龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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六十九の丙 破滅への案内人

 

 

 虞姫(ぐき)から、項羽に書簡(しょかん)が届いた。

 

 項羽は、莞爾(にこっ)破顔(はがん)した。

虞姫(ぐき)からだって?

 ちぇっ! どうせ虞姫(ぐき)も、俺を(いさ)めようっていうんだろ」

 

 そんな悪態(あくたい)をつきながらも、項羽は、どこか嬉しそうですらある。

 項羽が書簡(しょかん)を開いて見ると、その文面は、次のようなものだった。

 

『昔、周の文王は后妃(こうひ)太姒(たいじ)諌言(かんげん)を聞き入れたことで聖人となり、大禹(だいう)は妻塗山(とざん)氏の送った箴言(しんげん)(教訓)を読んで()王朝を(おこ)したといいます。

 (いにしえ)より、(いさ)めに従うことなく国を創始しえた帝王は、1人もおりません。

 

 (わたし)は女でございますから、遠大なる見識など持っておりません。

 しかし、最近、耳にしたところでは、漢の大将韓信が、百もの計略を仕掛(しか)けているそうです。

 

 ならば当然、防備を固めなければ、なりません。

 周蘭(しゅうらん)たちの言葉は、1字1字に大切な意味が込められております。

 本当に、心からの忠義で申し上げたことなのでしょう。

 陛下も、彼らの諌言(かんげん)をお聞きにならないわけには、いきますまい。

 

 ましてや今日、軍を進めるにあたり、大風が旗を折り、烏騅(うすい)が長く(いなな)きました。

 これは、上天がお示しになった警告でございます。

 

 陛下は退(しりぞ)き、自重(じちょう)なさるべきと思います。

 数々の凶兆(きょうちょう)を、『ごく普通の出来事(できごと)だ』などと言って、ないがしろにして良いはずがありましょうか』

 

「うーん……」

 項羽は、虞姫(ぐき)からの書簡(しょかん)を読み、再び迷いはじめた。

 しばらく項羽が考え込んでいると……

 

 ()()(しゃ)が急に走り出てきた。

「覇王様! 吉報でございます!

 さきほど、臣の従者が(はい)の様子を見て参りました。

 その報告によると、劉邦はすでに軍勢を(ひき)いて成皋(せいこう)への帰路(きろ)につき、韓信もまた兵を後退させはじめている、とのことです。

 

 臣が推測いたしますに、漢軍は兵の数が極めて多いため、兵糧(ひょうろう)が続かなくなったのでしょう。

 『()の大軍と戦いになったら、持ちこたえられない』と恐れているに違いありません。

 

 兵法にも、『兵多ければ将(わずら)う』と申します。

 兵が多ければ多いほど、大将には心配事が増えるもの。

 まして食糧が無くなれば、なおさらでございます。

 

 覇王様! 敵の食糧が尽きた今、三軍を進ませて攻撃すれば、敵は戦うまでもなく勝手に乱れていくでしょう。

 さすれば必勝でございます!」

 

 項羽の顔に、パッと明るく光が差した。

「そうか! そりゃあいい。

 よし、やっぱり行くぞ!」

 

 こうして()軍は、前進を続けることになった。

 そうこうするうちに、()軍の先頭は、彭城(ほうじょう)から50里(20km)以上も離れた所まで進んでしまった。

 

 ここまで来ると、いまさら引き返すというのも、逆に難しい。

 漢軍は、もう、すぐ近くにいるはずなのだ。

 こちらが後退しようとモタついている所へ攻撃を仕掛(しか)けられたら、かえって大被害を(こうむ)ることになる。

 

 そのため、再び項羽を(いさ)めようという者も現れず……

 ()軍は、そのまま前進していったのだった。

 

 

   *

 

 

 次の日。

 

 ()軍は沛県(はいけん)に到着し、(はい)城から50里(20km)離れたところに拠点を作った。

 

 項羽は、拠点から(ひそ)かに間者(かんじゃ)を放ち、漢軍の様子を(さぐ)りはじめた。

 劉邦は、今どこにいるのか?

 韓信は、何をしているのか?

 

 しばらくして、間者(かんじゃ)たちが戻ってきて、報告した。

「劉邦は、(はい)の城から60里離れた棲鳳(せいほう)()という斜面に陣を置いています。

 劉邦は、そこで1日じゅう酒を飲んで大声で歌っています。

 しかし、各地の人馬は()えず互いに連絡しあっており、その数も、まるで雲霞(うんか)のようです。

 

 一方、韓信は、九里山の東に大きな要塞(ようさい)(かま)えています。

 四方の門を大きく開き、人の往来(おうらい)を禁止することもなく、活発に動き回っています。

 見たところ、日夜、軍馬の調練(ちょうれん)をしているようで……

 とても退却準備を進めているようには見えません」

 

 項羽は、顔色を変えた。

「ハァ!?

 ()()(しゃ)の話と全然ちがうじゃないか!

 一体どういうことだ……おい、()()(しゃ)!」

 

 と、項羽は左右の群臣を見回したが、()()(しゃ)の姿が見当たらない。

 

()()(しゃ)! どこにいる! ()()(しゃ)っ!」

 項羽は、5回、6回と繰り返し()()(しゃ)の名を呼んだが、まったく返事がない。

 

 項羽はイラだって、部下に(めい)じた。

「おい! ()()(しゃ)を連れてこい!」

 

「はっ!」

 すぐさま部下が駆けていき……

 

 しばらくして、部下は、青ざめた顔で帰ってきた。

()()(しゃ)は、昨晩、従者を連れて陣の外に出て行ったそうです。

 それがいまだに帰ってきておらず……誰も()()(しゃ)行方(ゆくえ)を知らないようです!」

 

 ついに項羽は、事態を悟った。

 項羽は歯ぎしりし、足で地面を踏みしめ、激怒して叫んだ。

 

()()(しゃ)め!

