虞姫から、項羽に書簡が届いた。
項羽は、莞爾と破顔した。
「虞姫からだって?
ちぇっ! どうせ虞姫も、俺を諌めようっていうんだろ」
そんな悪態をつきながらも、項羽は、どこか嬉しそうですらある。
項羽が書簡を開いて見ると、その文面は、次のようなものだった。
『昔、周の文王は后妃太姒の諌言を聞き入れたことで聖人となり、大禹は妻塗山氏の送った箴言(教訓)を読んで夏王朝を興したといいます。
古より、諌めに従うことなく国を創始しえた帝王は、1人もおりません。
妾は女でございますから、遠大なる見識など持っておりません。
しかし、最近、耳にしたところでは、漢の大将韓信が、百もの計略を仕掛けているそうです。
ならば当然、防備を固めなければ、なりません。
周蘭たちの言葉は、1字1字に大切な意味が込められております。
本当に、心からの忠義で申し上げたことなのでしょう。
陛下も、彼らの諌言をお聞きにならないわけには、いきますまい。
ましてや今日、軍を進めるにあたり、大風が旗を折り、烏騅が長く嘶きました。
これは、上天がお示しになった警告でございます。
陛下は退き、自重なさるべきと思います。
数々の凶兆を、『ごく普通の出来事だ』などと言って、ないがしろにして良いはずがありましょうか』
「うーん……」
項羽は、虞姫からの書簡を読み、再び迷いはじめた。
しばらく項羽が考え込んでいると……
李左車が急に走り出てきた。
「覇王様! 吉報でございます!
さきほど、臣の従者が沛の様子を見て参りました。
その報告によると、劉邦はすでに軍勢を率いて成皋への帰路につき、韓信もまた兵を後退させはじめている、とのことです。
臣が推測いたしますに、漢軍は兵の数が極めて多いため、兵糧が続かなくなったのでしょう。
『楚の大軍と戦いになったら、持ちこたえられない』と恐れているに違いありません。
兵法にも、『兵多ければ将累う』と申します。
兵が多ければ多いほど、大将には心配事が増えるもの。
まして食糧が無くなれば、なおさらでございます。
覇王様! 敵の食糧が尽きた今、三軍を進ませて攻撃すれば、敵は戦うまでもなく勝手に乱れていくでしょう。
さすれば必勝でございます!」
項羽の顔に、パッと明るく光が差した。
「そうか! そりゃあいい。
よし、やっぱり行くぞ!」
こうして楚軍は、前進を続けることになった。
そうこうするうちに、楚軍の先頭は、彭城から50里(20km)以上も離れた所まで進んでしまった。
ここまで来ると、いまさら引き返すというのも、逆に難しい。
漢軍は、もう、すぐ近くにいるはずなのだ。
こちらが後退しようとモタついている所へ攻撃を仕掛けられたら、かえって大被害を蒙ることになる。
そのため、再び項羽を諌めようという者も現れず……
楚軍は、そのまま前進していったのだった。
*
次の日。
楚軍は沛県に到着し、沛城から50里(20km)離れたところに拠点を作った。
項羽は、拠点から密かに間者を放ち、漢軍の様子を探りはじめた。
劉邦は、今どこにいるのか?
韓信は、何をしているのか?
しばらくして、間者たちが戻ってきて、報告した。
「劉邦は、沛の城から60里離れた棲鳳坡という斜面に陣を置いています。
劉邦は、そこで1日じゅう酒を飲んで大声で歌っています。
しかし、各地の人馬は絶えず互いに連絡しあっており、その数も、まるで雲霞のようです。
一方、韓信は、九里山の東に大きな要塞を構えています。
四方の門を大きく開き、人の往来を禁止することもなく、活発に動き回っています。
見たところ、日夜、軍馬の調練をしているようで……
とても退却準備を進めているようには見えません」
項羽は、顔色を変えた。
「ハァ!?
李左車の話と全然ちがうじゃないか!
一体どういうことだ……おい、李左車!」
と、項羽は左右の群臣を見回したが、李左車の姿が見当たらない。
「李左車! どこにいる! 李左車っ!」
項羽は、5回、6回と繰り返し李左車の名を呼んだが、まったく返事がない。
項羽はイラだって、部下に命じた。
「おい! 李左車を連れてこい!」
「はっ!」
すぐさま部下が駆けていき……
しばらくして、部下は、青ざめた顔で帰ってきた。
「李左車は、昨晩、従者を連れて陣の外に出て行ったそうです。
それがいまだに帰ってきておらず……誰も李左車の行方を知らないようです!」
ついに項羽は、事態を悟った。
項羽は歯ぎしりし、足で地面を踏みしめ、激怒して叫んだ。
「李左車め!
さては韓信の間者だったんだな!?
俺の陣の内情を調べるために降参すると嘘をつき、俺を騙して、この場所まで誘い出したんだ!」
群臣の中に、ざわめきが広がった。
その中に、顔面蒼白となっていた者が1人いる。
項羽の叔父、項伯である。
案の定、項羽は項伯に怒鳴りつけた。
「おい項伯ッ!
汝は李左車の来歴を、きちんと調べもしないで、軽々しく推薦しやがったんだな!?
おかげで俺は、奴の巧みな言葉に騙されて、とんでもない間違いを、してしまった!
これは全部、汝の罪だぞッ!」
項伯は、脂汗をビッシリと浮かべながら、平伏した。
「申し訳ございません!
李左車の名声に惑わされ、奴の計略にハメられてしまいましたっ……
まことに、これは臣の罪でございますっ……!」
これほど低姿勢に謝っても、項羽の怒りは、まだ収まらない。
そこで、大将周蘭が項羽を諌めた。
「覇王様。
項司馬(項伯)は、ひたすら忠誠心によって国のために人材を選んだのです。
確かに李左車の真意を調べきれず、軽率に推挙したかもしれません。
しかし、それは一時の過ちです。
決して重罪に処してはなりません。
それよりも重大なのは、覇王様が、すでにここまで来てしまった事実です。
敵の目の前で急に退却すれば、大きな隙を晒すことになります。
となれば、戦うしか道はありません。
とにかく今は、敵を破る計略を考えることに集中いたしましょう。
過ぎたことを悔やんでも利は無いのですから」
項羽は、うなった。
確かに周蘭の言う通りだ。
いま項伯を処罰しても、なんの利益も無いどころか、敵を喜ばせるだけではないか。
ようやく項羽は怒りを収め、項伯の罪を責めないことに決めた。
そして、今まで項羽に『引き返すべきだ』と諌言し続けてきた季布や周蘭に対して、先見の明があると賞賛し、厚く恩賞を与えた。
*
項羽は、そのまま軍議に集中し……
夜になって、自分の幕舎に戻ってきた。
幕舎の中では虞姫が項羽を待っていた。
項羽は、苦々しげに虞姫から目をそらした。
「李左車が投降してきたのは、俺を、この場所まで誘い出す策だったらしい。
……すまん。
汝の諌言に従わなかったせいで、俺は敵の計略に陥ってしまった」
虞姫は、慈母の如く微笑んだ。
「妾のことなど、気になさらないで。
それよりも陛下、今はただ諸将と心を同じくし、力を合わせ、敵を破ってくださいませ。
妾は、陛下が楚の平和を取り戻し、凱歌を奏でてくださるのを、心待ちにしておりますわ」
項羽は、うなずいた。
「大事な奥様の仰ることは、俺の考えとピッタリ同じだぞ」
そして2人は、仲良く笑い交わしたのだった。
(つづく)