』と……

 

 范増(はんぞう)が、もう何度かも分からないほど、繰り返し繰り返し俺を(いさ)めてくれたんだ。

 それなのに俺は! そんなに心配するほどでもないだろう、なんて軽く考えて、結局、范増(はんぞう)(いさ)めに従わなかった!

 

 今、劉邦は100万の精兵を集め、こちらへ攻め込んで来ようとしているらしい。

 俺の兵は、30万人にも満たない。

 これで、どうやって奴と戦えというんだ!

 

 なにもかも、范増(はんぞう)が言った通りになってしまった!

 すまない、亜父(あふ)……!

 俺が間違(まちが)っていたよ、亜父(あふ)……!

 俺は……なんてかけがえのない人を()くしてしまったんだ!」

 

 項羽は、地に倒れて慟哭(どうこく)した……

 

 諸将は、慌てて項羽に駆け寄り、助け起こした。

 そして、項羽を勇気づけようと、口々に策を述べた。

 

「覇王様。

 江東(こうとう)(長江東岸の一帯)は、覇王様が最初に兵を起こしたところで、人民の心は昔から覇王様によく(なつ)いています。

 使者を送って軍勢を招集すれば、会稽(かいけい)(項羽旗挙(はたあ)げの地)より南の土地だけでも数万の精兵を得られるでしょう」

 

「そうですとも。

 それに、周殷(しゅういん)舒六(しょりく)を防衛しており、これも数万の兵を持っています。

 周殷(しゅういん)に、救援に来るよう命令なさいませ。

 

 もし周殷(しゅういん)が出兵を(しぶ)るようなら、誰か大将を派遣して罪に問い、ついでに舒六(しょりく)周辺の郡県へ檄文(げきぶん)を送って合流を呼びかければ、これも数万の軍勢には、なるでしょう」

 

 項羽は、涙を(こぶし)(ぬぐ)いながら、立ち上がった。

周殷(しゅういん)は、長いあいだ舒六(しょりく)にいるが、あそこは英布の出身地だ。

 それで周殷(しゅういん)は、昔から英布と交流が深かったというじゃないか。

 

 英布は、もう漢に降ってしまった。

 となれば、周殷(しゅういん)が、1人だけ俺の方に残るはずがない。

 

 『狼子(ろうし)の野心、(つい)池中(ちちゅう)の物にあらず』と言う。

 狼の子のような狂暴な野心が、いつまでも狭い池の中に留まっているはずがない。

 ここは、そしらぬ顔をして周殷(しゅういん)を呼び出し、今のうちに殺してしまったほうがいいな」

 

 項伯が言う。

「は。陛下のお言葉は、極めて妥当かと思います」

 

 そこで、千戸(せんこ)(1000人前後の兵を統率する指揮官)の李寧(りねい)を使者として、周殷(しゅういん)の呼び出しと、周辺郡県からの徴兵(ちょうへい)を行うことになった。

 

 

   *

 

 

 李寧(りねい)は、項羽の(めい)を受けて舒六(しょりく)に行き、周殷(しゅういん)に対面した。

 李寧(りねい)が項羽からの檄文(げきぶん)を渡すと、周殷(しゅういん)は、さっそく開いて読み始めた。

 その文面は……

 

周殷(しゅういん)は、長いあいだ舒六(しょりく)を守ってきた。

 きっと、その兵馬は、かなりの練度(れんど)になっていることだろう。

 

 今、漢軍が()軍と会戦しようとしている。

 そこで千戸(せんこ)李寧(りねい)(つか)わし、この檄文(げきぶん)を送って要請する。

 

 星降る夜も(てっ)して、こちらへ来い。そして漢との決戦に参加せよ。

 

 かつて防風氏という神は、()王の招集命令に遅れて到着し、処刑されたという。

 もしお前が来なければ、お前も防風氏と同じ(てつ)を踏み、実際に罪を受けることになる。

 これは大げさに言っているわけではない。分かったな。

 (ゆえ)(げき)す』

 

 

(つづく)




●注釈
(1)
 項羽が、『狼子(ろうし)の野心、(つい)池中(ちちゅう)の物にあらず』という言葉を引用していた。これを読んで、『どうして狼の子が池の中にいるのか?』と首を傾げた方もおられたかもしれない。
 この前半部分『狼子(ろうし)野心』は、「春秋左氏伝・宣公四年」に見られる。狼の野性は、たとえ子狼の頃から人の手で育てたとしても消えることがない。だから決して飼いならすことができない。そういう意味の、当時の(ことわざ)らしい。
 後半部分の『(つい)池中(ちちゅう)の物にあらず』は、「三国志・呉志・周瑜魯粛呂蒙伝」にある。元の文章は『(おそ)らく蛟龍(こうりゅう)雲雨(うんう)を得ば、(つい)池中(ちちゅう)の物にあらざるなり』。三国時代の呉の将軍周瑜(しゅうゆ)は、『劉備という男は、放置しておけばいずれ呉国の脅威となる』と考え、劉備の懐柔を主君孫権に提言した。これはその上奏文の一部である。劉備を蛟龍(こうりゅう)(たと)えているのだ。
 なお、蛟龍(こうりゅう)とは龍の幼生のこと。中国の龍は水を(つかさど)る神獣であり、川や池には龍が住んでいると信じられていた。
 というわけで、本編の項羽は、上記のように全く別の文章2つを合体させていたのだ。おかげで狼の子は、いささか妙な状況に置かれるハメになってしまった。
 さらに、(しん)末の項羽が400年以上後の周瑜(しゅうゆ)の言葉を引用していることも、もちろん時代考証的におかしい。

(2)
 本編に千戸(せんこ)李寧(りねい)という人物が登場した。この千戸(せんこ)という役職は、本編のなかでも補足した通り1000人程度の部下を統率する武官である。ただし、本編の舞台となる楚漢戦争期にこの役職は存在しない。
 本編より1600年近く後、(みん)初代皇帝洪武(こうぶ)(てい)の時代に衛所(えいしょ)制という軍制が定められた。代々軍役を担う義務を負った軍戸という家を定め、有事の際には各軍戸から1名ずつ兵を出させる。112戸の兵からなる小部隊が百戸所。10の百戸所からなる中部隊が千戸所。5つの千戸所からなる大部隊が衛と呼ばれる。千戸は、千戸所の長を指す。
 「西漢通俗演義」では執筆当時である明代の地名や社会制度を反映した部分がある。これもその1つと思われる。

(3)
 項羽が周殷(しゅういん)に送った檄文(げきぶん)の中に登場した『防風氏』は、中国古代神話に登場する神の名である。「国語・魯語下」の中で、孔丘(こうきゅう)(孔子)が次のような神話を語っている。
 昔、()の開祖()王が、神々を会稽(かいけい)(ざん)に招集した。そのとき防風氏という神が一番遅れてきた。そのため()王は防風氏を処刑したのだという。
 つまり項羽は、この神話を引用することで『遅刻するんじゃないぞ』と周殷(しゅういん)に圧力をかけているのだ。
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