 さては韓信の間者(かんじゃ)だったんだな!?

 俺の陣の内情を調べるために降参すると嘘をつき、俺を(だま)して、この場所まで誘い出したんだ!」

 

 群臣の中に、ざわめきが広がった。

 

 その中に、顔面蒼白(そうはく)となっていた者が1人いる。

 項羽の叔父(おじ)、項伯である。

 

 (あん)(じょう)、項羽は項伯に怒鳴(どな)りつけた。

「おい項伯ッ!

 汝は()()(しゃ)の来歴を、きちんと調べもしないで、軽々しく推薦(すいせん)しやがったんだな!?

 

 おかげで俺は、奴の(たく)みな言葉に(だま)されて、とんでもない間違(まちが)いを、してしまった!

 これは全部、汝の罪だぞッ!」

 

 項伯は、脂汗(あぶらあせ)をビッシリと浮かべながら、平伏した。

「申し訳ございません!

 ()()(しゃ)の名声に(まど)わされ、奴の計略にハメられてしまいましたっ……

 まことに、これは臣の罪でございますっ……!」

 

 これほど低姿勢に謝っても、項羽の怒りは、まだ収まらない。

 

 そこで、大将周蘭(しゅうらん)が項羽を(いさ)めた。

「覇王様。

 項司馬(しば)(項伯)は、ひたすら忠誠心によって国のために人材を選んだのです。

 

 確かに()()(しゃ)の真意を調べきれず、軽率に推挙(すいきょ)したかもしれません。

 しかし、それは一時(いちじ)(あやま)ちです。

 決して重罪に処してはなりません。

 

 それよりも重大なのは、覇王様が、すでにここまで来てしまった事実です。

 敵の目の前で急に退却すれば、大きな(すき)(さら)すことになります。

 となれば、戦うしか道はありません。

 

 とにかく今は、敵を破る計略を考えることに集中いたしましょう。

 過ぎたことを悔やんでも利は無いのですから」

 

 項羽は、うなった。

 確かに周蘭(しゅうらん)の言う通りだ。

 いま項伯を処罰しても、なんの利益も無いどころか、敵を喜ばせるだけではないか。

 

 ようやく項羽は怒りを収め、項伯の罪を責めないことに決めた。

 そして、今まで項羽に『引き返すべきだ』と諌言(かんげん)し続けてきた季布や周蘭(しゅうらん)に対して、先見の明があると賞賛し、厚く恩賞を与えた。

 

 

   *

 

 

 項羽は、そのまま軍議に集中し……

 夜になって、自分の幕舎(ばくしゃ)に戻ってきた。

 

 幕舎(ばくしゃ)の中では虞姫(ぐき)が項羽を待っていた。

 項羽は、苦々しげに虞姫(ぐき)から目をそらした。

 

()()(しゃ)が投降してきたのは、俺を、この場所まで誘い出す策だったらしい。

 ……すまん。

 汝の諌言(かんげん)に従わなかったせいで、俺は敵の計略に(おちい)ってしまった」

 

 虞姫(ぐき)は、慈母(じぼ)の如く微笑(ほほえ)んだ。

(わたし)のことなど、気になさらないで。

 それよりも陛下、今はただ諸将と心を同じくし、力を合わせ、敵を破ってくださいませ。

 (わたし)は、陛下が()の平和を取り戻し、凱歌(がいか)(かな)でてくださるのを、心待ちにしておりますわ」

 

 項羽は、うなずいた。

「大事な奥様の(おっしゃ)ることは、俺の考えとピッタリ同じだぞ」

 

 そして2人は、仲良く笑い交わしたのだった。

 

 

(つづく)




●注釈
 虞姫(ぐき)が項羽へ送った書簡(しょかん)に、文王の后妃(こうひ)太姒(たいじ)大禹(だいう)の妻塗山(とざん)氏の名が登場した。この2人は、古くからいわゆる良妻賢母の代表とされてきた人物。「烈女伝」は史上・伝説上の高名な女性にまつわる逸話がまとめられた書物だが、その中の「烈女伝・母儀伝」に太姒(たいじ)塗山(とざん)氏について書いた部分がある。
 太姒(たいじ)は心優しく聡明な女性だった。文王に(とつ)いだ後、伯邑考(はくゆうこう)、武王、周公旦(しゅうこうたん)など合計10人の男子を出産した。太姒(たいじ)が育てた子供たちは、誰1人として(よこしま)な性癖を持つことがなかった。そのおかげで、子供たちは素晴らしい人物になれたのだという。
 塗山(とざん)氏は、()と結婚した後、息子の(けい)を生んだ。しかしそれからわずか4日後、まだ赤ん坊が泣いている時に、()は治水工事のため家を離れてしまった。以来13年、()は自分の仕事に没頭し、1度も家に帰ってこなかった。その間、塗山(とざん)氏は1人で息子を教え育てた。おかげで啓は、立派な跡継ぎへと成長していったのだという。(第六十五回注釈参照)
 話は変わるが、この虞姫(ぐき)書簡(しょかん)に『(わたし)は女でございますから、遠大なる見識など持っておりません』という文章もあった。これは「西漢通俗演義」の原文『妾本婦人、無遠大見』を訳したものである。こういう謙遜(けんそん)も、現代の価値観で言えば明確な女性差別にあたるだろうが、可能な限り原典の表現を尊重する方針に従ってそのまま記した。ご了承いただきたい。
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